2025.04.05
川沿いの桜並木は濡れた緑のにおいが立ちこめている。南雲は軽く目線を上げた。頭上に広がる桜の枝と、その合間ににじむ太陽。それから、ひらひらと舞うあざやかな花びら。週末には雨が降るという予報だったのに、いま空から降り頻るのはつめたい雨粒ではなかった。
桜吹雪のなか、ぼんやりと前に向き直る。うつむき加減で歩けば、足もとの道には木枝に遮られた陽射しが作る、まだら模様が浮いていた。
うすいピンク色をまきぞえに風が吹く。トレンチコートの裾がわがままにはためく。南雲は両手をポケットにつっこみ、足にまとわりついてくる布地をばさばさと捌きつつ進んだ。一歩踏み出すたび、背負ったジュラルミンケースがにぶい悲鳴をあげる。ギシギシと軋む硬質で耳障りなその音は、さっき殺してきた
標的の断末魔とそっくりだ。あの死体を、あの死を悲しむ人間もいるんだろうかと思う。きっといるんだろうな、と、思う。
──桜の木の下には死体が埋まってるんだって。
なんの表情も浮かべないまま歩いていれば、海馬の深くで声がした。一時期をしょっちゅうともに過ごしていた、ひとりの女の声だった。自身同様殺し屋をしていた彼女が死んでから、そういえばちょうど二年が経とうとしている。
──そんなわけないじゃん、それって元ネタ小説かなにかでしょ〜。
なんて呆れたように返す南雲に、でも彼女は気後れすることなく、ためらうそぶりも見せずにくだらない話を口にし続けた。
南雲自身もとるにたらない与太話を吹聴してまわったりするたちだけれど、意味もなく嘘をつく南雲とは違い、彼女は嘘に夢を見ていた。偽りも信じれば本物になると言って疑わない女だったし、世の中にはびこるくだらなさや愚かさみたいなものをひどく愛していた。南雲の適当な話に対しても、彼女はいつだって楽しそうに耳をかたむけた。たとえばその内容が、ほとんど嘘で構成されていると知っていても。
風が強い。木々がしなり、ざあざあと雨音にも似た音が頭のもっと高いところで鳴る。南雲の髪もイタズラな風にさらわれて、春のうららかな陽射しに染められた。うつむいていると前髪が目にかぶって仕方ない、ハと短くため息をひとつもらし、邪魔な毛束を気怠い動作でかきあげる。
と、髪を梳く指先にふれるものがあった。つまんでみれば白に近いうすピンクの花びらで、いまだ咲きこぼれる桜のひとかけらだった。
春がくるたびに、彼女が飽きもせず爪の先端をこういう色にしていたことをふいに思い出す。あれは桜の花を模していたのだと、どうしてこの瞬間まで気づかずにいたのだろう。
じゃーん、見て南雲。ネイル変えたの。そう言って爪先を得意げにかざしてくる彼女の爪ではなく、毎回、その嬉しそうな表情にばかり気を取られていたせいかもしれない。ほんとだ、似合うねと答えれば、彼女はきまって頬を柔く緩ませた。お約束みたいな、代わり映えのしないやりとりでも。そんなところが可愛くてどうしようもなかった。
「……そんなに桜が好きだった? ナマエちゃん」
南雲は立ち止まった。だれの耳に届くこともない独り言は、枯れゆく花みたいに散っていく。指先をひらけば、つまんでいた花びらが風に煽られて空中を舞いおどった。やがて地面に落ち、つもったたくさんの薄紅と交ざる。
わからない、と思った。彼女が好きだったのは桜なのか、あるいは春という季節そのものだったんだろうか。いまさら考えたって、答え合わせをする術は持ち合わせていない。
顔を上げてみる。どこまでも枝葉を伸ばす朝桜。そこに在るのは確かな春で、やわらかい色彩に彩られた季節は無傷なあたたかさをはらんでいる。そのぬくもりが優しくて、どうにも息苦しくて仕方ない。彼女が死んでからも毎年必ずくる季節に、視界を埋めるように咲き乱れる桜の木々に、呼吸が止まりそうになってしまう。
自身にとって掛け替えのないものを失くしても、世界のなにかが変わることはなかった。日常から彼女のぶんだけ温度が減り、色が欠けても、時間の流れる速度は変化しなかった。置いてきぼりにされているのは自分ひとりなのだと、季節が巡るごとに思い知る。
立ち止まったまま動けない南雲の目の前を、桜がはらはら落ちていく。涙のしずくとうりふたつの花びらがひっきりなしに降り注ぐ。
来年のいまごろは──。南雲はジッと春を見詰めた。来年のいまごろは、先に進みはじめているだろうか。無情なほど明るい景色を、心底きれいだと感じられるんだろうか。それは途方もないことのように思えた。だって彼女がもうどこにもいないこと、二度とくだらないおしゃべりができないことも、全部、四月一日の嘘にしたいと願っている。
南雲はゆっくりとまばたきをした。耳の奥でいつか聞いた笑い声が響く。死んだ彼女が埋まっているのは桜の木の下なんかじゃない。ナマエは、南雲のなかの、とりわけ深いところに埋まってしまったみたいだった。
「……」
ふいにポケットの内でスマートフォンが振動する。確かめれば、ディスプレイに表示されているのは同僚の名前。
「はーい!」
応答すると同時、口角を上げ、朗らかで完璧な笑顔を作った。体内に根を張る苦しさは、嘘をつくのと同じ要領で隠しきる。ふたをして、見て見ぬふりをする。
そうやって南雲は笑ってみせた。いつものように。