2025.05.01
日々はままならないことの積み重ねだなあと思うと
暗澹な気持ちが込み上げて、ため息がでた。
帰宅後、すぐの玄関でなにげなくメッセージアプリを起動し、そこに彼氏の名前がなかったためじゃない。彼と音信不通になってしばらくが経ったのに、彼からの連絡なんてまったく入らなくなったというのに、なにか届いてるんじゃないかと考える間もなく無意識にアプリを確認する自分がいやに虚しいと、気づいてしまったせいだった。
彼氏からの連絡が絶えなかったころと同じ感覚でアプリをひらき、確かめる癖までついてるままの自分。一方で一切なにも送ってこない恋人。どちらが健全で不健全かは、明白なような気がした。
「南雲くん、」
玄関で靴を脱ぐこともせず、彼の名前をつぶやく。当然返ってくるものはない。その場にしゃがみこみ、スーパーの袋を廊下に置いて漫然とひざを抱えた。足が痛くならないという謳い文句で選んだ仕事用のパンプスは、足先も土踏まずも痛いし、廊下に置いた袋はへこたれたスズランのように萎んでいる。見事に落ち込んでいますといった空間の仕上がり。
買ってきた食材、冷蔵庫に入れなくちゃ。思いつつも私は動けないでいる。手のなかに持ったスマートフォンの、画面の灯りがやがてオフになった。あの人からの通知が鳴ることは、その後もない。
ぼうっと顔を上げる。廊下の突き当り、換気のためにと朝からひらいてあったリビングへ続くドアの向こうは、真っ青な月明かりで満タンだ。正面の奥にはうすいレースカーテンのかかった窓がある。小春日和ももう終わるな、と思う。鮮烈な夏の色をしたあおあおしい葉っぱが、夜空の下、ベランダの柵を越えたところで梢を揺らしているのがレース越しに透けていた。月光がところどころに当たり、葉の色素をすっかり抜いてしまっているふうにも見える。
きれいだった。そして、なんだか無性に、淋しかった。
夜、ひさしぶりに夕食をとらないで過ごした。悩んでいても毎日朝はくるし、朝が終わればコインを裏返すように夜になる。
その繰り返しのなかで私は普通を心掛けて暮らしていたものの、今夜はお風呂にもお湯をはらず、シャワーを浴びた。お気に入りのバスボムがいくつか常備してあるけれど、全部南雲くんと買ったものだ。これ入れて一緒に入ろうね〜、なんて、手にしたピンク色の一個よりも甘ったるい声で言われたから取っておいた、わけじゃなく、ただ、ふたりで選んだバスボムが溶けだしたお湯に手足をつけて安らげる自信がなかった。
ひとつずつ、生活から南雲くんの気配を削除していかなくちゃいけない。バスボムにはじまり、ペアで買ったカトラリーや食器類。彼の置いていった数独の冊子も、アイマスクだとかXXLサイズのスウェットだとか、歯ブラシだとか。
南雲くんと音信不通になってずいぶん経つのに、彼はいまだ私の日常のなかにいる。肌の下にまで入りこみ、浸透し、私の心を占拠している。けっして大きくも広くも深くも強くもない心のなかは、とうにみちみちだ。自分のものであるはずの体内を他人に染められるのは始末が悪い。生半可な想いじゃどうにもできないし、相手への感情が重症化するほどに心のまわりは重くなるばかりだった。
お風呂上りのスキンケアをして、ベッドにもぐり、ぼうっとサブスクをサーフィンする。なんの映画を観よう。明日も仕事だからドラマのほうがいいかな、なんて思案していると、南雲くんともこうして映画を漁った夜があったことを思い出した。
うちでのお泊まりデートの日。夜更け、ベッドに入って壁に写したスクリーンでなにかを観ようと話題作を吟味して再生した。それがなかなかにおもしろくて、私たちはふたりとも最後まできっちり観て抱き合うこともなく寝てしまい、翌朝、昨日のぶんもくっつこーよ、としつこい南雲くんが原因でなかなかベッドを出られなかったのを憶えている。
「あーあ」
そんなときもあったなあ、また視界がにじみはじめてきて、情けない。男のことなんかで泣きたくないのに、心はひとりの男のことでいっぱいいっぱいだ。なんとなく暗くて広大な海を彷徨っている気分だった。上下も左右もわからない、自分の現在地もなにもかもが不明瞭みたいな心境。どこへ進んだらいいのか、戻るべきなのか、果てしない航海はいつ終わるのか。濁流に飲まれ、うずまく海水に溺れていては息継ぎも難しい。
結局、顔を枕にうずめてシーツをかぶった。もともとなにかを観るのは大好きなのに、今夜はそういう気にはどうしてもなれなかった。
南雲くんはいまごろ、なにをしてるんだろう。だれかの傍にいて、私にそうしたように、指を絡め合っていたりするんだろうか。そのままアクションを観るかコメディを観るかで悩んだり、軽い言い合いでもしてるんだろうか。手を繋いでたらリモコンいじりにくいよ、と怒りながらも笑う自分の声が、もう、ずいぶん遠くのものに思えた。
──ナマエちゃん。
甘ったるくて優しい声が鼓膜の奥で聞こえる。意識で追いかけ、辿ろうとしたけれど、即座にあいまいになってしまう。何ヶ月も会えないでいると、唯一の頼みの綱である記憶さえぼやけてしまうらしかった。
南雲くん。私は、今夜もあなたのことばっかり考えてるよ。名前を呼んでほしいし、名前を呼びたいし、重なる手のひらの温度差についてなんてひどくくだらない話をして笑いたい。
ふたりで眠った夜、迎えた朝をいまでも鮮明に思い出せる。南雲くんの、おやすみのキスがしつこいところが可愛くて好きだった。どれほどくっついていても、もっともっととねだってくるところが鬱陶しくて好きだった。寝起きが悪いくせに、起き抜けは抱きついてきて離れないところも、デートやお泊まりのあと、お別れの時間がきたとき帰りたくない〜とくしゃくしゃの顔をするところもいとおしくて、とにかく幸福な気持ちにさせられて、どうしようもなかった。
私のことを、南雲くんはすでに忘れかけているだろうか。過去にしているんだろうか。どうでもよくなってしまった? 私はいまでも、こんなに、こんなに──。
帰ったときよりも大袈裟なため息をもらし、枕に鼻先を押しつけた。だけど息がしづらくて、最終的には横を向いた。手を伸ばしても、足を伸ばしても広い隣。
「……」
正直、勘づいてはいた。こんなの、正真正銘自然消滅だ。トークテーマとしてたびたび耳にしたことのある、だけどそれくらい現実味のない出来事が、いまや自分の身に降り注いでいるとやっと自覚をもつ。
失恋は、恋を失うと書くけれど、本当に失うのは大事な人のぬくもりなんじゃないだろうか。空っぽの隣、空虚を抱きしめるみたいにして考えた。四季くらいにいろんな色を見せてくれる人との恋が拗れてから、私の胸にはぽっかりと穴が空いてしまった。それはいま、ついに南雲くんと同じだけの大きさ、同じだけの質量をもってして私を苦しめる。
この先、私はこの穴ぼこをなにかで埋めていかなければならない。なにか──たとえば友達との時間だったり、小説の世界にとっぷりつかってみたり、音楽を聴き耽ってみたり。あるいは、新たな出逢いに身を投じたり。
ふいに、目頭のあたりがズキ、と痛んだ。鼻のつけ根も鼻先も痛い、サイドテーブルから取ったティッシュでこまかくあふれる涙をぬぐった。
せっかく寝ようとしてたところだけれど、明日、目が腫れないように冷やそうと起き上がる。私はもう学生でもないから、会社でぼろぼろの顔は見せられないし、見せたくない。
洗面所に行く前にベッドへ腰掛け、手触りのいいシーツを後ろ手で撫でた。
自分がまだ十代で、学生だったら。もっと真夏みたいに情熱的で、素直で、淹れたての紅茶くらいに熱くて、まっすぐだったなら。子供のように泣いて喚いて、南雲くんにみっともなく縋ることができたんだろうか。好き、愛してると五感全部で伝えて抱きつくことができたんだろうか。彼の家に押しかけて、この、瞬間凍結してしまったような恋心を再び育むこともできたんだろうか。
それらは考えてみたところで、答えの出るものではなかった。あきらめてフと息を吐き、立ち上がる。
そうだ、どうせフリーになったんだし、次のお休みにはひとりっきりで出掛けたい。新しいベッドリネンを一式そろえに行くのもいいかも。南雲くんとのデートで決めたいまのセットは、使い心地も悪くないしお気に入りだけど、ゴミ袋に詰めてしまいたかった。思い出ごと。
そうしてなにもかもを一新して、終わらせたい。あの人のいない、長くて暗い夜。ひとりでも眠ることができるのに、まるでそんなことちっともできないというようなみじめな自分と、さよならがしたかった。ちゃんと。季節が、夏になる前に。