夜明け前が一番暗い
20250627





 意識が浮上していく感覚があった。もうすぐ目が覚めるな、と感じた途端、無性に彼女の身体を抱き締めたくなる。

「……あれ」

 だけど叶わなかった。寝惚けた頭を働かせてベッドの上をまさぐっても、少しざらついたシーツを手のひらが滑るだけで捕らえる温もりはない。重いまぶたを持ち上げれば隣は空っぽだった。ため息をついてうつ伏せになると、顔の半分が大きい枕にうずもれる。
 ピントの合わない寝室をぼんやり眺めた。部屋の照明は落とされてるし、サイドテーブルのランプも消えたままだ。遮光カーテンの隙間から入り込むわずかな陽光だけが一直線に床を射している。
 まるで無人の部屋みたいだ。なにもかもが造り物じみてハリボテみたいに思える、自身の存在すらもあやふやになっていく。
 この瞬間が一番苦痛だ。今まで見ていた明るいものは全部夢だったと突きつけられ、自分がどこにいるのかをはっきり明確に思い出してしまう朝が、ひとりきりの目覚めが、嫌いだった。
 窓のあるほうに手のひらを伸ばして広げる。二十数年あまりの人生において取りこぼしてきたものを、今さら掴み取ることは当然できそうにない。
 頭痛がした。ナマエちゃんがいたらきっと違っただろうと思う。起きた瞬間、目の前にあの子が居たなら。もっと、息がしやすかったはずだ。
 ふいに、サイドテーブルに置いてあるランプの下できらりと光る指輪が目に留まった。ナマエちゃんがつけていた物だ。今ここでこのまま捨てようか迷ったけど、結局、彼女自身に捨ててもらおうと考えてやめた。
 廊下へ続く扉は完全に閉められている。ただでさえ防音性の高いマンションだ、耳をすませても物音ひとつ届いてこない。ただしなにかが動く気配は常にあり、あの子の存在が窺えた。
 起きるなら僕のことも一緒に起こしてくれたらいいのに。まあ、起こさないように気遣ってくれてるからここのカーテンも閉めきったままなんだろうけど。
 寝相を変える。ふたりでくるまっていた毛布を手足で挟み込む。息を吸えばナマエちゃんの匂いがした。昨日僕とあの子はおんなじボディソープを使ったのに、なんでこう、ナマエちゃんばっかり甘くてふわふわした香りになるんだろう。
 しばらくの間、僕の家中を行き来する気配に意識を傾けた。彼女は至るところにある扉のドアノブに手をかけたりしてるんだろうか。そこでなにを思うんだろう。鍵が開かないことにびっくりするかもしれない。
 もう一度目をつぶる。元々朝には強くないけど、今日はいつにも増して眠気が残っている。ま、それもそうか。ゆうべはずっとナマエちゃんとくっついてたんだし。
 あーあ。昨日のナマエちゃん、可愛かったな。何回もして、途中からはもう気持ちいいのいらない、とかなんとか言って聞かなかったっけ。
 あー……。
 いますぐあの子のこと、ここに連れてきたいかも。

「ナマエちゃん、」

 彼女の名前を、声にならない声で呼んだ瞬間だった。
 寝室のドアが開いた。どうにも完璧なタイミングで少しおかしい。目は閉じたままで気配を探る。
 ナマエちゃんはやけに静かに、のろのろとベッドまで近づいてくる。息をひそめているのか呼吸音すらも小さくて不規則なのが愛おしかった。
 そっと薄目を開けてみれば、彼女は引き攣るような面持ちで視線をそこら中に彷徨わせている。僕が起きてるとは微塵も思っていないらしい、こっちの様子を確かめる仕草は皆無。
 丸っこい瞳がサイドテーブルに向いた。ナマエちゃんは置かれていた指輪に気がついて……瞬時に頬を緩ませた。安堵の色が浮かぶ顔を見つめる。胸の奥が、曇っていく。
 だって、だってさあ、ナマエちゃん。それ、きみの元カレからもらったヤツでしょ? ゆうべはもう要らないって言ったのに。……あれって嘘だったの?
 やっぱり静寂を保ちながら、彼女は指輪をはめ直した。和らいだ表情で。僕のほうを確認するのも忘れて。
 っていうか。
 僕のことが見えてないんじゃないの、ねえ、

「ナマエ」
「ひ、」

 腕を伸ばすと、今度はちゃんと温もりを捕らえた。力を込めれば簡単に折れそうな手首を、優しく、掴み取る。

「おはよ」
「なぐ、もさん、……お、起き、」
「うん。起きてたよ〜!」

 引き寄せれば真上に倒れ込んでくる身体。重力に従って垂れ落ちる毛先が僕にも当たって、くすぐったい。

「ね、どこ行こうとしてたの」
「ぁ、」

 するりと腰を撫でる。このマンションにつれてきた日に着ていた服を、今彼女は纏っていた。僕のあげたやつ、着るの嫌になっちゃったの? ナマエちゃん。

「その指輪」

 指輪、と口にすれば、ナマエちゃんの身体があからさまにこわばった。わかりやすくて笑える。

「昨日、もう捨てる〜って言ってなかった? 僕のことが好きだからもうこれはいらない、って。言ったよね」
「……、」

 彼女と位置を入れ替わる。ナマエちゃんに覆いかぶさり、見下ろせば、まあるい瞳が揺れていた。後頭部の下に手のひらをさしこむ。寝そべったせいで広がった彼女の髪の毛を手ぐしで整えて、そのあとは白い手首を両方とも掴んだまま、両手をベッドについた。縮こまる身体を囲う。真下の目をじいっと見竦めながらも、無駄に怯えさせないよう、口角は上げておく。

「ナマエちゃん? お返事は?」
「あ、ちが、」
「……違う?……なにが?」

 起きたばっかりの声は掠れて少し低い。

「な、南雲さん、」
「なあに?」
「なんでこんなこと、するんですか、」
「……こんなこと?」
「ここから出してください、」

 もう何度言われたか知れない。その言葉にひとつため息をついた。ナマエちゃんさ、と、片耳に口先を当てて囁く。

「もう殺ししたくない、違う生き方がしたいって泣きついてきたのはきみだよね? 僕を頼ったのはそっちでしょ」
「でも、こんな……とじこめられる、なんて聞いてない、私は普通の生活がしたいだけだったのに……っ」

 ……反抗的な態度も可愛いけど。さすがに睨まれるのは悲しいな。叱る代わりにナマエちゃんの手首に力を込めれば、「痛、」と小さい声があがった。

「痛くしてるんだよ」

 ふう、ふう、と息を荒らげる彼女は捕縛された野良猫みたいだ。全身総毛立たせて威嚇する、仔猫みたい。

「殺しの世界にいたきみが、いまさら普通の暮らしに戻れるわけないじゃん」

 ここに来る前の、最後の夜だってきみはナイフをふるったんだよね? もう殺し屋業からは足を洗ったって笑ってたのに。命を狙われたら血が騒いじゃうし、小ぶりのナイフだって持ち歩いて、手放せないでいたんでしょ。

「この前の夜もさ。僕がいなかったらどうしてたの? 相手の殺し屋るとき、躊躇はなかった? 殺しちゃったあとのこととか考えなかったのかな。もうフローターも呼べないのに。あのままだったら死体の処理はどうなってたんだろうね。僕が介入しなかったら、きみ、いまごろ取り調べでも受けてたんじゃない?」

 こく、とナマエちゃんの喉が鳴った。こっちを見詰めてくる顔は青褪めている。もうなにも言えないのか、唇を噛みしめるだけで反論はなかった。

「きみが言ったんだよ。南雲さん、助けてください、なんでもするからって。だから僕もきみをここにつれてきた」
「それは、南雲さんしか頼れる人がいなかったから……!」
「ははっ。……ばかだね、ナマエちゃん。僕みたいな男に頼っちゃって」

 鼻先がぶつかりそうなほどの距離で見詰め合い、囁けば、彼女は瞳を泳がせた。キスをひとつ落とす。唇を掠めるほどの距離感で、言葉を続ける。

「僕ならきみを一般人にしてあげられる」
「ん、」
「きみをこのまま、殺しの世界から遠ざけてあげるから」

 だから普通の暮らしは諦めて。
 言えば、真下の目に、潤む涙の膜が張った。

「泣かないでよ」

 抱き寄せた身体はやわらかい。少しも力が入っていないみたいだった。ときどき目尻をぬぐってあげながら、抱き締めたままぽんぽんと背をさする。
 ……だめだ、少しも離してあげられそうにないや。ここから出してあげられそうにない。だってせっかく手に入れたんだもん。ずっと、可愛く思ってた子のこと。

「大丈夫だからね、ナマエちゃん。ここでの暮らしもすぐに慣れるよ。だからさ……きみは、僕から離れていかないで」

 口づけを交わしながら、祈るようにつぶやいた。
 ああ、本当に可哀想だ。こんな、僕みたいな男なんかに目をつけられちゃって。せっかく殺し屋を辞めて、一般人として普通に暮らせるって、眩い夜明けを夢見てたのにね。
 ごめんね、……ナマエちゃん。



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