13:04 あとでね
2025.03.09





 体内までを消毒するようなつんとしたにおいが鼻をつく。簡易的な救護室はやけにしんとしていた。医務室とちがい、医師やほかの怪我人がいないせいだ。
 壁も、天井も薬品棚もひとまとめになったカーテンも、私の座るパイプベッドのシーツも白い。そのためか、窓越しの晴れ空と、目の前にいるスーツ姿の男──南雲さんの存在だけが、ひときわあざやかに映るようだった。
 スーツのジャケットも、ワイシャツも脱ぎはらってキャミソール一枚でいる私の肌に、タトゥーの彫られた指が近づく。終えたばかりの任務でヘマをした証、おおくの傷へ消毒薬の付着した脱脂綿を当てられると顔が歪んだ。

「痛い?」
「平気です」

 あとちょっと我慢だよ〜、と、抑揚のない声でつぶやかれる。目をあげれば、南雲さんは私の素肌を、酸化した血のへばりつく怪我を見詰めていた。
 キャミだけの、肌がほとんどむき出しの状態でいれば傷跡はよく見える。皮膚には擦り傷や切り傷以外にアザなんかも残っていて、情けなさに襲われた。

「ん、」

 かさついた武骨な指が、はだいろの部分をぬるりとすべる。消毒が終わり、次は軟膏を塗られていく。クリームはつめたいけれど、肌に塗布されればすかさずあたたまった。

「南雲さん、もう大丈夫です、これぐらいはひとりでやれま」
「うん」

 やれますから、そう言って軟膏を受け取ろうとしたものの、食い気味に返事をされて口を噤む。軟膏も渡してはもらえず、結局手当てを任せることになってしまう。不甲斐なさまでもが降りつもり、肩は無性に重たくなった。だって南雲さんには、私が任地で犯した失態の後処理もしてもらったというのに。
 二の腕、鎖骨。彼の指先に皮膚をうすくなぞられる。軽いさわり方はくすぐったい。記号のある指が動くのを目で追うと、南雲さんがふれた箇所は、ぬめりけをおびててらてらとしている。

「ぁ」
「……もしかしてここは痛む?」
「い、いえ、」
「そ? じゃあいいけど〜」

 指先は鎖骨の下を通った。心臓の近くを。

「もう少しで終わるから。ちゃんと我慢、できるよね」

 うなずきながらもこそばゆさに目をすがめれば、正面の黒髪がにわかにぼやけた。さっきまで視線でふれられていた部分に直接指を当てられると、怪我がジクジクするみたいで、小さな眩暈をおぼえる。
 最後、深い傷にはガーゼを貼り、片腕には包帯をまいた。ただしこまかな傷跡は依然としてあらわになっていて、私の体はみすぼらしい。
 謝罪とお礼を伝えたあと、ヘッドボードにかけてあった替えのシャツを取る。傍らでは影が揺れた。ベッド脇の丸イスに座っていた南雲さんが、おもむろに立ち上がったのだった。彼は備えつけの洗面台へと向かう。流水音が聞こえだす。
 再びイスに腰をおろした南雲さんに、ジ、と視線を向けられた。ぬばたまの毛先とおんなじ、つややかな夜の光をたくわえた瞳が私の体じゅうを伝う。シャツの下、あちこちに巻かれた包帯を透視するように。救護室は音がない、いやにしずかなせいで、お互いのまばたきさえもが響きそうだ。たっぷり張った水がいまにもあふれようとしている、そんな気配と似た空気になんとなく息がしづらい。

「馬鹿なんじゃない」

 丸々五秒間こちらへ視線を注ぎ、南雲さんはひとこと吐き出した。平坦でシビアなトーンだった。漆黒のまつげが、彼の血色のない頬に影を落としている。

「ばか……?」
「今日の任務、最終的に八対一でやってたでしょー」
「……はい」
「なんでいけると思ったの? きみ、そんなに強くないのに」

 丸イスががたん、と不興げな音をたてた。足を組んだ南雲さんは返り血の一滴も浴びていない。いつものように。その絶対的な強さを羨ましいと感じるし、妬ましいとも感じる。私だって同じくらいの力が欲しい、だからひたむきに走ってきた。

「初めはひとりじゃありませんでした」
「知ってる。僕が上に顛末書出したんだから」
「でも、私だけが生き残った。だから私が」
「きみが?」

 南雲さんは腿の上に両腕を乗せて背を丸めた。そのぶんだけ距離が近づき、じりじりと迫られているようで気後れしてしまう。あごを引かれれば睨みあげられるみたいだった。

「いったん身を引こうとか考えなかったわけ?」

 低いボリューム。落ち着いた声色に問われる。

「ひとりでも突破できる算段だった? 勇敢なのはいいけどさ。きみまで死んでたかもしれないんだよ、ねえ。わかってる?」

 失策を詫びることもできずに沈黙をつらぬく私は、あまりにも子供じみている。先の任務で負傷し、私は方方ほうぼうに迷惑をかけた。だったらこうして叱られるのもあたりまえだし、南雲さんの言い分は至極まっとうであると、頭ではわかってるのに。
 なにも殺し屋じゃなくても、ほかにも生きる道はあるだろう。いつか上司に向けられた言葉が鮮度をたずさえて脳裏をよぎる。言外に引退しろと匂わせるそれは、きっと最善のアドバイスだった。だって私は殺し屋に向いていない。そんなこと、自分でもとっくに理解していた。どれだけ精一杯走ろうとも、南雲さんや実力のある人たちには追いつけない。
 でも、私は別の道を知らないから。陽のあたる場所を上手に歩くなんて、いまさら困難だ。それに、世の秩序を維持するためにあるこの会社が、日陰に置かれた自分の居場所が、けして嫌いではなかった。もちろん、ともに働く同僚たちのことも。
 だから許せなかった。一緒に武器を構えた同期が目の前で殺られたこと。亡骸を見下し、弱ェ〜、と口笛でも吹くみたいに嘲笑したターゲットのこと。相手が何人いようと、全員殺してやりたかった。たとえ自分が、使いものにならなくなったとしても。

「……敵わないとは何度も感じました。ただ、限界まで踏ん張っただけです。それってだめなことですか?」

 社会人にもなって、おそろしく無様ないいわけをする。勝機も活路も見いだせないまま自ずと窮地につっこんでいくなんてだめに決まってるし、南雲さんの言うとおり、今回は早急に退陣するべきだった。
 だけど、あの場で引いたら。しっぽを巻いて逃げ帰ってしまったら。

「死んだ子を置いていけない、みすみす退却したらみんなの無念を晴らせない、とか思った?」
「……へ」

 するりと伸ばされた腕。頬をさすられて、いつのまにかうなだれていた顔を上げる。南雲さんと、また、目が合う。彼はちょっと困ったような面持ちをしていた。

「当たりでしょ〜。同行してた人のなかにはきみのお友達もいたし」

 当たり、だ。目を見ひらくと、やれやれといったふうに首を振られる。

「きみってほんとわかりやすいよねー。ついでにばかだし向こう見ずでお人好し」

 ひどい。体がズタボロなのに、心にまで傷をつけるなんて鬼畜の極みだ。けれどすべて本当のことだから、言い返せる言葉は持ち合わせていなかった。
 ぐっと唇をひき結べば、ふと、頬にあった指先が私の肩のあたりをなぞる。包帯のあるところを。触れ方は語調に反してひどく優しい。壊れ物を、大切に扱うさまを彷彿とさせた。
 瞬間。
 なんの前触れもなく腕を引かれ、気づいたときには私の体は逞しい腕のなかに在った。状況に困惑して、彼の名前を呼ぼうと口をひらく。

「……生きててよかった」

 先に言葉を発したのはでも、私ではなかった。南雲さんの声は弱々しい。普段のそれとは似ても似つかない、まるでじかに胸の奥へと響くようなもの。優しさも、甘さも、苦しさも綯い交ぜにしたテンションだった。こんな声を、初めて聞いた気がする。
 私を抱く腕の力が強まる。だけど怪我に響かないようにと気遣ってくれているのもわかって、ああ、このまま寄りかかってたいなあ、という甘ったれた気持ちが芽を出した。南雲さんの肩越しに窓が見える。春間近の空はみずみずしい水分をふくんでいるようだった。奥行があり、広い。
 私もそっと腕をまわしてみると、黒い髪の毛がやわらかく頬に当たるから、目をつぶった。
 かすかに湿った香りが南雲さんからはした。今日は、晴れてるのに。なんだか雨のなかで過ごしている心地になる。この人は曇り空のような人だと思っていたけれど、実はさあさあと降りしきる細い小雨みたいな人かもしれない。湿度をもっているものの、ひび割れた心を濡らし、癒してもくれるような。そしてそれは、私のなかの芽を潤して育てていく。
 やがて腕はほどかれた。お互いの体温が遠ざかる。

「……南雲さん」
「なに?」
「ご面倒、おかけしてすみません。次からは劣勢になったら引くことも視野に入れて動きます」
「うん。ヤバくなる前に撤退しようね〜」

 いろんな記号の刻まれた指が、私の毛先を手繰り寄せ、ゆるゆると絡めて遊ぶ。瞬時に動けなくなってしまい、黒目だけを向けると、彼の手はたわむれの延長みたいな感触をもってして私の耳もとへとのぼった。
 髪をくしゃりとかき分けて埋まる手のひら。南雲さんの手は大きい、だって指先が、うなじのほうにまで伸びている。長めの前髪に隠れがちな、大きくて真っ黒な瞳のなかに私がいると気づくくらいに縮まった距離は、今度こそあからさまな緊張を生んだ。
 南雲さんがまつげをほんのすこし、伏せる。下がった視線が捉えているのは私の唇のあたりだった。

「ひどい言い方してごめんね」

 微量のぬくもりを残し、彼は離れていく。どうしてか、時間がかなり経ったような気分に陥った。触れ合っていたのは短いあいだだったのに。

「心配で、怒っちゃった」
「いえ……独り善がりな行動をとった私に問題があるので」
「独り善がり、か〜」

 まんまるの黒目がきょろ、と移動し、左上のほうを見る。

「それを言ったら、今回きみの任地に出向いた僕も独り善がりかも。完全に私情だし」
「どういうことですか?」
「ナマエちゃんがピンチだって知ったから、僕が行きたいって申し出た。ていうか、事後報告した、が正しいかな」
「……おかげさまで助かりました、けど、ピンチってどうやって知るものなんですか」
「ナマエちゃんピンチセンサー。いつも必ず所持してるんだ〜」
「ええ?」
「なんてね〜」

 ま、手段はいろいろあるからさ。訝しげに眉間を寄せても、南雲さんはそんなふうにのらりくらりと躱すだけ。

「……それが私情なら、自分は南雲さんにとって悪くない立ち位置にいるんだ、好かれてるんだって誇らしくなりますね」

 ぽつりとこぼせば、救護室のなかで格段に暗い色をたたえる瞳が一度またたいた。彼がわずかに頭を傾けると、首に入ったタトゥーに、黒髪がかぶる。

「うん」

 夜闇をはらむ目が細められた。うすく湾曲する下まぶた、もち上がる口角。

「好きだよ」
「ありがとうございま……」
「ただの仕事仲間じゃなくて、ひとりの女の子として見てる」
「……え?」
「言ってるじゃん。きみを助けに行ったのには私情が絡んでるって」

 じわりと景色に熱度がにじむ。まなじりの付近が、急に熱くなっていった。心臓が脈打つたび指の先までもがじんじんと痺れて、それにより生き延びたとようやく実感する私は、本当にばかだ。

「ナマエちゃんは?」

 ベッドに放り出していた手を取られ、熱をもった先端にさわられる。ふしくれだった指、その爪先つめさきは私の関節を辿り、手のひらまで。

「きみは誰に抱きしめられても抱き返すの?」

「いえ、まさか」
「ない?」
「ない、です。南雲さん、だけで……」
「えー、本当かな〜。僕、嘘つかれたら怒るけど」

 傍の口角がやわく上がる。ゆるやかな笑みを浮かべるそれは、過去一度見た、拷問時に敵を詰問する際のおもざしとそっくりだった。

「もし嘘だったら、針千本飲みます」
「あは。なにそれ〜」

 ぱっと破顔すれば、南雲さんはとたんに幼くなるから不思議だ。

「ね、僕たち両想いってこと?」
「そう、なるんでしょうか。きっと」
「言ったね」

 じゃあさ、と。彼は笑みを深くする。

「はい」
「さっきのが嘘になったときは……僕が一本ずつ、針飲ませてあげる」

 冗談にしては悪趣味だけど、ほわほわと黄色い花を飛ばすように朗らかなくちぶりで言うから、私も両の口角を上げておいた。
 静寂が再び充ちる。窓を見るともなしに見れば、冬の終わりが、うららかな三月の青空が四角く切り取られていた。
 甲高いメロディが響く。沈静な空間、そのしじまをとうとつに切り裂いたのはひとつの着信音。南雲さんは小気味よく鳴るスマートフォンをポケットから取り出すと、画面を確認したのちに席を立った。

「ごめん、行かなきゃー……」

 しおしおに萎びた表情をさせた彼が肩を落とす。私も業務に戻ろう、と続いて立ち上がれば。

「だめだよ」

 南雲さんが厳しい声をもらした。まだおとなしくしてなきゃとうながされ、硬いベッドの上に再び腰を落ち着けると、一方の彼は大ぶりなジュラルミンケースを背負う。このあともなにかしらの任務があるのだろう。ORDERの面々は、つねに忙殺されている。

「じゃあねナマエちゃん。あ、そうだ。スマホはちゃんと持ってて。ケガの経過も気になるし、連絡入れるから」

 連絡、そのひとことに、思いがけず静止した。救護室の引き戸ががらがらと閉まる。南雲さんが出ていくと、室内はいっそうしずかになる。
 連絡を入れるって、どうやって。ベッドに背を倒せば、与えられた言葉が頭の内でぐるぐると回った。過去の記憶に手をつっこむようにしていろいろなことを考える。だけど過去、彼とコンタクトを取った覚えはなかった。だったら私の連絡先なんか、知るはずもないのに。

「あれ……」

 そういえば。今回の任務にあたったメンバーのなかに私の友人がいたことを、南雲さんはなんで把握していたんだろうか。

「っ」

 遠くでスマホが震えた。びくりと肩がはねる。ヴー、ヴー、と硬質な音がぱきっとした白の空間で断続的に振動している。陽光の射す窓辺。棚からスマホを取り、確かめれば、時刻は十三時過ぎ。知らない番号からメッセージが届いていた。四文字だけが記された短い一通。送り主の名前はないものの、誰からのものかは容易に判断できる。
 内容を見ながらこくりと唾を嚥下すれば、かすかな疼痛が走った。戦闘中、喉を硝煙か一酸化炭素にでもやられたのかもしれない。
 鋭く尖ったものを。たとえば針、を一本でも飲まされたら、こんな痛みでは済まないな、なんて。霞む頭の片隅で、ふいに思った。



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