we go down together
嘔吐注意/240518





 ひとつの闘争が終わった。私はかろうじて軽傷で済んだから、傷を負った仲間たちの応急処置を施しながら損壊したビルを歩き続ける。

「……」

 ごろごろと転がる敵の死体を避けて進み、地下へ続く階段付近に陰を見つけてやっとしゃがみこめば、うつむいた先の床がぐるぐる回転するようだった。アルコールに酔ったときよりも過激な眩暈に唇を噛み締める。やられた、と思った。この感覚は間違いなく、薬かなにか盛られている。
 目をつぶると脳内の揺れが余計に激しくなる気がして、結局まぶたを持ち上げた。ハアと吐いたため息は自分でも信じられないほど熱い。
 どくどく脈打つ心臓のあたり、シャツの胸もとをくしゃりと握る。そうしてどんな種類の薬物を投与されたのか、と考えた。けれど思考がうまく働かない、これといった見当をつけることはできなかった。
 スマートフォンでフローターを呼ぶ。合間にも体はじっとりと汗ばんでいく。不可思議な感覚はとても心地好いとは言えなくて、眩暈や頭痛に苛まれながら顔をしかめた。

「あれ〜」

 直後、ふいに聞こえた声に肩が跳ねた。やけに軽快で、甘ったるさをもはらむ声。それが誰のものだか、即座に理解する。どうしてこの人が、とか、ひとつの足音もなかったのにいつの間に真後ろに、とか。背中らへんの気配に驚愕する反面、いつもそうだなあとも思った。この人、南雲さんは、いつもいきなり現れる。

「ナマエちゃんじゃん。こんなところでどうしたのー? 床におもしろいものでも見つけた?」

 リズムに乗るような柔和なくちぶり。ふり向けば、夏のひまわりみたいに背高い影に覆われていた。スーツを着込んだ、同じ会社の先輩が微笑む。

「……どうしてORDER南雲さんがここに」
「や〜、なんかさあ、僕のターゲットがこのビルに逃げ込んじゃって。参ったよ、ここって別組織のアジトでもあったし。ま、そっちはきみたちのほうでどうにかしてくれたみたいだけど。……それより」

 南雲さんが真横に片膝をついた。近づかれると、硝煙のにおいがわずかに強まるようだった。新たな血のにおいはしてこない。彼は返り血ひとつ浴びてないらしい。私と違って。

「ね、大丈夫ー?」

 電気の切れた、つめたくて薄暗い空間。戦いのあとのボロボロな建物は廃墟の様相を呈している。窓から細く入りこむわずかな陽光さえ遮り、南雲さんは首をかしげてみせた。私は相変わらずこの人の作る影のなかにいた。凪いだ黒い瞳がぐんと近くなる。そこに映る自分の輪郭は、冗談みたいに頼りない。

「だいじょぶ、です、」
「え〜、ほんとかな〜、相当つらそうに見えるけど。……なにか盛られちゃった?」

 人気ひとけのないビル内で、そのとろんとした甘い声はやけに非現実的に響いた。夢と現の狭間で聞いてるみたいだ。──これはまずいかも。私の意識が、ぐらついてきてる証拠かもしれない。

「はい、たぶん……毒薬を」

 そういえば戦闘中にガスを撒かれたな、少し吸ってしまったけれどあれが薬剤だったんだろうか、と思い出しながらうなずく。とたんに自分は失態を犯したんだという現実に直面し、どうにもやるせない気持ちになった。

「ちょっとごめんね〜」

 下まぶたに指が添えられる。うすく引き下げるみたいにされ、光を取り込まない夜色の瞳にまじまじと見詰められた。

「瞳孔の散大は見られないか。メタンフェタミン系の薬物ではなさそうだね。吐き気は? ある?」
「いえ、」
「幻覚剤の類いでもないのかな。遅効性の毒だとしたら厄介だよね〜」

 ぼやきつつも、南雲さんはスラックスのポケットからスマホを取り出した。肩と耳で挟むようにして殺連本部に電話をかけはじめ、ひとり医務室に連れてくからベッド空けといて、あと点滴の用意も、などとすばやく口にする。その間も私はひたいに手の甲を当てられたり、手首で脈を測られたり。
 要件のみを伝達する通話は、三分と経たずに終了した。

「とりあえず、外に車つけるよう言っといたからそのまま医務室直行しなよ。報告書はあとであげればいいから」

 スマホをしまった南雲さんが手を伸ばす。ぴしっと糊のきいたスーツの袖、硬い腕が私の腰にまわった。立てる? 聞かれてどうにか足に力を入れるものの、支えがあろうと歩行は困難で、ひどい焦りが芽生えた。五感のなにもかもが奇妙だ、不安定で仕方ない。
 ふと、立ち上がろうとしたことで、汗ばんだこめかみにはりついていた髪が垂れ落ちた。ほぼ同時にタトゥーで飾られた指が私の耳もとに寄せられる。髪を、耳にかけられる。

「ッあ……!」

 いきなりだった。びりびりと、強い刺激が体じゅうを走っていった。そのとき自身から漏れた声はあからさまに嬌声じみていて、焦燥感がふくれ上がる。
 残っていたはずの力も完全に抜けてしまった。おかしい。こんなの、絶対におかしい。だって私はいま、梳かれた髪の毛を耳にかけてもらっただけなのに。
 ──眩暈がひどくなっている。自分の呼吸音が荒い。全身をとり巻く空気が熱い。震えが治まらない。鳥肌がたち、そのぶんだけ、体じゅうに暴力的な気持ちよさが広がった。私を支えるために抱いてくれてる腕にさえ、ぞくぞくしてしまう。

「なるほどね〜」

 南雲さんがぽつりとこぼした。見上げれば、いつもの笑みもからかうような顔もない。彼は唇をつんと尖らせて、天井に視線を向け、数瞬。
 真っ黒な眼がこちらを見下ろした。かと思えば南雲さんは。

「一回吐いておこうか」

 と言った。言葉を返そうとするけれどなにも言えなかったのは、すかさず横抱きにされたせい。足早に移動していく南雲さんの、とくとくと鳴る心音が片耳の傍で聞こえた。



 運ばれた先は、ずいぶん簡素な部屋だった。休憩室かもしれない、革張りのソファや今日の新聞がかかったマガジンラック、手狭なキッチンスペースと、シンクの上には干されたコップがいくつかある。何人かの人間が銃を構え、手榴弾を投擲とうてきして暴れ回ったあとにもかかわらず、この室内はそこまでの損壊が見受けられない。目立つのはさながら地割れにも似た壁のひびくらいだ。

「ここ、さっきたまたま通りかかったんだよね。この部屋ならきれいだし少しは落ち着けるでしょ」

 ソファへと下ろされる。ほかにどうすることもできずにおとなしく横たわれば、傍らに置かれていた観葉植物の葉が、鋭い陰影を伸ばしているのが見えた。昼間であるとはいえ、この室内もやっぱり仄暗い。
 そんな場所で唯一ぬくもりを持ってるような南雲さんが離れていく。後ろ姿を目で追うと、水道をひねる音が耳に届いた。ざあざあと鳴りだす流水音。よかった、水道は生きてるね、と喋る彼の声は清い水の音にまぎれ、どこか遠い。
 ほどなくして、ソファの前にあるローテーブルに紙コップが置かれた。水を持ってきた南雲さんは白いビニール袋も手にしている。

「どう? 吐けそう?」
「は、い……」

 しゃきっとしたいのに、まともな受け答えができない。そのうえ本当は、きちんと吐けるかどうかも怪しかった。だけど一応首を縦に振り、退室を目でうながす。吐けるから、吐くから、見ないでください、と。

「なぐ、もさん……?」

 ただし彼は動かない。こちらをジッと見詰めたまま、なにかを逡巡しているみたいだった。

「ナマエちゃん、一旦起きよ」
「あっ」

 背中の下にさしこまれた腕。かすかに持ち上げられる上体、くるりと寝返りを打つような姿勢にされれば無意識にソファの座面へと片肘をつく。私は寝そべったまま、腰から上をねじる形になって身を起こした。支柱代わりにしてる片腕とは逆の手もソファにつき、なんとか体勢を保持する。
 南雲さんはローテーブルをずらし、正面といえる位置にしゃがんだ。ビニール袋を無言で広げていく。エチケット袋としての機能を持ちだしたそれが、目の前にかざされた。鼻腔を通る、ビニールの独特なにおい。

「んッ……」

 脈絡もなくツゥと首すじを指で辿られ、おもわず体を揺らしてしまった。漏れ出た声が恥ずかしくて口を噤む。単に、重力に従って落ちる私の髪束が押さえられただけなのに。彼のそんな気遣いも、いまは果てしのない毒だった。
 目も当てられない反応をする私の一方、南雲さんは真面目な表情を崩さない。普段みたくいたずらに笑いかけてこないことが、とにかく救いのように感じられた。

「口、開けてられる?」

 ふいうちの問いかけ。くち、とオウム返しする。
「そう。できる? あーんって開けてるだけでいいからさ。やってみて」

 吐きやすいようにだろうか、まさか南雲さんは私が嘔吐する間も、ここにいる気なんだろうか。さまざまな疑問が不安をともなって浮かんだ。でも思考はだんだんと回らなくなってきている。ぽわ、とほうけた状態で彼の指示に従う。

「いい子だね」

 褒めてくる口調はひどくやわらかだった。静かな夜に、ひそひそと囁くみたいに。

「なか、さわるよ」
「え、ん、ッんん……?!」

 突然、口内に異物が押し込まれた。南雲さんの指、だ。

「ぁ、らえ、れふ、よごえひゃう、」
「いいよ。汚れても僕は気にしないから。本当はひとりじゃ吐くのきついんでしょー?」

 それは、そうだけど。こんな。こんなの、

「ぇあ、」

 武骨なそれは私の閉じかけた唇を割りひらき、舌をなぞり、奥まで入っていく。急な出来事に理解が追いつかない。かといって自身の体をまっすぐ支えながら抵抗することはとてもじゃないけど不可能で、どうしようもなく、ただぎゅっと目をつぶった。

「ナマエちゃん、息、して」
「は、」
「そう、止めないで。呼吸したほうが楽に吐けるから……ほら」
「んッ」

 ぐり、と奥まで入れられた指が、喉の上のあたりを柔く押し上げた。苦しい、口蓋にまとわりつく違和感がものすごい。基本的に他人に触れられることのない場所を刺激されると、お腹が、胃が痙攣した。強い吐き気に襲われる。
 だけど、──感じるのは、それだけではなく。

「ふ、ぅ……」
「……」
「ん、ッん、」
「あー、こら。口閉じようとしちゃだめだって、ちゃんと開けてなよ」

 どうしよう。どうしたらいいんだろう、鼻にかかった変な声が出てしまう。こらえたいのに、めまぐるしいほどの気持ちよさに呑まれて我慢できない。全然、できてない。
 あてどもなく彷徨う心地になり、ぎゅ、と両手でこぶしを握った。大丈夫だよーとなだめるような、砂糖漬けにしたような甘い声が間髪入れずに降る。心配ないからね、早く楽になっちゃおうね。南雲さんは言い、少しも躊躇するそぶりを見せずにさらに奥まで、指を。

「ッ、……ッ」

 閉じられない口から唾液がこぼれていくのがわかる。ああ、やだな、南雲さんの手を汚したくない。霞む意識のはじっこで、そんなことを思ったときだった。

「んー。もうちょい」
「あ、」
「……ここ、かな〜」
「ぁ?!」

 カリ、と、とても深いところを微量な力加減でひっかかれ、目を見ひらいた。嘔吐えづいてるせいで出てくる生理的な涙がぽろぽろと落っこちていく。それは南雲さんのごつごつした手首までを、濡らしていた。

「ぅ、」

 やがて強大な嘔吐感がやってくる。体内をぐちゃぐちゃに掻き回されるような気分に陥り、全身がこわばった。内側からなにかがせり上がってくる。気持ち悪い、きもちわるいのに、乱暴な快感までがある。甲高い声を抑えられない、このままじゃ、私、もう、

「あとちょっと頑張ろっか、ナマエちゃん」
「──ッ、」

 頭が、ぱんと弾ける心地がした、すべてが真っ白になる。ふわふわと宙に放られたようでもあるし、真っ逆さまに落下していくようでもあった。胃から逆流した水分が喉を通っていくのを感じる。口のなかにはいまも、硬い指が入れられたまま。

「うん。ちゃんとできたね〜。えらいえらい」

 つぶやく南雲さんの声は、ぐにゃ、と溶けているみたいに聞こえた。
 くったりしながらも肩で息をすれば、口のなかから指が抜き去られる。備えられていたビニール袋も遠ざかった。ぼやける視界で捉えた二本指、タトゥーの彫られた指たちは唾液に濡れ、てらてらと湿っている。
 つぷりと途切れた透明の粘液が私の唇の横にはりつくと、乾いたままの親指に、それをぬぐわれた。
 あ。
 呼吸がしやすくなっていることに気がついて驚く。皮膚の下にはびこる、どこもかしこも蹂躙するような厭な感覚はまだ多少残っているものの、眩暈だったり胸の苦しさだったりガンガン響く頭痛はなくなっている。

「ましになった〜?」

 こくりと小さくうなずけば、「そっか。よかった」と笑みを乗せた応答があった。乱れた呼吸のテンポを整えつつ、手を借りて立ち上がる。水道水でうがいをして、口をゆすげば、不快感もかなり減っていた。
 次いで両手を流す南雲さんを見ながら、あーあ、迷惑かけちゃったな、見苦しい姿を晒してしまった、気まずいなあ、なんてしょんぼりしたところで、騒がしい足音が辺りを駆け巡った。
 フローターの到着だ。ドアのほうを一瞬ふり返る南雲さんの黒髪が、さらさらなびいた。

「念の為、きみはもうちょっと休んでなよ」

 私はもう、なにかに、たとえばシンクのへりだとかに掴まればひとりで充分立てるようになっていたのに、スーツの袖に通されたたくましい腕がひとりで歩くことを許してくれない。危ないよ〜という安穏な声色で注意され、腰や背中にぬくもりが触れた。

「……、」

 支えられれば、体にまだ残る違和感を明確に認識する。南雲さんの言うとおり、私は小休憩するべきかもしれない。体内にある引っかかりがなくなるまで。
 ソファに戻ると、私だけが横になった。南雲さんは傍らに立つ。

「あの、南雲さん」
「うん?」
「ありがとうございました」
「どういたしまして〜」
「……ご迷惑おかけしてすみません。スーツのクリーニング代、後日お渡しします」
「そんなのべつに気にしないでよ」
「でも……じゃあなにかお礼させてください」
「あはは、律儀だね〜!」

 おちゃらけたふうに言い、ほどけるような笑みを頬に浮かべるこの人ははたから見てもおそろしく整った顔をしている。ちょうど、絵画の天使がこんなふうだ。

「なら、今度ランチつきあってもらおうかな」
「ランチ……ですか」
「そー。あのねえ、ひどいんだよ? 豹も神々廻もぜーんぜん一緒に食べてくれなくてさ〜、僕泣いちゃいそう。……てのは冗談だけど。きみと食べたいのは本当だから。せっかくなら社食じゃなくて、どっか近く出ようよ」
「……そんなことでいいんですか? それじゃあ今回のお礼には、」
「ならない、って思う?」

 南雲さんがフと顎を引いた。かわいいというよりは妖艶さをたたえる笑みで、こちらを眺め下ろしてくる。
 返事に迷っていると、ヴヴヴ、とスマホが震えた。ディスプレイを確かめれば、迎えの車が着いたようだった。

「行こうか。立てる?」
「……はい」

 ふうと息を吐き、ソファを立ち上がる。
 ひとりで歩くことは造作なかった。体が、次第に回復していってるのを感じる。ただし真ん中にある心臓だけはいまだどきどきと高鳴っていた。

「ランチ行ったときはさ」

 建物に響いた声。前を行く南雲さんの背中を見詰める。

「食べ物に毒、入ってないといいね〜」

 ちらりとふり返った彼と目が合った。南雲さんは返事を待たず、二秒で前へと向き直る。
 ぼんやりと、応えそびれた自分の唇をさわった。まだ熱い。そこには豪胆な指の感触がいまも残っているような気がした。甘い毒みたいな、南雲さんの体温も。



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