欲しがり
2025.05.28





 午後イチの会議室は気怠げな気配がみちている。昼食後にやってくる眠気と戦いながら進行させる論議は白熱をみせず、淡々と過ぎていく一方だった。
 ブラインドのおろされた窓、隙間からうすく射す陽光、ときおり明滅する頭上の電灯と規則正しく聞こえてくる資料のめくれる音。夏の放課後に教室へ忘れ物を取りに戻ったときだとか、海でひとしきり遊んだあとの帰りの車内だとかをぼんやり思い出しながら、私もあくびを噛み殺す。

「南雲」

 議長である上司が、手もとのパソコンをいじりながらもつぶやいた。その隣、直角に位置するところには南雲さんが座っている。手のひらで口を覆い隠しつつ、でも気を抜くそぶりはちっとも隠そうとしないまま、くぁ、とあくびをしていた南雲さんがぎろりと睨まれれば、場の空気が少し明るむのを感じた。

「いまは仕事中だぞ」
「わかってるって。僕にかまわず進めてよ」
「あのなあ。この件に関してはお前の──」
「一昨日の任務が大きく関わってる〜、でしょ? もう何度も言われたってば〜」

 はーあ、とやる気なさげにイスに背を凭れ、南雲さんはネクタイに指をかけた。それがわずかに緩まると、首すじのタトゥーがひときわ目立つようだった。彼は会議中には似つかわしくない、しなしなの顔をしている。
 だけど上司からの追撃はない。やれやれ、と呆れたようにはしているけれど、それだけだ。この会議に意味はほとんどないと、自分でも理解しているのかもしれない。たいていがそうだ、デスクワークではなく殺しを第一の業務とする人間たちがこうして集まると、どこか身の入らない議事進行がなされる。
 そうして結局、会議は盛り上がりをみせないままゆるやかに終わった。この間にターゲットをひとり、ふたりと殺したほうがよっぽど有益な時間を過ごせたんじゃないだろうか、なんて考えながらも気持ちを切り替えようとつめたいコーヒーを飲む。自分だってぽやぽやしてたんだから、のっぺりと進んだ会議にひとこと物申す権利なんかないのだった。
 テーブルの上を片付け、立ち上がる。同僚たちは続々と会議室を出ていくところで、ドアの向こうに消えるワイシャツ姿の背中が尻目に映った。私もその波に乗り、流されるようにドアへと向かう、と。

「ナマエちゃん」

 呼び止められた。ひとたび聞けば二度とは忘れられなくなるような甘さをふくむその声は、南雲さんのものだ。ほとんど同時に腕を掴まれて足を止める。ふり向きざま、私と南雲さん以外に残っていた最後のひとりとすれ違った。がらんどうになった会議室で、上背のある人をふり仰ぐ。

「ど──」

 どうかしましたか。そう言いかけて口をひらいたのに、言い切ることができなかった。
 暗く陰った視界、開けたままの目に映るぼやけたはだいろと黒髪。口先に感じるやわらかな感触。
 こちらを覗き込むように背を丸めた南雲さんの、くちびるが、私のそれに重なっていた。ふいうちだった。

「……」

 沈黙したまま、南雲さんがまぶたを持ち上げる。まばたきさえ忘れた私はぼんやりと霞む視界のなかで真っ黒な瞳を捉えた。あんまりにも近い、淡く見詰め合うというよりは、もっと、別の──捕食されているような感覚に、似ている。
 ふ、とかすかな笑い声が聞こえた。吐息とうりふたつのボリューム。微笑した南雲さんとの距離が、ゆるゆると離れていく。言葉を失くしている私の傍ら、彼はうすく口角を上げていた。

「な……、こ、」
「ん〜?」
「こんなとこで、やめてください……!」

 私たちはつきあっている、けれど。こんなふうに家じゃない場所で──ましてや会社でのくちづけなんて、初めてだった。そもそもが、彼氏と彼女という関係性になってまだまもない。

「あはは」
「なにがおかしいんですかっ」
「ごめんごめん。怒ってる顔、可愛くてさ」
「……!」

 つんとくちびるを尖らせて睨めつけるものの、微塵もダメージを喰らっていないらしい南雲さんはにこにこふわふわと笑みを浮かべ続ける。

「もう行きますよ。早く戻れって怒られちゃう」
「待って」

 掴まれたままの腕。痛いようにはされていない、でも振りほどくことはできないくらいの力加減で、私はもう一度彼をふり返った。
 南雲さんが首をかしげる。ほんの少しだけ。長めの黒髪がさらさらと目にかぶっている。そのまま彼はまつげを軽く伏せた。下がった視線で見詰めているのは、私のくちびるのあたり。ほかでもなく、キス寸前の仕草だった。気怠い午後の空気のなか、同じような雰囲気をはらむ南雲さんのは濡れていて、無性に色めいて見える。
 彼を突き返せないまま固まっていると、ゆっくり、ぬばたまの目が上がっていった。肌を優しくなぞるような緩慢さで、夜更けの湿度をもってして。
 視線が絡む。

「……こんなとこ、じゃなければいいんだよね?」

 湿り気をおびた声色で、囁かれた。南雲さんの表情に、もう、笑顔はない。急に息がしづらくなる。生ぬるい夏の海で、どうしようもなく溺れているみたいだった。
 私の腕を捕まえていた大きな手、その力が緩められる。かといって解放してくれるわけではなく。するするとすべり、手首を今度は掴んだ。

「なぐもさ、」
「あは……ナマエちゃん、すごいどきどきしてる」

 脈拍を確かめるようにきゅっと握ってくる武骨な手から、逃れられない。そのまま南雲さんは、タトゥーのない親指で私の手のひらをすり、とさすった。思わず目をすがめてしまえば、たったいま自分がさせた反応に恥ずかしさが込み上げる。
 南雲さんの指先は私の指の付け根を辿り、中指を伝うようにして、最後は爪の先に触れて、離れていった。

「またね」

 ひどい羞恥心からうつむくと、つむじの上にぽんと手が乗る。よしよし、と可愛がるみたいに動いたあと、それは遠ざかった。
 うつむいた目線の先で男物の革靴がきびすを返す。はっと顔を上げたときには、もう、ドアは閉まりかけていた。やがて大きな音もなく、ぱたんと優雅にとじられる。ブラインドのおろされた窓、隙間からうすく射す陽光、ときおり明滅する頭上の電灯と、しんと静まった室内。そこには私の呼吸音だけが残った。

「はあ……」

 些細な触れ合いだったのに。全身にあのひとのぬくもりが散りばめられたような心地をおぼえて、ひとりきり、苦しまぎれに息を吐いた。だけど消えきらない熱は、体のなかに余計広がるみたいだった。



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