2025.05.10





「ナマエちゃん」

 お互いに靴を脱いだ直後だった。リビングに向かう間もなく、手首を掴まれて足を止める。そのまま引き寄せてくる南雲くんはどこか性急だった。壁を背に向かい合うと、のっぽな影のかたまりに見下ろされる。玄関に灯した明かりは不安定な暗さで、私たちにかろうじて与えられた小さな居場所みたいだった。
 見上げると、明るいところで見る南雲くんはいつも以上に陰を背負っていて、下まぶたには黒いクマが濃くあった。眠れてないんだろうか。南雲くんはいままでにも、何日も熟睡してないとこぼすことがあった。睡眠の質が悪いというより、仕事で忙殺されているせいなのだと。仕事ってどういうことしてるの、聞いてもそれは、毎回うまくはぐらかされてしまっていたけれど。

「……」

 まっすぐ見詰められるとがんじがらめになるみたいで苦しい。顔を背けて、タトゥーの彫られた首すじに目をやった。それは私の逃げだった。面と向かって対峙することが、できない。

「こっち、見て」

 掴まれた手首に力がこもる。捕らえられ、触れ合う箇所から熱が広がる。痛みは微塵もないものの、南雲くんの力は強い。とても。
 目線をもち上げられないままでいると、再び名前を呼ばれた。ゆっくり、視線を戻していく。襟ぐりのボタンが数個開けられたゆるいシャツ、そのためあらわになっている首すじ。かすかな影を落とす喉仏、尖ったあご、形のいい唇。少しの疲弊をはりつけた頬と、それから、長めの前髪がかぶる、夏の夜をとじこめた黒い瞳。
 私たちはいま、正しくふたりきりだった。

「……私は」

 口をひらく。泣いてしまわないよう、気をつけながら。

「もう、自分たちは別れたんだと思ってた。っていうより、ふられたって」
「ふられた? 僕に?」

 なんでと続けた彼は大きな目をさらに丸くして、戸惑いの色をにじませた。南雲くんがわかりやすくうろたえるのは、めずらしいことのように感じられた。

「……連絡がこなくなって。何週間も音信不通だったから、自然消滅したって、思った」
「自然消滅? きみと? ありえない、させるわけないじゃん。絶対ない」
「そんなのわからないよ。言ってくれないとわからなかった。……連絡がないまま時間が過ぎてくうちに、南雲くんのことも、自分たちのことも、わからなくなっちゃった」

 連絡が途切れがちなのは、いまに始まったことじゃない。知り合った頃から返信速度もまちまちで、つきあってからもその点は変わらなかった。それって大丈夫なの? と友達に心配されたこともある。本命が別にいたりしない? と。
 だけどどうしてか、遊ばれてるのかもしれないと不安を抱いたことは過去に一度もなかった。普段の南雲くんの優しさは確立されていて、疑う余地なんかなかったから。
 だからこそ、完全に音信不通になって以降、なにより気掛かりだったのは事故や事件に巻き込まれた可能性についてだった。毎日血眼になりながらニュースを見ていたころ、南雲くんの名前が出ないことを確かめたあとでやっと、私はひと心地ついていた。
 そういう夜は特別長い。乱暴なまでに長く、一生終わらないんじゃないかと怖くなるほどだった。夜の暗さを知ったのはこの時期だったかもしれない。独りでベッドにもぐれば、どこまでも広がる静寂は青々と濡れて重たかったし、淋しさだけが傍らに転がっていた。まったくといっていいほど音のない部屋。衣擦れも寝息も囁き声も足音もない、幾度目かの夜中。南雲くんと出逢う前には知らなかった孤独を、彼と出逢ったことで覚えてしまったのだと思った。
 いつしか、連絡を待つのをやめた。メッセージを送るか迷ったりもしたけど、かけた電話に折り返しはない。会いに来ることもなければ、夢にさえ出てきてくれないままだったから、全部やめた。
 そんなふうだったから。南雲くんは私の内面に在っても、私は彼のなか、心の内側にはいないんだと気づいたから。

「もう終わりだなあ、って、思ったの」

 気持ちをうまく言葉にするのは難しい。音沙汰がなくなり、なにもかもがわからなくなっていた日々のことをかいつまんで話せば南雲くんは私の手を離した。うつむき加減になり、はあ、と長めの息を吐く。そのまま口を噤んでしまった。なにかしらの弁明も、事情の説明も、してはくれないんだろうか。どうしていまさら会いに来たのか、も。
 納得のできる話を聞くことが叶わなくてもいい。だけどせめて、甘ったれたいいわけくらい、してくれたらよかったのに。

「もうやだ」

 ぷつりと、はりつめた糸の切れる音がした。それは体のなかで鳴った。心のなかかもしれなかった。

「南雲くんのこと、好きじゃなくなりたい」

 泣いちゃいけない。泣かないように気をつけなければ。そう決めたはずなのに、頬が濡れた。涙は無性にあたたかくて、それがなおさら悲しい。

「もう、ほかの人を好きになりたい、ここまで放っておかれる、のも、つらいし、」
「ナマエちゃん」
「でもできない、南雲くんのことばっかり、わたし、すきなままで。苦しい、もう無理だよ、全部ちゃんと終わりにしたい、」
「ナマエ」

 ぐすぐすと情けない声を出していれば、いくらか強い口調で名前を呼ばれ、顔を上げた。にじむ視界、目線の先には苦しげなおもざしがあった。目が合えば両頬をつつみこむようにされる。涙を受け止めるみたいに添えられた親指も、涙とよく似た温度をもっている。

「……ごめん」

 ひそやかなボリュームで、南雲くんはつぶやいた。それがあんまりにも切なく響くから、私はなにも言えなくなる。

「泣かせてごめんね」

 繰り返した彼はへこたれてしまった子供みたいに眉尻を下げていた。いつもの笑顔はどこにもない。笑ってないと、浮かぶ疲労感が強くなるようだった。やっぱり、南雲くんは最近、ちゃんと眠れてないのかもしれない。
 腰を抱き寄せられる。分厚い胸もとに頬を押しつける形になれば、ますます泣きたい気持ちに駆られた。この腕のなかにいたい、ずっといたいと、いまだに願ってしまう。信じがたいくらいの強さでもってして、切望してしまう。
 南雲くんが隣にいたら。この人が傍にいたなら、怖いものなんかなにもないと心底思っていたことを思い出す。私はそういえば、南雲くんのもたらす安堵感に惹かれたのだった。離れている間、どれだけ連絡がなくても不信に陥らないでいられたのは、この、揺るがないぬくもりに安心できていたからだ。
 いま、南雲くんは私の胸のなかを知っているんだろうかと思う。皮膚の下、心臓のあたりにあるたくさんの感情を見せられたらどんなにかと思う。それができたら最初から、恋人たちはすれ違ったりしないんだろうな、と、ばかげたことを思う。
 今日も静かな夜だった。ただし呼吸音はふたりぶん。南雲くんを突き放すことも、抱き返すこともできないまま、私は黙っていた。とりわけ長大な沈黙に呑み込まれていく。南雲くんも言葉を探してるのかもしれなかった。私は、彼の感情や中身をあるがまま覗くことができない。
 目をつぶった。



「僕、勘違いしてたみたい」

 どのくらい沈黙していたかわからない。夜のしじまを裂くように、頭の上からとつぜん声が降る。小さい声だった。一音もとりこぼしたくなくて、精一杯耳を傾ける。

「きみに甘えてたし……かけてた負担とか、与えてた不安にも全然気づいてなかった」

 抱きこんでくる体からは、香水でもない、外の清冽なにおいがした。初夏の夜気、すこし湿度の高い永遠みたいなにおい。大好きな人の香りだ。人生における初めての喜びを、一緒にたくさん見つけてくれた人。

「ナマエちゃんはさ、いつも笑ってるでしょ。僕が迷惑かけても、しつこくして困らせても。……たとえばお皿洗いの最中、後ろからくっつくと怒るじゃん。でもそのうち笑ってくれる。朝、全然起きない僕に呆れても、僕がそのままベッドにひきずりこんでも最後は絶対笑ってるんだよね。……なかなか会えないときに電話しても、デートの予定をドタキャンしちゃったときだって」

 たしかにそうかもしれない。普段からとりたてて前向きなわけでもなく、かといって後ろ向きなわけでもないけれど、南雲くんの前では笑顔を多く見せていた気がする。それは実際に楽しかったおかげでもあるし、笑顔でいようと意識していたからでもあった。彼のため、というよりは自分のためだ。怒ったり、呆れたり、悲しんだり、駄々をこねたり、わがままをぶつけたりして、好きな人に──南雲くんに、愛想を尽かされるのを恐れていた。

「きみは常にご機嫌で、僕がいなくても平気そうだった。ひとりでも淋しがるそぶりがない。……それがナマエちゃんなんだと思ってた」

 南雲くんはぽつ、ぽつと、雨を降らせるようにひとことずつを口にする。抱きしめられたまま聞く音はどこかくぐもっている。

「あーあ。僕ばっかり好きだよなあ」
「……」
「って。そんなふうに、いつも思ってた」

 苦しいと、喘ぐような声だった。ひときわ強く抱かれれば、息苦しさが増し、彼のにおいが増し、私たちの間にある境界線があいまいになっていく。
 止まった言葉。私たち以外にはだれもいない夜。静寂。
 ふいに、私も同じだったと気がついた。言葉にしてくれなきゃわからないと言った私も、南雲くんに伝えていないことが、こんなにたくさんあったのだと。勘違いしていたのは私のほうだ。表面的な部分しか見せないまま、自分を取り繕っていては、望む関係を築けるわけがなかったのに。

「だから正直……なんていうか。ナマエちゃんがこうやって僕のせいで泣いてるの、嬉しい気持ちもあるんだよね。……ほんっとサイテーなこと言ってるっていうのは、わかってるんだけど。でも、ナマエちゃんも僕で不安になることあるんだ〜、とか……」

 とつとつと語る南雲くんは、最後に「やっぱいまのなし」とつけ足した。

「不安にさせて、ごめんね」

 南雲くんの手のひらが片頬を這う。彼も苦々しい表情だった。どこかが痛んでるみたいに、眉根を寄せている。

「……僕たち、まだやり直せるかな。僕としてはもう一回チャンスが欲しいんだけど。……ナマエちゃんだけは、失くしたくない」

 つぶやき、うなだれた南雲くんはその場にずるずるとしゃがみこんだ。弱りきっている、といったふうに。初めて見る姿だった。私を失くしたくないという、南雲くんの言葉を反芻する。この人はいったいなにをどれだけ失ってきたのだろうと考える。
 私も床へ座った。背には壁があり、正面にはうなだれる人がいる。その人に向かい、腕をまわす。抱きしめてみると、南雲くんは一瞬ぴくりと反応したあとで脱力した。

「私もごめん」
「……なんで謝るの」
「南雲くんに言ってないこと、私のほうがいっぱいあったから」

 私は南雲くんが思うよりわがままだし、淋しがりだし意気地なしだよ。そうして、南雲くんを失くさないように聞き分けのいいふりをしていた。偽りの自分を演じてたし、私ばっかりが好きで仕方ないと感じていた。釣り合わない天秤に乗っかる恋心だと、疎ましく思ったこともある。
 それが。自分ばかり、と悩むのが、南雲くんも同じだったというのなら。

「好き」

 私たちの足並みがちぐはぐで、そろわないのも、当然だった。

「私は、南雲くんが好きだよ」

 南雲くんで不安になるし、機嫌がうわ向きになることも、斜めになることも、真っ逆さまに落ちてくこともある。
 そういった、自分の内面、胸のなかにあった本音をひとつひとつ均等に切り分けていくみたいに言葉を発すれば、私たちの間にできた溝がそのぶんだけ埋め立てられるのがわかった。

「そっか」

 と。

「ナマエちゃんも、僕が好きなんだ」

 と、自身を言い含めるようにした南雲くんに、また、抱きしめられる。お互い座りこんでいるせいだろうか、なんだか抱きつかれているみたいだった。
 ──私は。たぶん、南雲くんが思うよりも、ずっとずっとこの人のことが好きだ。あなたが唯一だと、言葉にしたところで伝わるんだろうか。言葉にすればこそ、伝わりきらない想いもおそらくあるのだろうと思うと、もどかしかった。
 南雲くんとわずかな距離をとる。前触れもなく向けられた柔い笑顔を見詰めれば、どこまでもほどけるような心地がする。
 フと短い息を吐くのが聞こえた。ひどく安堵したような深い息。

「ね、キス……していい?」

 ぐい、と壁へ追いやられる。そもそもが寄りかかるような姿勢だった、さらに詰め寄られてしまえば逃げ場も見当たらなくなり、お互いの吐息がまじりそうな距離感に心臓が疼いた。私はやっぱり、いまも南雲くんが好きだった。どうしようもなく。
 ごつごつと骨ばった親指の、少しかさついた腹の部分が私の下唇に触れる。真っ向にあるふたつの瞳はそのあたり、淡くなぞられる唇のあたりを見詰めている。雨降りの晩とそっくりの濡れた視線に、体までもが湿るようだった。
 なにも応えないまま、一度のまばたきしかできないままで口淀む。ひどく静かな部屋にいるせいで、またたきが空気を撫でる音が響いた気がした。南雲くんの目線がゆっくりと持ち上がっていく。それはやがて私の目にぶつかった。ぞく、と肌が震える。溶けたキャラメルそっくりの甘ったるいまなざしは、でも、淋しさをともなう漆黒の色をしていた。

「いいって言って、ナマエちゃん。……もう、できなくなるかもしれないから」
「え、……どういうこと、」
「だめ?」

 この期に及んで、南雲くんはなんの説明もしてくれないらしい。ただ、私を揺さぶってくるだけだ。
 やっぱり彼は殺し屋なのかもしれないなあ、と、ふと思い至る。だけどもう、本当にそうだとしても、実はそうじゃなくっても、かまわなかった。私は南雲くんのいろいろをいまだに詳しくは知らないままだけど、南雲くんがいつか聞かせてくれるなら聞けばいい。黙っておきたいというのなら、無理に取りざたす必要は、ない。

「いいよ。でも」
「でも?」
「これが最後かもしれないって、言わないで」

 腕を伸ばし、南雲くんの頬をつつむようにしてみる。ちょっとびっくりしたように、彼はぱちりとまばたきした。黒目がちで丸い瞳がまたたくさまは、星の明滅する夜空に似ている。

「また次があるって約束して」
「……ごめんね。できないや」
「どうしても?」
「どうしても。ナマエちゃんには、無責任な態度取りたくない」

 たやすく嘘をつき、冗談を言ってのける南雲くんが、いまはそのどちらも吐き出さない。もしもそれが危ない世界に身を置いてるからだとしたら。次を約束できない生活を送っているからなのだとしたら、つくづく真面目な人だと苦笑してしまう。同時にそんなところが、とてもいとおしかった。
 その感情のままにまぶたを閉じる。
 男性にしてはすべらかな肌、頬をつつんだまま唇を重ねると、やわらかな唇同士が触れた。

「ん……ナマエちゃん」
「うん」
「好きだよ」
「……うん」
「大好きだよ、ナマエ」

 どうしてか、泣きそうな声に聴こえた。
 私も、と伝える前に、今度は南雲くんからキスが与えられる。
 唇をついばみ、食んで、舌先で辿られて。角度を変え、深度を変えてくちづけ合った。ハァ、と色めく吐息を合間にこぼし、ときどき離れては目を見て、唇を見下ろして、もっと激しいキスをする。途中、腰を持ち上げるようにされて彼の上に跨った。首もとに腕をまわして抱きつき、何度も唇を重ねていく。二度と会えないと言うようでもあるし、会えなかった日々のぶんを全部取り返しているようでもあった。

「ん……」

 舌を舐められれば声が漏れてしまい、南雲くんが口の端で短く笑う。

「ちゅーしてるだけで声出ちゃうの?」

 いじわるなトーンでつぶやいた南雲くんは、いま、ひどく近いところにいる。だからこうやって喋られると、唇がこすれてくすぐったい。いきなりものすごい羞恥心に見舞われ、少し落ち着きたくて胸ぐらを押し返してみる、ものの。

「あー……。かわいー……」

 もっと聞かせて、と。余計深いくちづけに襲われた。暴力的なまでのキス、だけどちっとも嫌じゃなくて、さっきよりもうるさく響くリップ音の直接的ないやらしさに眩暈がした。
 口内を余すところなく舐める舌が熱い。息苦しくなって逃げれば「まだだよ」とたしなめるようにされ、後頭部に大きな手のひらがうずまる。固定されてしまうと引くに引けなくなった。逃げられない、
 唾液すらまざり合うころには、腰がはねそうになるのを必死に抑えないといけなかった。あからさまに色づいた声はもう、とっくに我慢できていない。だってこんなキス、ベッドのなかでするやつだ。
 鼻先をぶつけて名前を呼ばれ、深夜そっくりの黒い瞳で見詰められる。丸裸にむかれてすべてを見澄まされる気持ちがした。いま、服は、ちゃんと乱さず着てるのに。

「なぐもく……」
「うん」
「すき、」
「……ほんとー?」
「本当、」

 にこりと彼が微笑む。頭に乗せられた手が優しい。髪を梳くみたいに撫でられて、昂った気持ちがやわやわとゆるんでいく。

「僕はさ。まだ、きみに話せないことも多い。……きみを危険な目に遭わせるわけにもいかないしね」
「……うん」
「しばらくはこのまま、連絡もなかなか取ることができないと思う。だけど、これだけは覚えてて」

 南雲くんが真剣な面持ちをするから、私も息をひそめた。言うことの全部を、ちゃんと聞きたかった。

「僕は必ず、ナマエちゃんの居るところに帰る。生きてる限り」
「……」
「それに、別れるとかありえない。きみをふるなんてこと、全部にないよ。どうしても信じられないって言われたら、僕のつむじからつま先まであげたっていい」
「ええ?」

 おかしな例えに、つい口角をあげてしまった。でも、南雲くんのつむじからつま先。欲しいなあと感じる私も、大概なのかもしれない。

「あー、笑ってる。冗談だと思ってるんでしょ」
「あはは、うん」
「ひどいなあ、本気で言ってるのに」

 なんだか。少し前まで落ち込んでいた気持ちが、嘘みたいに晴れていく。
 私はもっとこの人のことを信じるべきだ。行動を信じて、言葉を信じて。そうして、自分をもっとさらけ出して。本音を話して、不安の種を潰すべきだった。
 南雲くんが。私のもとへ必ず帰ってくると言うのなら、ちゃんと帰りを待っていたい。もう、待っていられるような気がしている。ひとりでも。一緒に選んだベッドリネンにつつまれて、優しい夢を見て眠る。これから先、まぶたの裏に映すのは今夜の記憶になるだろうか。
 また、キスをして、目をつぶる。涙の止まった目、でもまだちょっと湿ったままのまなじりをぬぐってくれる指先は、夏のはじまりみたいなぬくもりをはらんでいた。これを大事にできたらいいと思う。忘れないでいられたならいいと。
 今日はあとどのくらいこの夜が続いてくれるんだろう。大好きでたまらないこの人と、あとどのくらい傍にいられるんだろう。太陽なんか一生昇らなくてもいいのに、とあんなに恨めしかった長い夜を今日はどうしたって欲しがってしまう。だけど朝はやっぱりきてしまうからどうしようもなかった。日々は、ままならないことの積み重ねだ。
 それでも、私は南雲くんを想う。ままならない毎日のなか、結局大好きなままでいる。
 逢えばそのたびお別れしなくてはならないとわかっていても、それはふたりの終わりじゃないともう理解していた。南雲くんと交わすさよならが次に繋がる言葉であるのなら、淋しさを打ち消すおまもりじみた響きを持ちはじめるからちょっとおかしい。おかしくて、いとおしかった。
 抱きしめてくる筋肉質な体に、腕をまわす。もっともっと近づきたい、おんなじ温度にくるまりたい、心のなかに落っことした想いがくすぶっていてしょうがなかった。

「南雲くん、」
「なあに」
「今日はこのままベッドにつれてって」
「いますぐ?」

 いますぐ、なんて駄々をこねれば、南雲くんは楽しそうに笑った。濁りのない笑みは、夜の真ん中でやけにまぶしく見えた。
 私は恋をしている。つむじからつま先までをこのひとにあげたい、と、本気で言える恋。そのやわらかな気持ちは南雲くんの形をした穴ぼこにぴたりとはまる、たしかな愛みたいだった。



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