2025.03.12
僕って仕事と付き合ってるんだっけ。そう錯覚するほど多忙を極めていた生活が一段落した。会社を出てすぐ頭に浮かんだのはひとりの女の子の姿。メッセージを打つ時間さえ惜しい、声も聴きたかったから電話をかけたものの、留守電に繋がるだけで会う約束を取り付けることが叶わない。もう、このまま押しかけるか──なんて思ってタクシーに乗り込んだのが数十分前のこと。
「な、南雲くん……?」
「ひさしぶり〜」
目的地のマンションに到着した。エントランスからインターホンを鳴らせば、ナマエちゃんが応答する。声には微量の戸惑いがにじんでいた。こうして言葉を交わすのが、一ヶ月以上ぶりだからかもしれない。
「会いに来ちゃった。ここ開けて〜」
背を丸めるようにしてジッとカメラを見詰めた。本当はこんなふうに解錠を待つ必要なんかない、これぐらい、簡単に突破できるんだけど。
カメラから目を逸らす。傍ではガラスドアが静かな音をたてて
開いた。
「南雲くん。お疲れさま」
お風呂上がりらしい、もこもこの部屋着で出てきたナマエちゃんは頬を上気させている。
「ウン、ありがと」
彼女の物にあふれ、彼女の香りに充ちた空間に足を踏み入れた。僕のぶんのスリッパを用意するナマエちゃんの背中を見下ろせば、毛先がまだ軽く湿っている。あとでちゃんと乾かしてあげよう、ボンヤリ考えていると彼女がふり向いた。その唇は尖っている。
「……元気してた?」
つんとした声色からも、ふてくされてることが窺えた。
「元気だったよ。ナマエちゃんは?」
「元気だった……けど」
「けど? あ〜、もしかして。淋しかった?」
にっこり笑えば、ナマエちゃんはいささかむっとする。そんな顔されても可愛いだけなんだけどなあ、そう言ったら余計怒らせそうだから、なあに? と首をかしげるだけに留める。
「……わかってるくせに」
いじけたようにつぶやかれて、つい、口角が上がってしまった。……うん、わかってるよ。
彼女の手を掴む。引き寄せると、しなやかで頼りない体が僕の腕の中に飛び込んでくる。
「会いたかった」
単純な言葉選びだ。ただし紛うことなき本心だった。長期戦の大きい任務を任されて仕事漬けの毎日だったし、会社に寝泊まりしてた時期もある。この子と会うどころかお話するなんてこともできなくて、とにかくナマエちゃん不足で仕方なかった。きみも同じだったらいいのに、独りで淋しがってくれてたらいいのに、と限りなく意地悪な欲望を抱えていた僕は、有り体に言えば自己中心的だろう。さらには拗ねてるところを目の当たりにしたいまも喜んでる始末だ、救いようがない。
「私も」
腕をまわし返される。
「だから、会えて嬉しい」
淋しかった、と叫ぶ子供みたいに抱きついてくるナマエちゃんがひどく愛おしくてたまらない、いますぐこの子が欲しかった。
「ね、ナマエちゃん、」
「そうだ。カフェインレスのコーヒーがあるよ」
言葉が重なった。彼女は腕の中からするりとほどけて逃げていく。
「すごく美味しいの。淹れるね、南雲くんは座ってて」
微笑みをこぼしてリビングに向かうから、強引に捕らえるのはやめた。上着を脱ぎながら後ろ姿を追いかける。
でも、ソファで待つことはしない。お湯を沸かしてる間も、コーヒーの準備をしてる間にもナマエちゃんの背後から腕をまわした。困ったように笑い、やりづらいよ、と軽やかにつぶやく彼女をもっと困らせたくなって、きつく抱き締めた。
「座ってていいのに」
つむじの上に顎を置けば、ほとんど真下から声が届く。
「え〜、つめたいなあ。せっかく会えたんだからくっついてよーよ〜」
ナマエちゃんのうなじが倒れた。僕を見上げるみたいにするのが可愛い、まあるい瞳は天井のライトに照らされてきらきらしている。
「ね?」
目を細めると、ナマエちゃんはぱち、とまばたきを一回。そのまま前に向き直る。顎下でこくん、と頭が縦に揺れた。あーあ、こんなに流されやすくて大丈夫なの? それ、僕の前でだけにしといてよね。
後頭部に唇を当ててみれば、ナマエちゃんの髪の毛がやわらかく乱れた。大切にしてあげなくちゃな、と思う。僕の重みで潰してしまうことが、ないように。
お風呂を借り終わってスウェットに着替えると、ナマエちゃんの香りが強くなるみたいだった。おそろいのシャンプーにおそろいのボディソープに。それから、同じ柔軟剤のにおいに包まれる。
「なにか観よ」
「ナマエちゃん」
ふたりでソファにいた。リモコンを取った彼女の手を押さえる。
「なに?」
「僕の上、来て」
「あっ」
言ってる傍から腰を持ち上げ、膝の上に半ばむりやり乗っけた。少し慌てたようにするナマエちゃんの肩口に顔をうずめると、部屋着のもこもこが眉間を撫でた。彼女の背に、両腕をまわす。
あー……。なんでこの子ってこんなにふわふわなんだろう。ナマエちゃんを前にすると気持ちが溶けるみたいだ。普段身を置いてる世界にはいないタイプだし、自分とはまったくもって違う生き物を相手にしてる心地にすらなった。
ナマエちゃんの、すっかり乾いた髪をかき上げる。露出する耳もと。耳の形を覚えるようになぞり、つまんでくにくに弄ぶと彼女は瞬時に赤く染まった。
「く、くすぐ、ったい……」
「うん」
「南雲くん、」
「んー?」
「変、なさわり方、しないで」
「あはは、ヘンって。それってたとえば〜、……こう?」
「ん、」
耳の穴を引っかけば、ナマエちゃんが目をすがめ、震える。やめて、と小さく睨まれるけどやっぱり全然怖くはない。むしろ余計ぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られて、思わず笑い声がもれた。
「なんで笑うの」
「ごめんごめん」
ナマエちゃん。呼びかけると、疑問符を浮かべて見詰めてくる。
「ちゅーしよ」
彼女がなにかを言いかけた。その口を塞ぐ。
僕らは付き合いはじめて、まだ間もない、キスだって数えられるほどしかしてないし、ましてや寝たこともないせいかナマエちゃんはくちづけるたびに身を硬くした。いまだってそうだ。僕の服をぎゅっと掴んで、必死についてこようとする。
目は薄く開けたまま、しつこく唇を重ねた。角度は何度も変える。舌先を尖らせて向かいの隙間を割り開くと、ぬる、と湿るのが気持ちいい。歯列を辿り、その合間にも腰を抱き寄せておく。
「ナマエちゃん……口、開けて」
「……、」
「ん、そう、いい子」
ナマエちゃんの舌を舐めると、途端に呼吸を乱していくのに気がついた。傍の、熱くなった耳たぶをいじる。一生懸命に肩で息をする様子にアテられて、こっちまでどうにかなりそうだ。キスしただけでこんなふうになるの、初めてかもしれない。
「ふ、ぅ……」
砂糖びたしにしたような甘ったるい音が聞こえた。唇の端っこではふはふと息継ぎをするナマエちゃんは、お風呂上がりの火照りとは違うそれをまとっている。キスを深くしていく。まるごと喰らい尽くすみたいに。
「ん、……んん」
えー……やば。声出てる、カワイ〜……。きみも気持ちいいんだ、ねえ、ナマエちゃん。
「もっとしていい?」
唇を離してつぶやくと、細い唾液が糸を引いた。やがて途絶えた粘液は彼女の口角のあたりに垂れる。のを、親指で拭う。
「も、っと、って……あ!」
ナマエちゃんの腰。部屋着の裾から手を忍ばせた。
「熱いね、肌」
「な、南雲くん」
「なーあーに」
「も、だめ、」
ぱし、と手首を取られる。指を背骨に這わせ、素肌をなぞり上げていってるところだった。
「これ以上は、むり……っ」
ストップをかけたナマエちゃんは真っ赤な顔をしている。眉尻も目尻も下げて、いまにも泣きそうな表情で。……限界、ってことか。
僕としてはまだまだ足りないし、もっといろんなことがしたかった。なんなら今夜はこの子のすべてが欲しかったけど、ナマエちゃんに無理強いはしたくないから、そっと抱き締め直した。
ごめんね南雲くん、と囁かれる。
「えー、なんで謝るの?」
「したくない、わけじゃないんだよ。でも」
「まだ覚悟できてないんでしょ、いいよ〜」
「うん……」
めいっぱい抱きついてくるナマエちゃんの、力はそれでも弱々しい。僕とのキスで腑抜けになる体がどうしたって愛くるしくて、しょうがなかった。
「いくらでも待ってあげる。……ナマエちゃんがさ」
彼女の耳もとに吹き込む。
「もっとして、早く欲しい〜って、ねだってくるまで」
びくりと揺れる柔い体。自分があからさまに体温を上げていることに、ナマエちゃんは気がついてるんだろうか。
この子しかいないなあ、と改めて感じた。彼女は僕にとって絶対に替えのきかない存在で、たったひとりの女の子だった。たとえどこを探しても他にはない、至極大事なぬくもり。
「ナマエちゃん」
きみが好きだよ。伝える代わりにもう一度キスを落とす。腕の中に閉じ込めた体温は陽射しみたいにあったかくて、返されるくちづけは甘くて、これ以上はないと思えた。
こんな、じゃれつくくらいの触れ合いだけで心底満たされるなんて不思議だ。だって僕はさっきまで、この子が全然足りてないと飢えをおぼえていた。もっともっと、って、ナマエちゃんを渇望してたはずなのに。