2025.05.31
噛みつくようなキスだった。南雲さんに腕を引かれ、踏み入った休憩室。他に誰もいない空間で、自販機だけがジィジィと一定の音をたてているなか、ドア横の壁に押しつけられたかと思えば唇が重なっていた。何度も降り注ぐくちづけは、甘いようでもあるし、乱暴なようでもある。南雲さんの着ているスーツ、その肩口を押してみても彼はびくともしない。
「んん、」
「……」
さしこまれた舌が口内を這う。南雲さんの足が私の両脚の間を割った。胸ぐらを押し返していた手をふたつとも取られ、手首をひとまとめにされてしまえば、たいした対抗もできなくなる。南雲さん、とキスの狭間でつぶやくけれど、返答は、ない。
「……くるし、」
私はほとんど真上を向くような体勢だった。息継ぎもままならず、どうにか顔を背けて逃れると強引なキスが止む。はあ、と吐息をこぼした彼は、ひどく獰猛な目つきをしていた。闇より黒い瞳孔の真ん中に、自分の影が囚われている。
まただ。また、この目。南雲さんは、たとえば任務後だとかに、ときどきこの色を目に浮かべる。この人は殺しをするとき──
標的に狙いをさだめるとき、こういうまなざしをするのかもしれない。私はそれを、見たことはないけれど。
「ナマエちゃん、息」
「へ……」
「息、して。ほら」
「ぁ、え」
「早く。また苦しくなるの、嫌でしょ」
息継ぎをしろと、南雲さんは言っているのだった。そうと理解したときにはでも、再び唇が重なっていた。私がうまく呼吸を整えられなかったことに、南雲さんならきっと気づいているはずなのに。
「なぐもさ、」
「黙って」
「ん、ッ……!」
舌先に熱が走る。ガリ、と噛まれたそこはじんじんと痺れ、鈍痛が残った。彼自身を刻むような痛みだった。
口のはしから唾液が伝う。真上を向くみたいな姿勢でいるせいで、耳たぶのほうへ垂れ落ちていくのがわかる。もうどちらのものかわからない体液は、空気に冷やされてひんやりと肌を震わせた。
「まって、くださ……」
キスの最中、一生懸命に訴えてみれば溺れているような声が出た。ちゃんと言葉が伝わったか不安だったものの、南雲さんは聞き取ったらしい、唇が離れていく。
肩で呼吸をしていれば、いきなりぞくりと背すじが粟立った。勝手に広がっていく鳥肌。おそるおそる顔を上げれば、ゾ、っとするような闇色の双眸がそこには在った。殺気は感じない、けれどいまにも殺されるんじゃないかと緊張感をおぼえるような気配に、後ずさりたくなる。ただし背中には壁があるから、叶わない。
「逃げないで、ナマエちゃん」
「……、」
平坦なトーンで彼が言う。いまだ捕まったままだった両手首が、解放された。だからといってどこかへ逃げてしまうことは不可能だ。彼なら追ってくるだろうし、なにより。私のなかにこそ、いま立ち去るという選択肢はない。少しも。
「ナマエちゃんはさ」
ふいに抱きしめられる。スーツのワイシャツ、ネクタイのあたりに飛び込む。きつく抱きしめてくるさまは、二度と離さないと誓うみたいでも、甘えんぼの子供が駄々こねるみたいでもあった。
南雲さんの腕のなかで、ようやく整いだした息を吸って、吐く。
「……ナマエちゃんは。僕の前からいなくなったり、しないよね?」
南雲さんがぽつりとつぶやいた。いまにも天気が崩れそうな空模様と、そっくりの声で。
「そんなの、」
私たちは殺し屋だ。生きるとも死ぬとも約束できないまま、こうして唇を、ときに体を重ねて生きている。なんて答えるのが正解なのかはたしてわかりそうもない。
「……私はできる限り、南雲さんの傍にいたいって、思ってますよ」
「それほんと〜? もし、万が一、この場しのぎとか嘘の言葉だったりしたら、僕……」
ナマエちゃんのこと、攫って、どこかにとじこめちゃうかも。
南雲さんは粘つく重みのある声で、夏の夕立くらいの生ぬるさと湿度を絡ませて、囁いた。これは──とじこめる、というのはたぶん嘘ではない、と予感する。南雲さんはいま、少しもふざけていないから。
安心を与える言葉を渡せないまま、上手な応答もできないまま。最適解を探しつつ、筋肉質な体を抱き返してみる。心做しか乱れていた彼の呼吸も、徐々に落ち着いていくようだった。
この人は、と思う。この人はいったいなにを失ってきたんだろうと。強さを持ち、財力を得て、名声を掲げ、なんだって手に入りそうなものなのに──。
「大丈夫。大丈夫ですから」
南雲さんに腕をまわしたまま繰り返す。
「私は、南雲さんの目の前からいなくなったりしません」
生きている、限りは。けっして。
「……言ったね。僕、ちゃんと聞いたよ」
「私も傍にいたいってずっと思ってます。死んだら、さすがに叶いませんが」
南雲さんが息を呑む。一歩、また一歩と後退されると、私たちの間には微量な距離ができた。依然として瞳を凶猛な熱でふちどる彼と、見詰め合う。しばらくの間、沈黙が辺りに漂った。
なんの前触れもなく伸びてきた手。キスで湿った口端をぬぐわれる。親指で、優しく。
「ナマエちゃん……今夜、行っていい?」
「今夜、ですか」
「だめ?」
「大丈夫、ですけど、っあ」
またしても腕を引かれ、再度縮まった距離感に心臓がはねる。お互いのつま先がぶつかるほどの近距離だった。
南雲さんが私の髪を梳き、それを耳にかけるようにする。露出させられた耳孔。そこをさわるのは、タトゥーで飾られた指たち。耳たぶをつまみ、すり、とさすられると、体が自分勝手にぞくぞくした。
「じゃあ行くね。たぶん僕のほうが終わるの遅いから、先に帰ってて」
「はい」
「あと……今夜は優しくできないかも」
本当にそれだけ。ひとことを言い残し、南雲さんは最後にもう一度、でも今度はやわらかなキスをして、身をひるがえした。休憩室を出ていく背中を目で追う。
南雲さん、一回も笑わなかったな、とあとから考えた。それはとてもめずらしいことのように感じた。さっきの彼は、やけに切羽詰まっているふうにも見えた。なにかがあったに違いない、と思いながら私も休憩室を出る。
タイに向かっていたという豹さんの、訃報が私の耳にも届いてきたのは、そのすぐあとのことだった。