砂糖ふたさじ、ミルクを少し
2025.06.03





 緊急の号令がかけられたのはまもなく正午というころで、辺りには燦々との光が照っていた。まだ夏とはいえない時季だけれど、もう春でもない。南雲は季節の狭間でひとり、目上に手のひらをかざして空を仰いだ。どこまでも抜けるような晴天は間違いも嘘もひとつとして見当たらないような正しい青さをもってして、南雲をつつむ。

 ──暑いな。

 前に向き直る。スーツのジャケットは着ていない、ワイシャツの袖を少しだけまくりあげ、目的地へと向かった。
 行けと指定された場所は銀座の一角にある、商業施設だった。なかに入るとあまりにも冷えた空気が南雲の肌をいたずらに舐める。汗はかいていなかったものの、蒸した体にはこれぐらいの空調がちょうどいい気もした。
 店内を進めばブランド品店がいくつか連なっている。その入口には正装をまとった人間たちが並び、白い歯を見せてにこやかに笑いながらも南雲をジ、と見詰めていた。
 歩きながら全員を検分する。だけど殺し屋らしき者はいない。ORDERである南雲が助太刀に行かなければならないほど激しい抗争は、どうやらメインフロアの裏でおこなわれているらしかった。両ポケットに手をつっこみ、南雲はただまっすぐ歩き続ける。なにも知らないふりの柔和な表情で。太い柱の影を通る。通り過ぎる前に、自身の姿をさっき見かけたスタッフのものへと変えた。



 商業施設も、ひとたび裏へ入ればさびれた様相をしている。古びた通路を行き、漂う殺気を辿りつつ非常階段を降りる。心霊スポットみたいに冷えた暗い空間は、おもわず顔をしかめたくなるような殺意にみちていた。そのうえ血なまぐさい。すでに戦地へ足を踏み入れたみたいだ、たった一階ぶん移動しただけでひとつ、ふたつ、みっつ、と死体を発見する。すべてが敵組織の人間のものだった。弾痕が残っていたり、不自然に切り込みの入った壁などを横目に、南雲はさらに階下を目指す。
 ふと足を止めた。地下一階から地下二階に続く階段の、踊り場で。頭上で弱く明滅するランプが、役に立たないスポットライトさながらに南雲の視線の先をほの暗く照らしている。
 そこにはナマエがいた。彼女は銃を片手に構え、目をひらいたまま、階段に座り込んで壁に凭れていた。傍の壁面には真っ赤な手形がついている。筆でなぞったような擦れた跡も。ナマエはここまで、壁を頼りにのぼってきたのだろうと思った。
 南雲は変装を解き、真っ黒い瞳でその姿を見下ろした。ポケットに入れっぱなしだった両手を出すことも、背負ったジュラルミンケースを開けることもしない。ただボンヤリと、座り込む彼女を眺め下ろす。それは時間にすれば一秒もないくらいの短い間で、でも永遠のように感じられるひとときだった。
 ナマエの正面に回り込み、状態を確かめる。彼女の服は後ろから見ても前から見ても赤黒いまだら模様に染められている、あちこち負傷しているし、なにより心臓のあたりには貫通するように穴ぼこが開いていた。
 南雲は目の前でうなだれる女の、血の気の失せた両頬をつつみこんだ。親指で両眼の下まぶたを弱く押し下げ、確認すれば、ナマエの瞳孔は散大している。口に手を当ててみてもあたりまえのように息はない。おびただしい鮮血だけが、足もとへどんどん広がってくのが、なにかの罰みたいだった。
 ナマエのしなやかな体に腕をまわす。響いてくる心音はおろか、すでに体温すらも感じられず、南雲はしばらくまばたきさえも忘れて独りきり息をした。こうするのは──彼女の柔い肉体を抱きしめるのは初めてだ。早くつきあってしまえと言われていた南雲たちは、でも、さようなら、またねも言い合えずに終わった。
 誰にでもなく赦しを乞い、南雲はナマエの背中の致命傷に、手のひらを当て続けた。まっさらなガーゼを当ててあげるみたいに。優しく。
 下方で非常口のグリーンランプがばちばちと光った。と同時に扉がひらく。奥から現れた男は敵組織の人間で、女を抱く南雲を見るなり下卑た笑みを浮かべた。

「そのジュラルミンケース……てめえだな、噂の」

 言葉は続かない。南雲はたったいま発砲したコルト・ガバメントを音もなくしまう。吝嗇りんしょくする気は毛頭ないけれど、ほんの一発の弾ごときで命を絶った敵手を憐れんでやる。
 銃声を聞きつけたのか、空いたままだった扉からは続々と敵襲がなだれこんでくる。南雲はナマエを抱きかかえるようにしたまま、隠し持っていた小型のナイフで銃弾をいくつも弾き返した。背負ったつめたいアルミのなかから六徳ナイフを取り出すまでもない。
 目線は下がったまま。いまは、ナマエのことだけを、見ていたかった。
 女を離すと、ふらり、南雲は無表情で立ち上がった。上のフロアからも輩どもが銃を構えているのが気配でわかる。下からも、44ミリ経口が向けられている。一髪触発の空気感に、肌を切りつけられるようなぴりぴりとした緊張が走った。

「きみたちってドSなの〜?」
「ああ?」
「人を虐めて楽しむ変態さん?」
「なに言ってやがる、死ぬ前の悪足掻きかぁ? 最後に言い残したいセリフにしちゃ面白味がねえなあ」

「だってさあ」

 目つきに光を取り込まないまま、反してのびのびとしたくちぶりで話してみせる。話しながらもジュラルミンケースをぱちりとひらき、大型の武器を手に取った。その間じゅう、何発もの発砲音が響いた。すべて南雲に向けられていた。硝煙の立ちのぼる狭い通路で、けれど南雲は一度も攻撃を受けずに立っている。なにもかもを覆い尽くす影法師のように。

「僕の仲間たち、ぼろぼろなんだもん。……たとえば。心臓やったなら即死だーって、ねえ、わかんない?」

 チャキと構えた六徳ナイフ。そこからは一瞬だった。
 敵を殲滅させ、最後の死体がごろ、と転がるのを色のないまなざしで見下ろす。雑魚だな、と思う。ただしその雑魚に、ナマエは運悪く命を奪われてしまった。
 しんと静まりかえった非常階段。南雲は全フロアぶん確かめたあと生き残りのひとりに抗争が終わったことを伝え、フローターを呼び出した。到着までは、十分以上かかるだろう。
 再び彼女のもとへ戻る。さっきとおんなじ体勢を保ち、ナマエはそこにいた。せめてもの思いで踊り場の、平坦な床の上に彼女を移して寝かせると、横に片膝をつく。そうしてナマエの頬をさすった。冬の湖みたいに冷えていて、南雲の指先にまで冷感が伝った。

「ナマエちゃん。僕、さっき聞いたよ。きみの仲間に。きみ、ひとりで九人も殺ったんだって? すごいよね〜」

 微笑みもせず、口をうすくあけ、返事のひとつも返さないいじわるなナマエの両まぶたに手のひらをかける。開いたままの状態だった瞳を、そっと閉じ、彼女に幕をおろしてやる。

「おやすみ。ナマエちゃん」

 うすら寒い辺りは無音で、さながらため息みたいに落ちた南雲の声だけがやけに反響するようだった。
 ダメ押しのように、ナマエの首すじに手を当てる。当然脈はない。けれど南雲は、彼女を抱き上げた。スーツが血で汚れるとか、そんなことは、もう、べつに、どうでもよかった。とるにたらないことだった。むしろナマエの血がついたなら、このスーツを取っておきたい気さえした。

「ナマエちゃん……」

 どんな気持ちでここまで這いのぼってきたのだろう。どれほど痛かっただろう。無念であっただろう。考えても途方がない、でも、思考するのをやめられなかった。
 南雲はポケットから、持ちうる限りのなかで一等小ぶりのナイフを出し、逆手に持った。くだものナイフくらいのサイズ感であるそれは、まだ未使用のものだ。誰の血もついていない、綺麗な刃物。
 そうして。
 ぎらりと光るナイフを、南雲はナマエの胸に突き立てた。正確に。心臓のある部分に。切っ先がずぶずぶ沈んでいくこの感覚を、おそらく自分は今後一生、忘れられないだろうと思った。忘れないだろう、と。南雲の表情が、ここにきてようやく、かすかに歪んだ。朝からずっと、真顔でいたきりだったのに。

 ──この子は僕が殺した、

 心のなかでつぶやく。ほとんどが祈りのように。

 ──この子は僕が殺した、僕が殺した、僕が殺した、



 愛しい女の死体を抱きしめ、刃物を突き立て、きつく目をつぶりながら何度も繰り返しているうち、彼女のいつかの言葉が脳裏をよぎる。

死ぬなら、南雲くんに殺されたいな

 生前ナマエは、そう言った。夏を遮る木陰みたいにやわらかな声で、春の終わりのような清廉さで。ぬるくなったコーヒーがまずいとかなんとかぼやきながら。
 あのとき。なにか、約束を交わせばよかっただろうか。またばかげたことを言ってるな、くらいにしか思っていなかった自分自身を、ひどく嘲りたくなる。

 ──この子は敵にやられたんじゃない。僕が、この手で、

 何度も、何度も。胸中に生まれくる痛みを誤魔化すふうに、南雲も言葉を重ねていった。自分を言いふくめ、思い込ませていく。記憶を上塗りしていく。
 ナマエは誰かにやられて死んだんじゃない。
 南雲の手にかかり、呼吸を止めたのだと。

「……」

 南雲は目をとじた。なにしろつめたくなった唇に、ひとつ、キスを落とす。だからといってハッピーエンドのおとぎ話のようにナマエが目覚めることはないし、それどころか反応はひとつもない。照れたように紅潮する頬もなければ、拗ねたように尖る口先も。南雲くん、と呼びかけて笑ってくれるわけも、なかった。

「……好きだよ」

 きみのことが、好きだよ。
 南雲は心で囁き、ゆるゆると立ち上がった。彼女の遺体に背を向ける。耳の奥では、南雲に殺されたがった彼女のあたたかな笑い声が遠く聞こえた。とたん、口のなかに、あの日のぬるいコーヒーの味が広がったような気がした。南雲はひとくちも、飲んでなどいなかったというのに。



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