弱った南雲に甘えられる/20250222
残業を終え、帰ろうと立ち上がったときだった。びっくりした、と言う間もなく背後から腕をまわされた。人が後ろに立った気配もなく、音さえも聞こえなかったせいで心臓はばくばくとうるさく鳴っている。だけど状況を理解すれば、後ろの正面にいるのが誰なのかなんて、すぐわかる。
糊のきいたブラックスーツの袖が、視界の端を通った。わたしのおなかの前まで伸びる腕。その先につながる、たくさんの記号が彫られた指も目にとまる。
「ナマエちゃーん……」
頭の上から言葉が降った。あごを、つむじのあたりに乗せられているためだ。腕を絡めてくる犯人は予想どおり、南雲さんだった。
彼の声には快活さがまるでない。枯れ果てた冬の風みたいだし、春の雨に鬱屈として吐くため息にも似ている。
「お疲れさまです。いま戻ったんですか?」
たずねるものの、返事はなかった。
だから結局、わたしはされるがままでいようと決めた。幸い同僚たちはみんなすでに帰っていて、わたしたちはふたりきりの空間にいる。それに、南雲さんが後ろから覆いかぶさってくるのは、たいていがおそろしく疲弊しているときだ。じゃなければこんなふうに甘えたりしてこない。けっして。
与えられる重みを黙って受け止める。その肩に乗っかるものまでは、持ってあげられないけれど。たとえいっしょに背負いたいと願っても。
「南雲さん」
「んー……」
「そっち向いてもいいですか」
わずかな静寂。
何秒間かの無言ののちに、南雲さんは「だめ」とつぶやいた。
「僕、いましなしなだからさ〜」
「しなしな?」
「かっこ悪い顔してるから。見せられない」
いいのに、と思う。そんなの、いくらでも見せてくれたらいいのにと。
でも言わないで、わたしも腕を伸ばした。南雲さんの後頭部のあたりに手のひらを這わせる。自分のものとは違う手ざわりの髪の毛に、指を絡ませ、毛先を梳いた。こうして撫でるのは初めてのことかもしれない。ふたりで家にいても、ベッドのなかでも、撫でてくれるのはいつだって彼のほうだった。
「……ナマエちゃん、」
甘ったるい呼び声が耳たぶをかすめる。南雲さんの、わたしの名前を呼ぶときの、すこし低くなる声が好きだ。ありったけの優しさをかき集めたように呼んでくれるから、自分の名前が素敵な音のかたまりに思える。
「ありがとね」
淡い囁きは、とてもかすかなボリューム。だけどもう、さっきまでの薄弱さはなかった。
つむじの上が軽くなる。腕も離れていく。今度こそふり向くと南雲さんはもう、いつもどおりの
表情をしていた。憔悴しきった様子はない、目が合えば口角を上げて、ゆるい笑みをたたえてみせる。この人はたぶん、きっと、わたしの目の前では泣いてくれない。そのことを淋しいと感じるのは、わがままなんだろうか。
「ね、ナマエちゃん、今日一緒に帰ろ」
すり、と頬をさすられた。潔白とはいえない、うしろ暗い殺し屋の手。だけどわたしにとっては守りたくて仕様のない手だ。
「はい」
うなずくと、タトゥーのある指が動き、わたしの髪を小さくもてあそんだ。そのまま耳にかけられて、耳輪をなぞられて。耳たぶをいじられればくすぐったさに肩がはねた。
「あは。かわいー」
と、彼は笑う。そうしてやっぱりひどく優しい声でわたしの名前を口にした。ずっと聴いていたくなって、もっと呼んでとねだれば欲張りさんだなあなんて返されるから、本当にその通りだと感じてわたしも自然と笑ってしまった。