2025.05.01





 仕事を終えて帰路につく。分厚い雲のかかった夜だった。昨日あんなに輝いていた月も吸い寄せられるように隠され、辺りの色彩はうすい。いつもよりも色の少ない夜を歩く。
 このところ眠りが浅いせいか、残業のせいか、業後に同僚たちと飲んだせいか、体はやけに重い。のんびりと歩きながら今夜はもうなにも食べられないと思ったものの、冷蔵庫には昨日買っておいた食材がふんだんに入っている。傷む前に使い切らないといけない、なにか軽いものでも作り置きしておこうかな、だけど眠いなあ、なんてお酒びたしの頭で数日ぶんの献立を組み立てている、と。
 南雲くんのことはもう吹っ切ろう。
 なぜかそう、とつぜん思った。いきなり──本当にいきなり、思った。自分のための、自分のためだけの献立を考えていた矢先、急に足取りが軽くなる心地をおぼえる。
 代わり映えのしないメッセージ画面を確かめては愕然と肩を落とす生活サイクルに、見切りをつけたからだろうか。生まれくる悪循環を、自分のなかでだけだとしても断ち切ったおかげだろうか。
 わからない。わからないけれど、物事の終わりってこうなのかもしれないと感じた。色が染まるみたいに、夜が明けるみたいに、その最中には気がつけないことでも一定のラインを超えた瞬間あれ、なにかが変わった、と違和感を抱く。そうして周囲を見回すと環境は変化していて、私を苦しめた長いトンネルの出口を抜けていたりする。
 ふいに、頭上で雲間が途切れた。カーテンの隙間からまっすぐ伸びてくる陽射しみたいに、月の明かりが幾筋も空から降り出している。完全に晴れたわけじゃないものの、黒い空が都会に散らばる街灯やネオンで紺青こんじょうにうすまるのを少しでも覗けると、気分も照らされるようだった。
 やわい風がそぞろな初夏を運び、体を撫でていく。気持ちのいい夜で、自分はなにも間違っていないと肯定したくなる。やっぱり、飲み会に顔を出してよかった、楽しかったし、上司の奢りでもあったし。常日頃の私にしては考えられない酒量を摂ったけど、過不足はいまのところ、ない。

「あ」

 グループチャットにメッセージが届いていたことを思い出し、スマホを取り出した。案の定たまっていたメッセージを返していく。そうしてもうひとつ、友達からのものにも軽い返信とスタンプを送ったとき、南雲くんの存在が脳裏をよぎった。私から一方的に電話をかけるだけじゃなくて最後にやりとりしたの、いつなんだっけ。南雲、南雲、舌の上で数回名前を転がして画面をスクロールしていけば、彼との履歴もアッサリ見つかった。
 連絡が途絶える前の、最後の会話は南雲くんからの「また連絡入れる」と私の「うん」という応酬。たしかこのときも連絡は数日間なく、いよいよメッセージが送られてきたかと思えば「ごめん、少し会えなくなるかも。ちょっと怪我しちゃってさ」の文面だった。「怪我? 病院行ったの? なにかできることあったらするから言って」「お腹をさー、バサーッとね、かっこわるいでしょ〜」「かっこ悪いっていうか心配だよ。大丈夫なの?」「うん。大丈夫。ただ、ちょっとばたつくからいままでどおりに会えなくなるんだけど……ナマエちゃん。これだけ」「なに?」「大好きだよ」。
 そんなやりとりのあと、心配するあまり、私も、とすぐさま返す気になれなくてモタついてる合間に「また連絡入れる」が届いてしまい、私も「うん」で留めた。
 そのことを、悔やんだ時期もある。冬で、雪がしんしんと降りつもり、音の吸いこまれた早朝とか。春先の雨のなかでも、桜吹雪のなかでも考えた。もっと違うやりとりをしてたら、もっと違ういまがあったのかも。なんて、役に立たないたらればばっかり、頭蓋の内に並んでいた時期。
 それは私が、南雲くんは殺し屋をやってるんじゃないかと勘繰っていた時期でもある。結局わからなかったし、聞けば誤魔化されたし、いまとなってはもう、答え合わせもできなくなってしまったけれど。
 家までの道、ほとんど人出のない歩道ではありつつ注意しながらもスマホ見続ける。南雲くんとのやりとりをさらにさかのぼれば、他愛のない話が増えていった。
 改めて見返すと、本当にどうだっていい会話を繰り広げている。送り合うのは写真だけのときもあり、京都へ出張に行ったらしい南雲くんからの画像には、とりどりの色をした紅葉が映っていた。
 こうして写真を撮ったとき、私に見せようとしてくれる南雲くんが好きだった。数枚撮ったうちの、一番きれいに写ったものを送るようにしてる、と語った彼が。
 会話のやりとりは途中で中断されているものも多い。南雲くんが、ほんのわずかな時間でも体さえ空けば即通話をかけてくるタイプだったからだ。シェアしてくれたお店今度行こうよ、とか、イベント事? 楽しそ〜! とか。それってお泊まり? とか、もっと長くいたいな〜、とか。ナマエちゃんと行けるなら行くだとか。あちこち行きたがる私に、彼はつきあってくれていた。
 実際は夜更かしで、翌日早いのに数独をやめず、朝になればアラームを何度も止めて格闘するねぼすけだったから、仕方なくおうちデートになったことも多々あるけれど。
 それでもこうして充分楽しかった記憶がよみがえってくるのは、事実私が、彼との恋愛を楽しんでいたからだろう。きっと、心底。
 スクロールの指を動かしていくと、ひとりで飲みに行っちゃだめだよ、という忠告文に出くわした。南雲くんは普段飄々としていてゆるいところがあるのに、わりと束縛しいな部分もある。良く言えば心配性、悪く言えば口うるさい。
 だけどもう、私は、そういうしがらみすべてから解放されている。私の言動をたしなめてくる彼氏はもういない、早く帰るにしても遅く帰るにしてもわざわざ連絡する先はない。私は私のしたいようにして、息ができる。それに。

「男は星の数ほどいる」

 浮き立つ気持ちでひとりごちた。なんなら、彼氏なんかいなくたって日々は楽しい。南雲くんと出逢う前までがそうであったように。吐いた独り言は春の終わりにさらわれて、跡形もなく消えた。
 浮かれた足つきで帰路を行く。今夜は好きなバスボムを入れて湯舟につかりながらなにか観よう、明日には部屋の大掃除をして、作り置きもして。ベッドリネンを探しに行ったりもして、夕方にはひとり居酒屋デビューもしちゃおうかな。そう考えながらスマホをしまった。
 浮かれているのは言うまでもなくアルコールのせいだ。世界もきらきらしてるし、音は遠く遠くにぼやけて飽和する。今夜私は傷心の自分を酔わせるためだけに飲み会に参加したけれど。正解だったような、気がしてくる。
 夜風が気持ちいい。初夏の香りをまきぞえに私の髪を吹きつける風は、だけどあかつきを覚えない眠気を誘発させるやわらかさだった。

「あのぅ……」

 自宅マンションに近づいたところで、とうとつに声をかけられた。外装を整えるレンガの花壇、傍らにそびえる黒い電灯の影から出てきたのは小さい男の子で、栗色の髪の毛がふわふわとしている。こんな場所でどうしたんだろう、保護者とはぐれちゃったんだろうか。さまざまなことを危惧しつつ、男の子と目線を合わせるようにしゃがんでどうしたの? と尋ねる。

「ひとり? こんな時間に危ないよ」
「うん……」

 シャイな子なのか、なにか言い出しにくいことでも抱えているのか、その子はうつむき、自身のTシャツをぎゅっと握った。半袖から飛び出た肌を見るともなしに見て少しおののく。時期的に日焼けしそうなものだけど、この子はおそろしく白かった。イマドキの子供たちはもう、公園に行って遊んだりはしないのかもしれない。

「あのね、お姉さん」
「う、うん!」
「こんな時間にひとりじゃ危ない……って、僕に言ったでしょ?」
「うんうん」
「じゃあさ〜、きみはどうなのかな」
「……は、へ?」

 まばたきのまだった。ほんの束の間。ぱちりとまたたき、次に目を開けるとそこには男児ではなくしゃがみこむ南雲くんがいた。目線の高さを合わせるように、こちらを覗きこんでくる。驚きのままわずかに背を反らして逃げれば、「うわ。かーなしいな〜、なにその反応。せっかくの再会なのにさあ〜」と唇を尖らせた。

「び……っくりした、」
「えへへ〜。でしょ〜」

 どんな仕掛けがあるのかはわからないけれど、彼が変装の達人だということは聞いていた。だからといって、こんな。こんなふうに出てこられたら、本人なのか別人なのか、瞬時に判別できるはずもない。

「ひさしぶりだね、ナマエちゃん」

 先に立ったのは南雲くんのほう。大きなシルエット、風にはためくトレンチコート、派手な柄シャツに上背のある男。闇夜に馴染む影法師みたいなその輪郭は、どう見ても自然消滅した彼氏の──というか、元カレの姿だった。手を差し伸べられておずおずと立ち上がる。
 真上で電灯がジィジィと明滅した。そびえる街灯のまあるく狭い明かりのなか、ずっと焦がれていた相手と見詰め合う。胸の内側が、急速に傾いていくのがわかった。柔軟というより軟弱な私の心は、脈拍を速まらせる。

「ナマエちゃん、仕事帰り?」
「そ、そう、」

 南雲くんは両手をポケットにつっこみ、首をかしげてフゥンと笑った。あのころとなんら変わらない、真夜中みたく静かな笑みだった。

「遅いね。こんな時間に帰ってたらさ〜、危ないんじゃない? いくら小さい子供じゃなくても」
「残業だったから」
「へー? 残業、ねえ……」

 彼の、片方の手が、近づく。タトゥーで飾られた指々は私の髪の毛をとき、片耳にかけた。ツと耳輪をなぞられて肩がはねる。おかしな感覚に鳥肌がたち、小さくかぶりを振った。頬に、指の背で触れられる。

「ナマエちゃん……こんなに顔火照らせといて、残業? ほんとかなあ〜。お酒のにおいもするんですけど〜」

 南雲くんがあごを引いた。背の高い彼にそのまま見竦められると、鋭いまなざしが前髪の隙間から何度も、何度もぎらりと垣間見えるようだった。

「……仕事帰り、上司とか、同期とか後輩とかと、飲んでて」
「同僚と? 合コンじゃないんだー?」
「まさか。違うよ」
「ならよかった」

 武骨な手のひらは私の頬をなぞる。そうして落ちていき、口角をさわり。

「……、」

 きゅっとひき結んだ唇を、やわく辿られた。南雲くんがキスをする寸前によくやる、身振りだった。目を見ると、彼はうすくまつげを伏せ、私の唇を見ている。どくり、といま心臓が大きく高鳴ったことが、どうかばれていませんようにと人知れず願う。絵のある指は、最後はあごにまでつうとすべり、離れていった。
 私はいつの間にか息を止めていた。緩慢な動作で触れられるのも、力の抜かれた気怠げなまなざしに見詰められるのも、ことごとく裸のときの熱を思わせる。私はこの人といると、世界からたやすく切り離されてしまう。南雲くんしか見えなくなる。いつだって。

「……どうしたの?」

 南雲くんが頭を傾けた。その口角は上がっている。逃れるみたく足もとに視線を投げれば、視界に映るのは女物のパンプスと、男物の革靴と。

「南雲くんは」
「うん」
「なんでここにいるの」
「ナマエちゃんに、どうしても会いたくなっちゃって」
「……そ、なんだ」
「元気してるかなあって気になってたし」
「ひとこと……連絡くれたらよかったのに」
「あはは、たしかに。それもそうだね。そんなの思いつきもしないで、急いで来ちゃった」

 視界が翳った。頭上の雲がまた、分厚くなったのだろう。月は隠れてしまった。だけど不思議と、そのほうが南雲くんのことがよく捉えられるようだった。

「それに」

 革靴がじり、と一歩、前に出る。つられるように目線を持ち上げた。ジ、と見下ろしてくる瞳はネオンも月明かりも届かない、完璧な黒だった。

「ナマエちゃんが知らない男と帰ってきてたら、どうしようかな〜……なんて思ってさ」
「な……」
「僕じゃない男のこと、ココ最近で家に上げたりした?」

 生ぬるい風が吹く。ゆらり、逃げ場を奪うようにはためくトレンチコート。昔からときおり辺りに漂った、攻撃的な、もしくは緊張感じみた気配が再び急に充ちていく。気を抜けば意識をやりそうなほどの濃さ──言うなれば、殺気のようなものが。

「し、てない。するわけないじゃん……!」

 外にもかかわらず、つい声を荒らげた。だって腹が立った、イラついた。変な気配にひるみはしたものの、でも同時にすごく悲しかった。これらの感情をいっしょくたにしたのなら、傷ついた、と形容できるだろうか。
 私はゆうべもあなたのことで泣いてたんだよ、と言ってやりたかった。映画の代わりに観たのはまぶたの裏の真っ暗闇と、そこに映る無数の思い出。南雲くんに会いたい、それだけ考えて眠って、なのに夢のなかでも会えはしなくて、疲労を抱えたまま出社して、一日の締めくくりにはアルコールを浴びるようにふくんだ。そんなふうになるのも初めてのことではなく、ふるならちゃんとふってほしいと悶々していた時期もある。だけどそれを伝えたり、私からふることができなかったのはほかでもない、私自身がこのひとを、心の内側に落っことしてしまったからだ。好きで、好きで好きでどうしようもなくなっていたから。
 なのに。南雲くんはひどい冗談をこぼして、軽率に笑う。

「……ナマエちゃん、泣いてるの?」
「泣いてない」
「嘘つきだなあ……」

 パ、と剣呑な雰囲気がたちまち消えていく。辺りにはただ、ジィジィと切れかけて鳴く街灯の音だけが在った。
 彼があちこちのポケットを探りはじめる。すぐさま、これしかないやと差し出されたのは新品のポケットティッシュだった。ティッシュにさしこまれた広告紙は、この近くに新装開店したパチンコ屋のもの。

「なんでいまごろ会いに来たの、」

 本当に、どうしていまなんだろう。ざらつくティッシュをまなじりに当てて考える。
 さっきまで、世界は絶対的に明るかった。荒波の下、深い海の底で自分の立ち位置が上手にわからなくても、ネオンが反射する空が存在してるならいいと感じられた。ようやくだった。ようやく、吹っ切れたと思ったのに。もう忘れよう、先に進もうって。男なんかいらないって、気持ちを切り替えたところだったのに。
 そういえば、南雲くんはいつもこうだったことをふいに思い出す。数日音沙汰のない日が続いたあと、連絡が届くのは、いつだってもういいや、待つのやめよう、と気分を転換させたころだった。この人は私を解放してくれない。酷い男、と、思う。
 じわじわ、瞳が湿っていく。世界がぼやけていく。にじみ出てあふれてしまうのは、南雲くんのための涙なんかじゃなく、私のなかに残されたわずかな幸福みたいだった。

「もう行くね、ばいばい、南雲くん」

 と。彼の横を通り過ぎた、のだけど。

「……泣いてる理由もわかんないまま、きみのこと帰せるわけないでしょ」

 腕を、遠慮がちにでも取られてしまえば成す術もない。ふり払えばいいのに、私はそんなこともできずにみすぼらしく泣いている。たかが恋愛ひとつのことで。たかが男ひとりのことで。

「南雲くん、」
「なあに」
「南雲くんはもう、新しい彼女できた? いまはフリー満喫中?」
「……は? どういうこと」

 傍らの端正な顔立ちが歪んだ。眉根を寄せ、怒るのはめずらしい。

「どういうこと、って……だって」
「僕たちって別れたの? いつ?」
「ちょっと、」
「どこで? どうやって、ねえ、答えてよナマエちゃん」
「ちょ、っと、腕、痛い、」
「……、ごめん」

 花の萎れるたたずまいとボリュームでつぶやくと、南雲くんはうなだれた。私を離したその腕で、くしゃりと自分の前髪を握りつぶす。叱られた子供みたいな仕草、微妙に歪んだままの表情かお。目頭、鼻根のあたりに寄ったしわが、まるで彼の焦りかなにかを露呈させているみたいだった。
 だからだと思う。だからおもわず、うちで話そう、と声をかけてしまった。初夏目前とはいえ夜はまだ寒いし、今日だって花冷えしているし。
 なんて、この期に及んで自分にいいわけをする自分を、まだ期待していいのかもと縋る自分を、浅はかでばかな女だなあと自嘲したくなった。
 また同じことをくり返すんだろうか。私はあんなに、放っておかれることに苦しんでたのに。
 目の前のマンションに向かって歩き出す。そのうちに後ろからも足音が聞こえた。ふたりぶん、ちぐはぐな歩幅と足音は、どうにも沈んでいる。



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