殺連に潜入中の諜報員夢主が南雲に追い詰められる/250507
「このエレベーターってオバケが出るらしいよ〜」
あんまりにも唐突だった。
地下にある資料室を出て長い通路を行き、エレベーターを呼ぼうとボタンに指をあてたところに声をかけられ、とっさにふり返る。そこには同じ会社、殺連に勤める男、南雲がいた。上背のある彼は天井に等間隔で埋められた電灯の明かりを遮るように立っている。逆光だった。
南雲さん、とつぶやくと、大きな体躯がゆらりと揺れる。南雲は私を回りこみ、エレベータードアの前に移動した。乗らせないとでも言うように、そこへ立ち塞がる。
「あの……なにか用ですか?」
「ミョウジさんは怖くない?」
「はい……?」
「本来いるはずのないなにかがいる、っていう現象」
「こ……わい、っていうか……」
恐れる対象の話をしているわりに、南雲は口角を上げていた。ずいぶん楽しそうに見えて、少し、訝しむ。
「南雲さん」
「んー?」
「どいてください」
資料を抱えたままの両腕をぎゅっとして言うと、南雲は「うーん。どうしよっかな〜」とのんびり答えた。笑みを浮かべるのをやめ、ほんの少し口先を尖らせるみたいにしながらまんまるの瞳をきょろ、と斜め上に上げている。今日のランチはなにを食べよう、とか、締めるネクタイはなに色にしようだとか。そういったことを考えているときくらいの軽い仕草。
「私、」
と。先輩におつかいされてるんで早く行きたいんですけど、なんて苛立ちをふくむ文句をぶつけようとしたとき、彼が顎を引いた。長い前髪で翳った目もと。会社の廊下の心許無い灯りがつめたく光り、その姿を照らしている。
「……通してほしい?」
南雲がにこりと笑顔を浮かべた。今度のは、はりつけたような笑みだと思った。一瞬にして背すじが粟立つ。殺気を、放たれている──?
「はい。急いでるので」
こっちもこっちで、負けじと同じく気配を硬くした。ここで
気圧されるようじゃ諜報員なんて務まらない。──私は、殺連に潜入中のスパイだった。
「じゃあ教えてよ」
「……」
「きみ、どこの子なの〜?」
軽快な声がフロアに反響する。彼の唇は弧を描いたままなのに、虹彩にはどこまでも深い夜が広がった。生ぬるい初夏を、ふいに思い出した。
正体が、ばれている。
「……どこの子、というのは?」
「やだなー! わかってるくせにぃ」
南雲が深く笑う。湾曲した下まぶたの奥、双眸にはもはや光がない。醸し出される殺気まじりの気配は強さを増し、私の肩に重たく降りかかる。厳しいほどの重力に圧されているみたいだと感じた。自分の本能的な部分はすでに警鐘を鳴らし、潰れて白旗を上げたほうがよっぽど楽だと心のどこかが叫んでいる。反面、いっぱしの殺し屋である私にも
矜持は当然あり、急速にまわる思考の片隅では落ち着いて応戦しようと意気込んでいた。
「わかってるって、なにがですか? 変なこと言ってからかうのやめてください」
眉をひそめて、首をかしげる。なにもわかりませんという顔を作り、まばたきをひとつ、ふたつしてから私も微笑んでみせた。おおよそ完璧と思える筋肉の動かし方をしている。殺気を放つのもやめて、
下手に出るというルートを選ぶ。
「私、先輩を待たせてるんです。なのでもう行きますね」
「待ってよ」
資料を腕のなかに持ったままエレベーターの呼び出しボタンを押そうとすれば、南雲に手首を掴まれた。ぞっとするようなあたたかさだった。せめて冷えていれば、私ももっと平静を保てたかもしれない。冷静に反応できたかもしれないのに、どくりと脈拍を速めてしまう。
「まだ行かないでよ……ナマエちゃん」
息を呑んだ。
資料をおもわず落としそうになったことには、気づかれた、だろうか。
心臓がさらに激しく脈動しはじめる。ごうごうと音が鳴るように全身に血が巡り、指先までもじんじんした。焦りに駆られ、頬がわずかに紅潮してしまうのを抑えられない。
心臓が脈打つのは、腕を掴まれたからじゃなかった。まだ行かないでと縋るように言われたからでもなく。
ナマエ、と。
本名で、呼ばれたせいだ。
──本名は。実際の名は、どこでも隠し通している。本来の私を雇う会社にも、そこでの同僚にも。殺連の社員証に印字されてるのだって、普段呼ばれるのだって、偽のものなのに。なんで、どうして、この男は。
「ね、もうちょっと僕とお話しよ?」
手首に力がこめられた。けっして痛くされているわけではないけれど、きつく掴まれていて簡単にはふりほどけないだろうと察せられる。もうここで終わりかも、と泣きべそをかく自分と、まだ諦められない、諜報員として戦果を挙げて出世してやる、という自分との意思がぶつかり合う。
そうして。
「……っ」
判断は一瞬だった。悩む間もなく、資料を抱えた腕を下ろす。ばさばさと落下していくファイルの山。かろうじて自由が効くようになったその手を、瞬時に背中へとまわした。スーツのジャケットの下、背中に隠してあった
注射器、毒薬へと、指をかける。これを南雲に突き刺せばいい、
「こら」
瞬間。ひどく優しいくちぶりで、南雲がつぶやいた。
「だめだよ〜」
「……え、」
まばたきの間だったと思う。私が取り出してこの男に刺してやろうと考えていた小さく鋭い武器は、もう、彼の手中にあった。いつ、どのタイミングで注射器を奪われたのか、定かじゃない。
「も〜。危ないから、コレは没収ね〜」
詰め寄られる。たったの一歩ぶん。それだけで、すべてを掌握されてしまったように動けなくなる。
「あと」
そうっと抱きしめられると、視界が暗くなった心地がした。太陽が沈んでしまったみたいだった。
筋肉質な腕のなかで息を乱す。背の高い男に囲われれば、なにもかもを覆われて身じろぎさえ難しい。
南雲の、目立つタトゥーの彫られた指先が私の太もものあたりをくすぐるみたいに動いた。ゆっくり、まるで、恋人を可愛がるような手つきで。私のはく、膝下までのスカートをかすかにまくる。
「……
太もものハーネスに隠してる小型ナイフ。コレも、出そうとしたら怒るからね」
辺りは静寂にみちていた。資料室や倉庫のあるこのさびれた階に降りてくる人はそういない。ふたりきりだということに厭な汗がにじむ。生まれてからずっと諜報員として躾けられ、鍛え上げていたというのに。私はいま、自分の呼吸やまばたきの速度すら操ることができなかった。認めたくないけれど、完全に、南雲の手のひらの上にいるのだと自覚する。
ふわりと清廉な香りが漂った。香水でもシャンプーでもなさそうな、無害で、無傷なにおいは、きっと、南雲のものだ。この人はこんな香りがするんだ、頭の片隅でぼんやりと、現実逃避するみたく考える。
「あっ……」
ぐい、と腰を引かれた。気づいたときには身をひるがえした南雲と位置を入れ替わり、エレベーター横の壁に押しつけられていた。ジャケット越しに冷徹ささえはらむ壁の温度が伝わり、全身に鳥肌がたつ。南雲に、見下ろされている。
「ナマエちゃん」
「……、」
「僕と、取引しよっか〜」
「とり、ひき?」
「うん」
彼は穏やかな面持ちのまま、私の体の両わきに手をついた。途方もなく大きな影にとり囲まれて立ち竦む。心地好い日陰にいるというより、寒々しい青の世界に放り出された気持ちがした。初夏を連想させた南雲はでも、その実梅雨の最中みたいな雰囲気を背負っているのだった。
「僕さあ〜」
形のいい唇がひらく。
「日々上にこき使われてヘトヘトなんだよね。
ORDERにしかできない任務って結構あるし。出張も多くて徹夜することもあるんだよ〜? ほーんと
殺連の奴らって人使いが荒いよねー」
「……なにが言いたいの、」
結論を促せば、影法師の男は「あは」と破顔した。自然とこぼれてしまった、とでもいうふうに。
「きみに、僕の補佐を任せたくてさ」
「……は?」
「ぷ、っあはは! なにその顔、カワイ〜! 意味わかんなーいって感じ?」
吹き出すようにされ、睨みつける。正体がとっくにばれているというのなら、もう取り繕う必要性もない。
そんなことを思案している私の根っこを見抜いているのかいないのか、南雲は朗らかに、歌うように続けた。
「だってきみ、いろんなところから情報盗むの得意でしょ? 僕もねえ、おんなじなんだ〜! だからちょっと」
きみのこと、調べちゃった。
南雲は私の耳もとで、甘く囁いた。鼓膜を震わせる低音。愛撫みたいな声だった。
じわりと景色が濡れる。泣きたい気持ちなんてないのに、涙の膜が張り、そのなかで瞳を泳がせてしまう。
「で……さっきも言ったけど、僕、このところ慌ただしくてなかなか手一杯だったからさ〜。きみに協力してもらいたいんだよね。まあつまり僕の直属の部下にならない? っていう提案なんだけど。きみにとっても悪い話じゃないよね。それに、敵対組織のネタ抜いてきたり、データベースに潜入したり……そういうのオハコでしょ? こーんな毒薬扱うよりもさ……ね? ナマエちゃん」
ぴた、と、細い毒針の切っ先が首すじに当てられた。私が持ち込んだ、致死量の薬剤。この薬液を動脈に注入されるということは、揺るがない死に繋がるのとイコールであると、だれよりも自分が理解している。
頬が湿った。まなじりからあふれた涙が、止まらない。
「はい、は? うなずいてくれないと、僕、ウッカリきみのこと殺しちゃうかも」
「っ、……、」
「あーあ、泣かないで。可哀想に」
「ぅ、」
「……わかりました、って、ほら。言えるよね?スパイとして殺連に身を置いてるふりをしたまま、きみのホントの上司だったり……そうだなあ、所属してる組織のデータを僕に渡してくれればいいだけだよ。今後そこが潰れても、まだまだ他に潜り込んでほしい宛てはあるし……。ナマエちゃん、どう? 簡単だよね〜」
2、で飾られた指が私の目尻をぬぐう。「大丈夫? あとで目、冷やそっか」。南雲がなだめるように言う。痛いの痛いの飛んでけ、と慰めてくれるようだった。
「ほーら。早く。ここで終わりたくなければわかりました、言うことを聞きます、って言ってごらん」
ハ、ハ、と、もう吐いてるのか吸ってるのかもわからない自身の呼吸に苛まれ、後ろに引き下がることもままならず、私は数秒後、こくりとうなずいた。一度降参してしまえばあとはすぐで、「僕のものになる?」という問いかけにも何度も首を縦に振る。
怖かった。いつもにこにこしていて、ふざけるばかりで、会社でもキャーキャー黄色い声を向けられて、浮かれた足取りで歩いてるだけに見えたこの男がいままとう重量感のあるオーラに、とても抗えない。
「じゃあちゃんと言葉にして。僕って物分かりが悪くてさ〜。言ってくれないと、わかんないんだよね」
「……な、南雲さんに、従います」
「ふうん? なら、僕の言うこと聞く?」
「ききます、」
「きみはだれのものなのー?」
「わた、私は、南雲さんのものです」
「全部?」
「ぜんぶ、」
そこまで応じれば、南雲はようやく一歩下がり、片手に持った注射器をどこかへしまった。でもここから抵抗したって無意味なんだろうと思えるくらいには、いまだ気配が張り詰めていた。
「ナマエちゃん」
ぬくもりを携えた指に、涙で濡れた唇をなぞられる。右から左へ。軽い触れ方で。そのまま下唇をめくるようにされ、私を弄ぶ指先は次に、上唇までも押しつぶした。
「これから、よろしくね」
彼は漆黒の瞳を細めて笑う。落とし穴とうりふたつの瞳孔の真ん中には、怯える女の輪郭が浮き彫りになっていた。
「そろそろ戻ろうか」
私を解放した南雲がしゃがみ、散らばった資料を拾いだす。エレベーター呼んどいて〜、と、のんきな語調が下のほうから聞こえた。
出逢い頭に言っていたオバケの話が、ふと脳裏をよぎっていく。本来いるはずのないなにかがいる、っていう現象、というのが指すのは私自身のことで、怖くない? と話した南雲は、本当は最初からなにも恐れてなんかいなかったんだと、いまになってようやく気がついた。