2025.05.15
外のにおいが変わった。やわらかく吹く風に桜の花びらは乗らなくなり、そよそよと揺れる葉っぱは青さを増した。洗濯物を干すときに、そのあまりにも優しい季節の変わり目を感じてなんだか異様に悲しくなった。
目の前でさまざまな形の服がはためく。それはこどもの日に揺れるこいのぼりよりずっとシンプルで、無彩色で、退屈な景色に思えた。私もカラフルな服を着てみようかなと一瞬悩む。たとえば、南雲さんがいつも着ているような派手なものを。
なにも知らないふうに輝く太陽がまぶしい。ベランダから早々と避難してリビングに戻る。そうして時計を見れば、もうすぐ朝とはいえなくなる時間だった。
今日は一日予定を入れていない、せっかくなら大掃除でもしようかと辺りを見回す。と、ソファの隅っこにあるうすっぺらな冊子が目にとまった。数日前にうちへ寄った南雲さんの置いていった、数独の冊子だった。
南雲さんはうちに来るたび、こうしてなにかしらを置いていく。それはネクタイだったり、ネクタイピンだったり、スマートフォンのモバイルバッテリーだったり、時にはアウターだったりする。
だから私は南雲さんに連絡を入れて、たびたび取りに来てもらうはめになったし、そういう夜は結局彼と寝た。つきあってもない、下の名前も知らない相手となにをしてるんだろうという思いもあるものの、会えばいつでも南雲さんが欲しくなってしまう。離れられるのが怖くて関係性を問いただせないくせに、抱いた想いをうまく割り切れず、余り有る恋をしている自分に呆れ果てる。
「……」
数独の冊子は、コンビニでよく見かける安価なものだった。これなら捨ててしまってもいいだろうか。返すとか返さないとか、揉め事を引き起こす要因にはきっとならないうすい一冊を見下ろす。
そのまま捨てようと、掴んだところでなにかがなかから舞い落ちた。過ぎ去った季節の花びらみたいにひらりと舞うそれは、ふたりで初めて観た映画の半券だった。私たちがまだ、外でばかり会っていたころの記憶がふいによみがえる。
拾えば半券は
陽に焼けていた。紙切れの端はぼろぼろで、何度も使われていたのがわかる。しおり代わりにしていたのかもしれない。
つまみ、見詰め、数秒。ほんの小さな過去の記録、思い出の
跡形のような半券をどうしても捨てる気になれず、逡巡のあと傍のローテーブルに置いた。冊子も一緒に。ここに南雲さんの物がある。確かに在るのに、あの人はここにはいないのだと思った。
スマホだけは一応もって家を出る。暑さに灼かれながら目的もなく歩いた。散歩はいい、頭のなかを空っぽにできる。葉擦れの音がざわざわと騒がしいのが、ちょっとした救いに感じられた。
うつむき加減にぼんやりと進む。外のにおいはやっぱり変わっていた。私と南雲さんの距離は、少しも変わっていないのに。
人の少ない歩道を行きつつ、初夏の空を仰いだ。途方もなく高い青空、まぶしい太陽が頭の上で燦々と照っている。このまんまるの、燃え尽きることを知らない恒星が、本当に世界じゅうどこを見渡してもひとつしかないというのなら、じゃあいまこの光とまったく同じものが南雲さんのことも強く照らしているのだった。
どこに行こう。再びうつむき、行く宛てをしっかり定めるでもなく歩いていると。
急に前へと立ちはだかった大きな影。
「南雲さん?」
目線を上げれば、そこに立っていたのはいまさっき私の脳内を占領していた人だった。おもわず目を丸くしておどろく。彼は突然現れる、いつだって。
「おはよう、ナマエちゃん。……おはようっていうか、もうこんにちはかな〜」
トレンチコートを柔い風にひらめかせ、両手をポケットにつっこむと、南雲さんは口角をきれいに曲げてみせた。完璧な絵みたいな笑顔だった。
「……どうしたんですか、こんなところで」
「きみの家に行こうと思っててさ〜。今日はなんの予定もないってこの間言ってたから」
「だったらなにか連絡してください」
なんて応えたとき、またやってしまったと思った。私はまた、欲を発散しに来ようとする南雲さんを易々と受け容れてしまった。
「ごめんごめん」
手刀を切るようにして謝ると、南雲さんは続けざまに「どこか行くの?」と言った。散歩にと言いかけて、でも、出かけるんですと返す。
「ふうん。お出かけね〜」
「はい」
「手ぶらで?」
南雲さんの黒い瞳が細められた。嘘を射抜くまなざしに、うろたえる。
「そんな顔しないでよ。責めたいわけじゃないし」
にこりと笑みを深め、一転して明るい雰囲気を醸し出した彼は「たださ」と言葉を繋げた。「僕、嘘つかれるのは悲しいかも」。緑葉のこすれる音にまぎれる声は切なげで、春の終わりにとても似合う、青いネモフィラと同じ色をしている。
「……本当は、散歩に」
「お散歩?」
「はい。いい天気だから」
空を眺めると、ちぎる前の綿とそっくりの雲のかたまりが大きい。正面に向き直れば南雲さんも晴れ間を見詰めていた。なだらかな頬のカーブが光で白くふちどられている。
「僕もついてっていい?」
出逢った日よりずいぶん優しくなった口調。棘を抜いたようなトーンの問いかけにうなずいた。隣に並んだ南雲さんと、ふたりで歩きだす。
「ねえねえナマエちゃん」
沈黙のなかを淡々と歩いているところだった。切り出され、視線を向ける。
「このあと空いてるなら映画観に行かない? いまさあ、燃えよドラゴンのリバイバルが上映してるらしくて」
「燃えよドラゴンってブルース・リーが出てるやつでしたっけ」
「そうそう。僕あれ結構好きなんだよね。勉強にもなるし〜」
カンフー映画で勉強? なんて疑問に思いながら、いいですね、映画、と応じた。家にこもって絡まるより健全だし──今日で会うのを最後にするためには、うってつけのプランにも思える。
「南雲さんって、映画好きなんですね」
言えば、ぴたりと南雲さんが足を止めた。すぐそこに横断歩道が迫ったからだった。私も続いて立ち止まる。
「うん」
横を見上げると、南雲さんは少しだけ背を丸め、目線の高さを近づけるようにしてくる。服の袖がこすれ合うほどの距離感だった。静かに見詰め合う。
「……好きだよ」
形のいい唇がつぶやいた。視界の片隅で、青信号に変わったネオンを捉える。でも私たちは動かない。南雲さんも歩きだすことをしないまま、こちらをジッと見詰めている。ふたりでベッドのなかにいるみたいだと思った。こんなのキスの直前みたい。外にいることを忘れるくらい、私たちはいま、ふたりきりだった。
「ナマエちゃんが言ってたでしょ」
はっと意識を戻す。辺りの音が再び耳に入ってくると、車の行き来するのが見えた。信号はまた赤になったらしい。
「映画観るのが好き、って。初めてふたりで映画館行ったときに。だから、僕も好きになった」
「そんなの、」
私の好きなものを好きになる、なんて。愛めいたセリフに喉がつまる。
何秒経っただろう、なにも言えないでいれば、南雲さんが腕を伸ばした。大きくて骨ばった硬い手が、私のそれに重なる。あんまりにも自然に指先までもが絡まった。そうしてるのがあたりまえみたいに。行為の途中でもないのに手を繋ぐのは、初めてだった。
「行こ。青になったよ」
「あ、」
腕をひかれて一歩踏み出す。歩く最中、隣を見上げれば当然南雲さんの横顔があった。長めの前髪から覗くつんと尖った鼻筋、まっすぐにひき結ばれた唇、普段とは雰囲気の違う真剣なおもざし。たまに空気を上下に撫でる、漆黒のまつげ。
好きで仕方ない人の姿。
「あの」
「んー?」
「……来た道、戻りませんか。散歩はやめてこのまま映画観に行きたい」
望みを口にしてみると、彼は歩くスピードをゆるめた。私のほうを見て、淡く笑う。おだやかな微笑みは、胸の奥をじかになぞる。
「うん。いいね」
このままタクシー拾っちゃう? あ、それとも荷物取りに帰りたい? そう首をかしげる南雲さんに一回帰りたいと伝え、道を引き返した。
繋いだ手にきゅっと力がこめられる。いま手もとに南雲さんの物はなにもない。でも隣には彼がいた。
次に名前を呼ばれたのは家のなか、玄関ドアを閉めた瞬間。
「ん……!」
ふり返る間もなく壁に押しつけるようにされ、唇が触れ合う。押し返してみても筋肉質な体はびくともしない、腰を抱かれてしまえば為す術はなく。くちゅ、と濡れた音がすぐそこから聞こえた。舌を入れられると、足が、肌が震える。
「なぐもさ、」
「……ごめん、もうちょっと……」
「んん、」
くちづけたまま喋る南雲さんの片足が、私の両腿を割るみたいにさしこまれた。立ったままするのはほとんど真上を向くような体勢になって苦しい、
どんどん深くなっていくキスに胸ぐらを叩いて抵抗するけれど、南雲さんはやめてくれない。歯列を辿られ、舌先を噛まれて口蓋までを舐められる。うなじに添えられた大きな手のひら、耳のふちを伝う指。長いキス。
唾液がとろりと落ちてくるのがわかる。水中に沈んでいくような重たいくちづけにちょっとずつ苦しくなって、こく、と唾液を飲みこめば吐息みたいな笑い声が聞こえた。ナマエちゃん、重なる唇の隙間で囁かれる。
「……僕の、飲んだ?」
「飲、ぁ、」
「もっとしてみせて、それ」
派手でカラフルな柄シャツの襟ぐりをきつく握った。バランスを失くしてうまく立てない、南雲さんがいないとちゃんと立っていられない、この恋のせいで、私はもうひとりじゃ歩けないかもしれない。
怖い、
「や……!」
どん、と強く突き返せば、腰にまわされている腕が緩む。壁に凭れるようにしてどうにか立ったまま、潤むのを抑えられない視界で南雲さんを見上げる。
「……映画、行こって、言ってたのに」
絞り出した自分の声も、湿っていた。
「最初からしたいだけだったなら、そう言ってくれたら私、べつに映画なんか行かなくても、」
「違う。違うよ、ナマエちゃん……ごめん」
謝ったっきり、南雲さんが口を閉ざした。
そっと目尻をぬぐわれる。自分が泣いてしまったことに気づく。情けなくて、嫌になる。
「南雲さんは、誰に対してもこうなの」
「……こう?」
「体だけを欲しがるの?」
「は、……そんなわけないじゃん」
「じゃあ、私にだけこういうことをするの?」
したいときにうちに来て、満足したら帰っていって、会う夜の約束を交わす連絡しか取り合わなくて、普段なにしてるのかも、下の名前も教えてはくれない、そんなふうにするのは私にだけなの? いくつも浮かぶ疑念をぽろぽろこぼした。南雲さんと関係をもってから、ずっと頭のなかに根を張っていた悩みをすべて。
「それならもう、南雲さんとは会いたく……」
ない、と勢いのまま言い切る前に、フッと抱き寄せられた。ひどく弱々しい力だった。
「……離して、」
「離してあげられない」
ごめんね。もう一度言い、また黙りこくるばかりのこの人を毅然と突き放せたらよかったのに、どうしても、私にはそれができない。私は今日も南雲さんが好きだった。昨日と変わらず。初めて言葉を交わした一年前の春の日よりずっと膨大に、好きだった。
「きみが大事だよ」
南雲さんがぽつりと囁く。
「ナマエちゃんの体だけが目当てなんじゃない」
「だったら」
「でも。きみが大切だからこそ、こういう会い方しかできないし……僕のことはなにも教えられない」
どうしてと喚きたくなる。そうしなかったのは、南雲さんの声音が怪我を痛がる子供のものみたいだったからだ。
「それでも、こうやって来るのはやめられない。やめたくない、……わがままだってことはわかってるんだけど」
小さなボリュームで話す南雲さんを見限ることもできず、かといって抱きしめ返すことさえできないまま、腕のなかで目をつぶった。
まぶたの裏に景色が映る。ふたりで歩いた道のり、ごうごうと燃える太陽。丸い炎がじりじりと肌を灼く感覚。この恋は、真っ赤な太陽にどこか似ている。
「ナマエ」
呼ばれ、顎をすくわれ。頬をさすられ、花を枯らすような夜闇を宿す黒い瞳を見詰めると、さっきしたのとは正反対の、優しいキスが降った。少し涙の味がした。
「僕にはナマエちゃんだけだよ。後にも先にも」
「……うそつき」
「まさか、嘘じゃない」
僕、きみには嘘つかないって決めてるから、なんて南雲さんはいつもの甘ったるい声で
戯言を吐いてみせる。
抱いてくる力が強まった。たわむれとは程遠い力加減で抱きしめてくる腕は、恐怖の対象から護ってくれるみたいでもあったし、逃がさないと言うみたいでもあった。もしくは、ひとりでは立てないと縋られてるみたい。
「ん……」
何度目かのキス。労わるようにされれば溶けていくように力が抜けた。
「泣かないで、ナマエちゃん。なんでもするから」
うそつき。なんでもなんてしてくれないくせに。大切だと言いながらも、好きだとは言ってくれないくせに。会いたいと望みながら、つきあおうとはけっして口にしないくせに。
──でも、私は。
「きみの望むことはできる限り叶えるつもりでいる。だからさ。もう会いたくないとか、言わないでよ……」
私は、南雲さんを拒絶することができない。さわらないでと拒否できない。
南雲さんの腕のなかにつつまれながら、自分はやっぱりまだ変われないんだろうと心の奥で予感した。春が終わり、夏がくるみたいに規則正しい順序をふまないで、私は明日もきっと南雲さんのことを想う。ひたむきに考えてしまう。名前のつかない関係性から目を逸らしたまま。いまいる場所から進むことも、引き返すこともできないまま。
この
男を、一心に愛したままで。