殺しをしたあとだけ会いに来る南雲/2024.04.22
ウチの花屋に、彼は突然やってくる。晴れの日もあれば雨の日もあるし、暑い日もあれば寒い日もあった。けれどきまっていつも、なんの花も選ばずに帰っていってしまう。
「なにかお探しですか」
そして今日も、彼は来た。軒下に並べたプランタースタンドの前で腰をかがめるその人に、店内から声をかけてみる。アジサイ。カンパニュラ。ガザニア。マリーゴールド。ネメシア。ミニバラ。色とりどりの花に囲まれ、花畑にでもいるような彼は逆光で、少しまぶしい。外へ出ると、私のほうへ視線を向けて背を伸ばした彼の、目もとにかぶる前髪が揺れた。一八〇……一九〇センチくらいはあるだろうか。近くに行けば思った以上に上背があり、つい見上げる形になる。
「ううん。なんにも。ごめんね」
べつに謝らなくてもいいのに、なんて考えつつ首を振った。
「でも、うーん。せっかくだし、なんか貰おうかな〜」
「……この時季ですと、金魚草などがおすすめですよ」
「キンギョソウ?」
「こちらです。小さい金魚が泳ぐみたいに揺れる、可愛い花なの」
「ふーん、いいね〜。僕、生き物はきっと飼えないけど、植物ならいいかも」
声にせず、うなずいて相槌を打つ。
「キンギョソウ、育てやすい〜?」
「ええ。たいてい冬は越せないので、一年草と呼ばれていますが……長く楽しめます」
「そっか〜。来年のいまごろには、枯れちゃうんだ」
それは寂しいな。彼はつぶやき、着ているトレンチコートのポケットに手を入れた。購買意欲がなくなったのだろうと、思った。
「甘いね」
ふと、頭上から声がふる。私を見下ろす漆黒の目は、花を枯らす、雷雨の夜みたいだった。
「あま、甘い……?」
「うん〜。君の香り。お花屋さん、ってカンジ〜」
まぶたを閉じ、彼はさらに顔を近づけてくる。くちづけの仕草と似ていて、つい動けなくなった。どうしてこんなに全身が熱いの。いまはまだ、春なのに。
「あの」
後ずさりさえしないまま、後ろにかしいだ首のまま、私は訊ねる。
「あなたの、お名前は?」
「……知りたい?」
「よく、ウチに来てくれているから……」
「あはは〜。ばれてたか」
直後、後頭部でひとつに束ねた髪がほどけた。ほんのまばたきの
間。気づかないうちに、ヘアゴムを彼に抜かれていた。ぱらぱらと落ちた髪が頬に触れる。乱れた髪たちは、彼の指にすくわれ、耳にかかった。耳輪に当たる指先が、ちょっとあたたかい。
「ナグモ」
あらわになった鼓膜の入口に、花の香りよりよっぽど甘い声が通る。
「南に雲って書く。僕の苗字、覚えてよね〜」
「……下の名前は?」
「そうだなあ。なにがいい?」
「ええ?」
「まだ秘密、ってこと」
まだ、と言うのなら。またいつかがあるんだろうか。そんなふうに考えた私の思考を盗むように、南雲さんは囁いた。
「また今度、訊いてよ」
彼の手が離れていく。そうして、一瞬にして、私の手首にヘアゴムが戻った。南雲さんはなんだかまるで、器用なマジシャンみたいだ。
「やっぱり花はいらないや。ごめん。僕、あんまりなにかとお別れしたくないからさ〜」
おどけてみせた彼はにっこり顔で、店に背を向けた。無駄に、ともいえるし無駄のない、ともいえる長い足。驚くほど大きな一歩。緩慢なようでいてすばやい歩き方。ぎらつく太陽の下を、遠ざかっていく後ろ姿。いきなりもたらされる孤独感。急なひとりぼっち。彼だけが私に突然を与える、いつも、私の世界のなかで、南雲さんだけが。
「南雲さんっ」
距離ができていた。かまわず大声で叫べば、彼は振り返る。
「また来て、絶対! 私、南雲さんにまた会いたい!」
ウチの花屋は路面店だ。通行人の目線が刺さる。けれど、気にしなかった。南雲さんのこと以外はいま、どうでもよかった。たとえば──なにもかもを失ってもいい、と思ってしまうような奇妙な感覚。これが恋というものなら、ひどく強烈だ。
私の、公開告白じみたひとことに、反応が返ってくるまで数秒のラグがあった。南雲さんはやがて、うつむき加減に小さく笑った。遠目でもちゃんとわかるくらい優雅に、でもどこか寂しそうに、笑うのだった。