かさぶた
少し弱ってる夜/240512





 ハ、と目を覚ますとひどい寝汗をかいていた。南雲は息苦しさに襲われながら起き上がり、アイマスクをはずした。傍らにあったスマートフォンを手に取る。ディスプレイに示された時刻は夜明け前ともつかない、濃紺の深夜だった。
 なにか夢を見ていた気がする。くらくて重くて、どろりとした粘着質な不快感が体内にまだ残っていた。寝室へ行かずソファで寝てしまったせいかもしれないし──あるいは昨日、ターゲットの男に悪質な拷問をかけたせいかもしれなかった。死ぬまでに何度も両手を合わせ、神に向かい、救いを求めていた男の姿がなぜか脳裏にこびりついている。懺悔するみたいに嘆く男を見ているうち、だんだんと自身の胸もとに刻まれたタトゥーの両手とその男の祈る手との違いがどこにあるのかわからなくなり、漠然とした苛立ちに苛まれるがままターゲットの首を掻き切った。どうにも不快な殺しだった。
 ふと、自分の手が震えていることに気づく。ジッと見なければわからない程度のかすかな震えはでも、南雲の気分をいやに乱していった。
 こういう夜はときどきある。殺しで生計を立てるようになって以降、何度か訪れた。人間の肉を断裂する際のやわらかさ、骨を断つ合間のゴリゴリという硬い音、血のにおい、死のあっけなさ。それらをはっきりと覚えてから、ともいえるだろうか。そういった感触はすべて知らなくてもよかったことで、むしろ健全に生きていくうえでは余計な知識だった。
 とはいえ、南雲は心を病むほど殺しと真剣に向き合っていない。殺したり殺されかけたりして生々しい死に直面したあと、トラウマを抱えて身動きの取れなくなる同業者もたしかにいる。けれど単なる仕事であると前置きして行う粛清は、南雲にとってなんの毒薬にもならず、精神を蝕む要因としてずいぶん取るに足らないものだった。
 だからなおのこと。こうしてひとつの殺しをひきずったり、悪夢を見たり、手の震えをおぼえると、どうしたらいいか悩んでしまう。
 南雲はボンヤリ、殺しに必要なものはいったいなにかと考えた。冷静さ? 狡猾さや度胸? もしくは温度のない、つめたい心だったりするんだろうか。
 ふう、と息を吐く。そのままポスンとソファへ横たわった。ベッドに移動したほうがいいとはわかっているが、億劫だった。
 手のひらを天井にかざしてみる。依然として打ち震える指先は凍えるだれかの手みたいだ。ぬくもりを重ねてあたためてくれる人はいない。南雲はやけに広い部屋で、独りだった。
 再び眠りにつこうと目をつぶる。だけどそうすれば、まぶたの裏側には血濡れた祈りの手が浮かび、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す男の涙声が鼓膜をやぶるように響いてくる。

「クソ……」

 目もとを覆うように腕を乗せた。どくどくと脈打つ心臓が不愉快だった。いまが朝でないことを、こんなに恨めしく思う夜はめったにない。
 結局またスマホを取る。数独の冊子は近くにないから、アプリをひらこうと考えてのことだった。
 そうして数独アプリを起動しかけた直後。はたと動きを止める。南雲は唯一なにも彫っていないまっさらな指で、なんの気なしに電話帳をひらいた。ほとんどが適当に交換しただけの連絡先、もうだれなのかどんな風貌を持ち合わせた相手だったのかも定かじゃない名前が、そこにはずらりと並んでいた。
 ぼうっとスクロールしながら、このなかの何人を友人と呼べるだろうと思う。もうやめようかな、と思う。こうやって捨てるみたいに番号をばらまくのをやめてしまおうか。でもたとえば逆ナンされたとき、連絡先を渡すのが手っ取り早い場の収め方だと知っている。急いでると突き放してもつきあってる子がいると教えてもしつこくされたら折れたふりをして笑顔で応え、にこやかな表情をはりつけて二、三会話し、最後は連絡するねと言って別れればいい。だって連絡なんか実際には送らなければいいし、なにかが届いても、無視すればいいだけだ。──そんなふうにして増えた電話番号と名前は、ただの空白と大差ないのだった。
 ぴた、と南雲の指が止まる。いくつもの文字の羅列のなかから、たったひとつ、心底大切で仕方ない名前を見つけ出した。
 時間を確かめる。起き抜けに確認したときよりもあたりまえのように進んでいるそれを見て少し迷ったものの、南雲はナマエちゃん、の文字をタップした。彼女とは基本的にメッセージアプリでやりとりするため、登録してあるのは電話番号のみ。その数桁をさらにタップする。呼び出し音が鳴る。それがいまあの子のスマホを鳴らしていると思うと、耳の奥でつんざくように響いていた叫び声がいくらか緩和されるようだった。

『……』

 とうとつに呼び出しが終わる。無音が広がる。応答はない。二秒後にもしもしと発してみれば、自身の声はやけに弱々しかった。

『……よいちくん?』
「うん」
『……おはよう』

 もぞもぞと、電話口で身じろぎするのが聞こえる。ナマエは寝ていたらしい、それもそうだ、いまは夜中なんだから。

『あれ……まだ夜だ。……どうしたの?』

 こんな時間に、という疑問を言外に匂わせる問いかけに、南雲は一瞬言葉を詰まらせた。暗い部屋のなか、彼女を繋ぐ電子機器だけが明るい。

「ナマエちゃんのこと、考えててさ。声が聴きたくなっちゃった。……寝てたよね〜」

 起こしてごめんね。つけ加えると、ナマエはううんと小さく笑う。こんがらがった糸を上手にほどくような笑い声だった。

『……どうしよう』
「んー?」
『私のこと考えてくれてたの、うれしい』

 嬉しくて目が覚めちゃった、と続ける彼女に南雲も口角を上げる。ばかだなあ、と思った。ばかだなあ、ナマエちゃんは。そんなのいつも考えてるよ、と。

「ね、ナマエちゃん。急なんだけど次の土曜日か日曜日、空いてる?」
『ちょっと待って……えっと、日曜日なら』
「じゃあさ、会おうよ〜」
『うん……! 会いたい』
「朝方から行っていい? 僕が行くとき、寝てていいからさ」
『朝? 大丈夫なの?』
「大丈夫って?」
『与市くん、朝弱いのに。無理しなくていいよ。ゆっくり会おう?』
「え〜、早くから会いたいんですけど〜。ナマエちゃんは違うんだ、淋しいなー」
『あはは。かわいい』

 くすくすと軽やかな笑みをこぼし、ナマエは楽しげにしている。これを聴いていると、次に会うまでまだあと数日あることに耐えられなくなりそうだった。いまから行ってもいい? とわがままをぶつけたくなる。駄々をこねて困らせたくなる、ナマエをいますぐ抱きしめて同じベッドで眠りたくなってしまう。

「とにかく、早いうちに行くから。無理くらいさせてよ」

 押し通せば、わかった、待ってると返事があった。ゆびきりをするときのボリュームで言葉を交わす。

『与市くん』
「なあに?」

 ほかにも何個か他愛のない話をしたあと、名残惜しく感じつつもじゃあと電話を切り上げようとしたところでナマエに呼ばれ、返事をすれば。

『ちゃんとベッドで寝てね』

 と彼女は言った。そういえば前に一度、ソファで寝ていると白状したときに怒られたことを思い出す。それじゃあ疲れ取れないよ、と覗きこんでくる怒り顔、かすかに尖った唇、寄せられた眉根が、ひどく可愛かった。

「うん。ベッドにいるよ〜」

 息をするよりもずっとたやすく嘘をつき、南雲は放ってあったアイマスクを掴んだ。この電話を切ったら、本当に寝室へ移動しようと決める。このままここで寝てもよかったけれど。ナマエにまた、心配をかけてしまうのは嫌だから。

「ありがとね、ナマエちゃん」

 夜更けの電話はぬくもりをもっていた。彼女の無邪気な優しさが、できたての傷を守るかさぶたみたいに南雲をつつむ。だから礼を口にして、最後にはおやすみ、とありきたりなやりとりをして、電話を切った。
 いきなり部屋じゅうに奇妙な静けさがあふれ、遣りようのない夜闇が辺りにみちる。
 南雲は気怠げに身を起こし、リビングをあとにした。ぺたぺたと廊下を行く。壁の、足首らへんの高さにはまっている人感センサーのライトが、足跡を記すみたいにやわい光を次々灯す。寝室へ入ると、ベッドにどさりと全身を沈めた。
 アイマスクの下で目をとじる。明日からも仕事が山積みだ、早く眠らなければならない。
 ただし眠気がうすかった。目をつぶりながら、羊を数えるのは面倒だから、殺しに必要なものはなにかと再考する。真面目さか、器用さか、潔さか。

 ──おやすみ、またね、与市くん。

 ふいに、さっきのナマエの言葉が、声が鼓膜を震わせた。それはとてつもなく甘ったるい音程で、特別な強さをもって、南雲の内側を撫でていく。
 瞬間、殺しに必要なのは嘘かもしれないと感じた。迷宮をぐるぐる巡るみたいにまわっていた思考がぴたりとストップする。一回思いついてしまえば、そうだ、嘘だ、という心地にばかり見舞われた。
 本当はだれも殺したくなんてない自身を欺き、泣き叫ぶターゲットから目を逸らし、肉を切る感触なんか知らないふりで生きていく。殺しになにも感じてないそぶりで息をする。深い夜の底で独りぼっちだったとしても、奪った命の幻影に、足もとをすくわれそうになったとしても。
 そうして殺しの世界とはてんで無縁の、まったく無垢なあの子に笑いかける。同じだけのきれいさを装って。血で染まった指先は背中に隠して。なにかに怯えて震える夜があることなど、微塵も悟らせないままで。
 生きることは、傷を増やすことと同義だと感じる夜も少なくない。抱えた痛みから顔を背けたせいでさらに増える傷口があるというのも解っている。なら南雲はとっくのとうに傷だらけなのだった。
 だけど、あの子がいるなら、と思う。
 ナマエがいるのなら、明日からもまた笑顔でいられる。なにが起ころうと冗談みたいにうまく笑ってみせることができるし、ついた傷もジクジクと膿む傷痕もいまだ漏れる血も大きくなる疼痛も、残らずすべて、治していくことができた。

「あーあ」

 やっぱり無理言っていまから行けばよかったかも、なんてため息をひとつ。強引にでもナマエの家に押しかけてしまえばよかった。彼女の寝顔を見てから眠りたかった。今度瞳を開けたら明日も明後日もすっ飛ばして、ナマエと会う寸前になっていればいいのに、と、柄にもなく夢見がちな願いを抱く。
 やがて睡魔がやってきて、南雲はゆるゆると眠りのふちをたゆたう。意識があいまいになる。不明瞭な世界に落ちていく。いま鼓膜を撫でるのは、あの厭な断末魔じゃなかった。ナマエの甘やかでやわらかい、春の夜みたいな笑い声が特別おだやかな眠気をつれてくる。
 南雲の胸のうちには、今夜はもう悪夢を見ないだろうという確信があった。手の震えはいつしか治まっていた。この夜が明けて、苦手な朝がきても、ちゃんと息ができそうだった。



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