愛は劇薬
2025.06.07





 彼氏ができた。仕事のことはまだ詳しく知らないけど私とは違う会社に勤めていて、長めに伸ばされた黒髪と、同じように真っ黒いぬばたまの瞳がひどく綺麗なひとだった。
 ずっと私の片想いだと思ってたし、私が一方的に見ているだけだと感じてたから、見詰められると頬が緩むのを抑えられない。あまねく夜を写し取ったみたいな目のなかに自分が居ることがただ嬉しかった。いまだってそう。
 ただし、デートしたあとにこうしてさよならが迫ってくれば、喜びだけじゃなくて切なさもとめどなく湧いて出てくるのは致し方ない事実で。

「……帰りたくない」

 帰り際、人気ひとけのない駅前のロータリー。うつむきがちにぽつり、とほとんどボリュームを持たない声量でつぶやけば、南雲くんに手を取られた。そのあまりの優しさに再び顔を上げる。夏を目前にひかえた夜の空は果てしがない。大きく尖った三日月をバックにしながら、目の前の彼も眉尻を下げた。柄シャツの上に羽織っているトレンチコートがはらりとはためく。

「あんまり可愛いこと言わないでよ〜。もっとくっつきたくなっちゃう。ここ、外なのに」

 すり、と手の甲をさすられた。絡み、もつれ合う指先。私もおんなじだよと吐き出したかった。もっとくっつきたい、もっともっと、傍にいたい、と。でも明日は早くから予定があるし、こんなふうに会えば必然を要していつかはお別れしなくちゃいけないし。うんとうなずけば、自分でも驚くほど悲しげな声が出る。

「あ〜……」

 甘く唸った南雲くんに体を引かれれば、大きな体躯に全身をすっぽりと捕らえられる。鼻腔を抜けてくのは南雲くんのにおいだけになった。香水でもなく、柔軟剤らしくもなく。やわい洗剤と、清潔な布の香り。

「帰したくないな〜……」

 頭のずいぶん上から声が降る。どうしたって淋しいと訴えるようなトーンに聞こえ、私も胸底を締めつけられるみたいだった。恋愛は楽しい。だけど楽しさが増せば増すほど、同時に苦しさも膨れあがる。なにもかもを放棄してこの人と一緒にいたい、と願ってしまう。その感情のまま南雲くんに腕をまわした。辺りに人影はない、だから存分に、きつく抱きつけた。

「ナマエちゃん」
「なに?」

 さらにぎゅっと抱かれ、南雲くんの腕につつまれた状態で上を向いた。近くに立つ街灯が私たちを照らしている。見下ろしてくる南雲くんの頬には、彼の、漆黒のまつげの細く鋭い影がいくつか落ちていた。

「今度、お泊まりしようね」

 腰を抱いてくる手がやわやわと動く。さっきまでホテルのベッドのなかでしていた行為、されていたことを思い出し、体のあちこちに熱が生まれるのがわかった。ひどい有り様だ、と思う。私は南雲くんといると、こうなってしまう。いつだって。

「うん。したい」
「絶対だよ〜」

 念押ししてくる南雲くんは真剣な面持ちだ。けど、大きいわんちゃんみたいなあどけなさを持ち合わせているからどこかおかしい。

「約束」

 答えて笑えば、タトゥーで飾られた指先がふいに私の唇に触れた。人肌のぬくもりをはらむそれは下唇をなぞり、弱く押し潰してくる。ジ、と見詰められると、いますぐキスが欲しくてどうしようもなくなった。

「ナマエちゃん。いま、なに考えてる?」
「……ここが外じゃなかったらよかったのにって」
「あは。一緒だ〜」

 でもそうしたらさ。ひそひそと囁くようにする南雲くんの、瞳が揺らぐ。きらきら、きらきら光るネオンが反射する両眼は、まさしく世界じゅうの夜をとじこめたようだった。

「僕、ナマエちゃんのこと離してあげられないかも」

 まなじりを下げて笑う彼を愛しいと想う。澄み渡る晩夏よりずっとずっと綺麗な黒髪が、風になびいていた。



 タクシーで帰りなよと促す南雲くんを押し切り、電車に乗ろうと駅に向かう。今日が金曜日だからか、煌々と照る月明かりの下にはだんだんと酔っ払いの数が増えていく。ふらふらと歩くサラリーマンにぶつかりそうになり、咄嗟に避けてなんとか進んだ。

「あの」

 ふと、声をかけられて横を見れば、そこにはバケットハットをかぶった若そうな男性がひとり。ナンパだろうかと身をこわばらせると、すみません、ナンパです、と彼は素直に口にした。呆気にとられつつも無視してやり過ごそうと男を通り過ぎる。でも彼は私のあとをついてきた。

「ひとりですか? 僕もひとりで。さっきまで飲んでたんですけど、連れ、帰っちゃったんですよね。……なんつうか、まだ飲み足りない気分なんです。よかったらこのまま一緒に、」
「飲まないよ」

 急に手首を掴まれた。つい足を止めれば、私の隣には南雲くんの姿があった。男の言葉へ代わりに応えた南雲くんに表情はない。まっすぐ男を見据えるまなざしは光のささない漆黒で、踏み外せば二度と這い上がれない谷底とそっくりだ。

「誰? アンタ」
「この子の彼氏」
「へえ? でもいまは俺が彼女と喋ってたんすよね」
「……喋ってたの〜?」

 南雲くんがこちらに視線を向けてくる。ううんとかぶりを振ると彼はもう一度ナンパ男に向き直った。きゅっと掴まれたままの手首に、力がこもる。

「あはは、なに? もー、笑わせないでよ。いくらきみが淋しくたってさあ、一人芝居は悲しすぎない? そんなに誰かと喋りたいなら腹話術でも覚えたら?」
「あァ?」
「失せろよ」
「な……」
「どっか行って〜、って言ってるんだけど。……聞こえないかな」

 声色は暗く、重い。南雲くんのこんな声、初めて耳にした。

「この子は僕のだからさ。ごめんね?」

 にこ、と口角を上げた彼は一見すると安穏な雰囲気をまとっている。けど辺りに漂う気配はとげとげしさを増し、息さえもしづらくなるような心地がした。
 男が一歩、二歩と後ずさる。そのまま踵を返し、こちらを何度か見返りつつ、場を離れていった。
 また、南雲くんと、ふたりきり。

「ほら〜。だからタクシー乗りなよって言ったのに。きみ、いま不審者に狙われてたんだよ?」
「不審者って……あんなのよくいるナンパ男だよ」
「よくいるの?」
「え?」
「ナマエちゃん、よく遭遇するわけ? ああいう奴に」
「その、たまに」
「……ふうん」

 真顔を貫いている南雲くんが、男の去っていった方向をじい、と見やった。けっして凶暴でもなく、凶悪でもなく、ただ凪いだ静けさをふくむ瞳で。まるで逃がさないと言うみたい。追跡でもするみたいに。

「とにかく、今日はタクシーで帰って。いい?」

 私の返答を待たずに彼はアプリを起動する。駅前に一台つけるから、とつぶやく口調は平坦で、どこかつめたい。いまだ片方の手首は掴まれていて、そこだけが確かなあたたかさを伝えてくる。

「ナマエちゃんはさ。もうちょっと自分が可愛い、綺麗だってことわかったほうがいいよ」
「ええ? なにそれ」
「笑い事じゃないから。僕は本気で言ってるんだよ。もう少し自覚持ってくれないと、心配で眠れない」
「……気をつけます」
「はあい。そうしてくださーい」

 ナンパなんてままあることだし、ひとりでも無視したりかわしたりできるんだけどな、とは、言わないでおいた。

「やっぱり……きみにGPSとかつけるべきかな」
「あはは。GPS? 大袈裟だよ」
「ねえホント笑い事じゃないんですけど〜」

 なんてことのない、[[rb:戯言 > たわごと]]めいたやりとりをしていると、ほどなくして呼んだタクシーが到着した。
 乗り込む間も、自動ドアが閉じてからも、車が発進したあとも。ふり返るたびに南雲くんのトレンチコートが目にとまった。ドライバーに窓を開けてもらい、少しだけ顔を覗かせて手を振ってみると、のっぽの人影がつられるように手を上げる。徐々に顔も見えなくなり、本当のお別れを交わした。
 やっと車窓をしめてもらえば、ちょっと効きすぎてる冷房が肌を震わせた。



『ちゃんと帰った?』

 帰宅して人心地ついたころ、一件のメッセージが届いた。南雲くんからのものだった。彼は基本的に、こうして連絡を絶やさない。帰りはタクシーに乗りなよ、電車は危ないからと毎回むりやり帰りの足を決めようとするし、今回だってなかば強引にタクシーへ押し込んだくせに、どこまでも心配性な人だなあとつい苦笑してしまう。
 帰ったよ、今日もありがとう。さっきはごめんね。送ればすぐさま既読がついた。無事でなによりなんて返してくるものだから、こぼれた笑みが深くなる。ポップなミニキャラのスタンプを送り返すと、南雲くんから再度メッセージが届く。

『いま家だよね? ひとり?』

 そうだよ、送信。

『じゃあさ』

 うん、とは打たず、既読をつけたままで続きを待ってみれば。

『時計と一緒に部屋の写真撮って送って』
「え……?」

 おもわず怪訝な顔をしたのは、こんな要求をされた経験が一度もないから。戸惑っていると即座に新たなメッセージが。

『ナマエちゃん、まだー?』
『送れない?』

 連続で送られる文章には当然音声がついていない、だから南雲くんがいまどういう心持ちでこれを送っているのか、どんな表情をして打っているのか、どういった温度感のメッセージなのか、はかりかねた。
 そっと周囲を見回す。リビングには丸い掛け時計がかけてある。少し躊躇しながらも、時間が写るようにピントを合わせて部屋の写真を一枚撮り、送信した。
 やっぱり既読になるのはすぐで、ぽん、と愛嬌のあるスタンプが返送された。ありがとー、というひとことも。

『あとで電話していい?』

 返事に迷っていると、南雲くんは話題を変えた。さっきまでのやりとりは、すでに過去になってるのかもしれない。
 大丈夫だよ、と打ち、送る。スタンプが返ってくる。
 会話はいったん終了したものの、心臓のあたりが変に軋むのを感じた。南雲くんは、私が本当に帰ったのか確認したかったんだろうか。私は疑われてた? それともたまたま? 気になることでもあったのかな。もしくは単に、心配性なだけなのか。考えても答えは出てこない。
 そういえば──。
 ふいに、南雲くんのまなざしを思い返した。
 夏の夜の、生ぬるい空気に浮かぶ人魂ひとだまにも似た目つきを、彼はときおりしてみせる。とくに、さっきみたいに私が他の男の人と喋っているときだったりに。それがナンパじゃなく道を聞かれただけでも、なにかついてますよと優しく教えてもらっただけだとしても。
 背すじがゾッとするような瞳はだけど一瞬で失せてしまうから、いつも見間違いだろうと考えていた、けれど。

GPSとかつけるべきかな

 ひとつの言葉がよみがえり、頭蓋のうちに駆け巡った。あれは、もしかしたら、ふざけてした提案じゃなかった、のかもしれない。
 南雲くんは、心配性でもあるけれど。もっと違うなにか、たとえばそう、束縛の酷い、重い人、

「っ」

 いきなりスマートフォンが震えた。危険だと報せる警鐘のように。ディスプレイに表示されているのは南雲くんの名前で、心臓が早鐘を打つ。
 すかさず応答することもできないまま、私はしばらくそれを眺めていた。早く出ないといけない、と、心の遠くで思いながら。
 スマホはまだ、鳴り止まない。



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