南雲のことをなにも知らなかった話/20250216
マンションを出ると、道ばたにはまだほんの少しの雪がつもっていた。息を吐けばしろく、手はかじかむ。真冬の早朝はきんと響き渡るような寒さをしている。
はっぱを落とし、丸裸になった枯木立が目立つ街で、いま厚着なのは南雲くんと私だけのような気がした。さっきまで私たちも裸だったのにと思うとどこかおかしい。
ぼんやりと足もとを見て歩く。足音はふたりぶん。でも気分はひとりぼっちだった。南雲くんと一緒にいるときは、朝であれ、夜であれ、必ず夕暮れのなかで置いてけぼりにされたような心地になる。傍にいても、そこはかとない不安やさみしさがいつだって胸に押し寄せた。
この人とつきあえたら。身体だけの関係を終わらせられたら、不安も解消されるんだろうか。もしもの未来を想像してみたって、はっきりするものはないけれど。
「考えごとー?」
真上から降るように声が聞こえて顔をあげた。鼻がしらを少しだけ赤くした南雲くんが、寒そうに首をすくめながらこっちを見ている。
「ううん。ぼうっとしてただけ」
私は南雲くんのとなりを歩いていたはずなのに、気づけばささやかな距離ができていた。いつのまにか歩みを遅くしてしまったらしい。
「そ?ならいいけど」
南雲くんは、私が追いつくのを待ってから再び歩きだした。空っぽの彼の手に指を絡めてみると、めずらしいね、どうしたの? なんて軽いくちぶりで問いかけられる。
また首をふって、握り返された手をきつく繋いだ。昨日の夜からふたりでベッドにもぐりこみ、たくさんもつれ合ったものの、まだまだぜんぜん南雲くん不足で仕方なかった。さっき、行為が終わって間もないころ、「朝ごはん食べにカフェに行こう」と提案したのは私のほうなのに。こんなふうに出かけたりなんかせず、もう一回すれば満足がいったんだろうか。そのままさかいめがなくなるくらい、ふたりでまざり合ってしまえば。
でもわからない。何度しても不足が埋まらないとすれば、何度も求めるのは嫌だ。なにより、ゆうべひさしぶりに会いに来たと思ったらあちこちを包帯だらけにしていた南雲くんに、負担をかけたくはなかった。いくら「怪我しちゃった〜」と、なんてことのない口調で笑ってみせられたとしても。
ただ、それでもすることがなくなったからといって別れるのは惜しくて、なにかでひきとめていたくて、じゃあまたねと言えないままこうしてカフェをめざして歩いている。
正直なところ、行き先はどこでもかまわなかった。むしろどこへ行けなくてもよかった。終着点があってもなくてもいい。傷を負った原因どころか、普段はなにをしているのかさえ詳しくは教えてくれない南雲くんが、私の傍にいるのなら。
「ナマエちゃん」
地面ばかり見ていたから、呼びかけてくる声がやけに小さく聞こえた。立ち止まった南雲くんにつられて足を止め、顔をあげる。見詰められると、夜明けに似たまなざしが近くなったようだった。
「本当はなにか、難しいこと考えてるでしょ」
「……そんなこと」
ついしどろもどろになる。口よどんでしまっては、イエスと返答するのと同義なのに。
だけど南雲くんは踏み入ってはこなかった。数秒間、ふたりともが無言で、つめたい空気をありのまま浴びた。
「ね、ナマエちゃん。このまま帰らない?」
先に沈黙をやぶったのは私じゃなく。
「外で食べるのもいいけどさ。朝ごはんはデリバリー頼んで、今日はふたりでいようよ」
手をほどき、南雲くんと向かい合う。朝の太陽が乱立するビルに反射してまぶしい。目をすがめると、ね? と首をかしげる彼の姿はわずかにぼやけて見えた。光を浴びて輪郭を溶かす南雲くんの、長めの髪の毛が、風になびいた。
「ふたりで?」
「そ〜」
変なことを言うなあ、と感じる。だって私たちはいまもふたりでいる。とはいえ、南雲くんのひとことがさっぱりわからないわけでもない。外にいては、完璧にふたりっきりだとは言えないから。
「それに。ナマエちゃんとも……まだし足りないし」
南雲くんに片手を取られ、手のひらの大きさも、指の長さもふぞろいな手同士が重なった。骨ばった指で皮膚をさすられればくすぐったい。今朝とおんなじだ。裸になっているときと、同じさわり方。
また、さみしさが降りつもる。私たちのあいだにあるのは結局身体の繋がりなのだと、現実をつきつけられてしまう。
「……もうしないよ。これ以上は南雲くんの傷に響いちゃう」
「大丈夫なのに〜」
しないと言いながらも、本当ならすぐさまうなずいて、来た道を戻り、全身を熱にひたしたいと渇望している私はなかなかに滑稽かもしれない。どれほどこの人の身を案じても、関係性を憂いても、じゃれていたい欲求に負けかかる。
「もしかして南雲くん、あんまりおなか空いてない?だったらカフェ行かないで、ここでばいばいでもいいよ」
合わせなくていいよ、だってこのあとはもうしないんだし、という意味をこめて言えば、私の唇からもれた虚勢は白色の吐息となってにじんだ。軽い調子で強がりながらも、表情が引き攣っているんじゃないかということが気掛かりで情けない。
「なにそれ」
一方で南雲くんは、声のトーンを低くした。
「今日は充分した、だから僕はもう用無しってこと?」
「へ、」
「ナマエちゃんの気が済んだらそれで終わり?」
「ちが……」
「やっと会えたのに、することだけしてハイさよなら〜はさすがにひどくない?ていうか、もしおなかいっぱいだったとしても僕はカフェに行くよ、ナマエちゃんが行くなら。それもだめとか言わないでよね〜」
「ちょ、っと待って」
「なあに」
ヒートアップしていく彼にストップをかける。なんだかこれじゃあ、私が身体目当てみたいだ。
「だめじゃないよ、ただ」
「ただ?」
「あとで、……その。そういうことしないのに、いいのかなって」
「はー?!」
いいに決まってるじゃん!わずかに眉間をよせ、彼は驚いた様子で口にする。ちょっと怒っている顔つきでもあった。
「そっか、いいんだ……」
つぶやくと、変にしりすぼみになってしまう。
下げた目線の先には南雲くんの腕。コートから出ている、いろんな記号の彫られた指先がふいに動く。そうして、頬をさすられて、瞳を上げた。
「……ごめんね」
「どうして謝るの」
「僕が言葉足らずだったって、いまわかった」
やっぱりナマエちゃんの言ってたカフェ行こ、そしたら焼きたてのパンかなにか買って帰ろう、家で絶対ちゃんと話そ、と促され、ふたりでまた歩きだす。今度は南雲くんから、手を繋ぎとめられる。
「デリバリーじゃないの?」
「うん。ナマエちゃんの行きたがったところは全部行きたいし、ナマエちゃんが言い出したことは全部聞いてあげたくなった」
言い分におもわず口角をあげれば、不服そうなまなざしが向けられた。本気なんだけど、と。
直後、指が互い違いに噛み合う繋ぎ方に変わった。こっちのほうがいい、なんて子供じみたトーンで伝えてくる彼の身体に、これ以上の傷がつかなければいいと思う。そうお願いしたら、南雲くんは聞いてくれるんだろうか。
繋いだ手を握りしめた。この人が普段はどんなことをしてるのか、なにで食べていっているのか、私たちの関係性はなんなのか、不確かなことだらけだけれど。あいまいな部分ごとを、きちんと握りしめた。それらはすべて、たぶん今日ではっきりする。
凍える寒さのなか、片側の手だけ陽が射したみたいにあたたかい。ぬくもりは目には見えないものの、存在が確立されているから不思議だ。触れ合ったぶん生まれる温度はびっくりするほど優しかった。
いまさらになり、私はひとりぼっちじゃなかったと気がつく。だってこんなあったかさは、ひとりじゃ持ち得ないものだ。けっして。
ふと視線を落とすと、名残惜しそうにつもるまっさらな雪に太陽がきらきら当たっていた。今日はきっとこのまま晴れが続く。雪どけは、だからわりと早いかもしれない。
前に向き直る。街がめまぐるしく動き出している。こぼれる朝陽に照らされる景色は、とても明るかった。