グランドフィナーレとはいかない
20250710





 目を覚ますと、ほんの少し明るくなりだした寝室はうすい青色が飽和しているみたいだった。南雲さんの家の、おそろしく広い寝室の窓はすべてに遮光カーテンがかけられている。その隙間から漏れる夜明けの光が暗がりにまぎれる。
 頭の下には腕枕がさしこまれていた。枕代わりの腕にはタトゥーがいくつも彫られている。
 首を回して隣を見ると、南雲さんもまだ服を着ていない。起きた私にもめずらしく気づかないで、眠っていた。下まぶたにできたクマだけが、酷いアザみたいに濃い。
 南雲さんに掛け布団をそう、っとかけ直す。そのとき巻きたての包帯が、一瞬、覗いた。下に覆われているのは任務中に負ったらしい傷だ。さっき、セックスの最中にひらいてしまった怪我。
 私の殺しのあとの昏い夜、こうしてふたりで眠るようになってどれくらいが過ぎただろう。
 南雲さんはいつも、絶対的な快楽で私を埋めてくれた。嫌なものは見ないで。余計なことは考えなくていいから。そう伝えてくるみたいに。
 だから私も一途に縋る。浅ましいくらいねだって、外側も内側も全部さわってもらって、たくさん声をあげて、耳にこびりついた断末魔をかき消して、疲れ果てて、いなくなった仲間たちを思考から追いやって、そこでようやく睡魔がきて、最後はいつも事切れるように眠った。今夜も。
 南雲さんの疲れた寝顔を眺める。寝室は静かで、自分の居所が徐々にうやむやになっていく感じがした。自分がいま敵組織との抗争中なのか安全地帯で規則正しい呼吸をしているのかさえ、気を抜くとわからなくなりそうだった。
 耳を塞ぐ。あちこちを駆け回る足音や、死んでいった仲間たちの沈痛な叫び、殺さないで、死にたくない、と神に縋るターゲットの声が、ずっと聞こえている。
 私はいま、どこにいるのだろう。

「……眠れない?」

 ひどく掠れた、でもやけにくっきりとした声で現実へ引き返した。首を横に振れば抱き寄せられる。すっかり汗の引いた肌が触れ合い、背中をさすってくれるから、急に悲しくなってしまった。
 南雲さんの薄れないクマのこと。怪我のあるの身体のこと。私にばかりかけられていた掛け布団のこと。どれほど疲弊していても、任務後には必ず抱いてくれること、傍にいてくれること。
 南雲さんが日々してくれている数々を考えると、悲しい気持ちはさらに膨れあがる。
 どうしたって優しさにまで傷つくのは、きっと私が、このぬくもりに甘えきっているせいだ。

「南雲さん……」
「ん? どうしたの」

 上を向くと、わずかに伏せられた目と視線が絡んだ。可愛がるように頬を撫でられて、くすぐったい。
 私はいま、ものすごく高い、崖の先端にいる。ふとそんな気分に陥る。一歩を踏み出せば落ちてしまう。
 かろうじて踏みとどまっているのは南雲さんが手を掴んでくれているからだ。けれど引き返そうと思えない。南雲さんがいるほうに戻ろうと、思えない。
 このままでいたら、いつか南雲さんを道連れにしてしまう気がした。掴んでくれている手を、離さないまま、私は崖から飛び降りる。

「……おやすみなさい」

 口淀む私を量るように、漆黒の瞳が細められる。でも言葉は発さない。南雲さんはただ、やわらかいキスをくれるだけだった。
 しばらくのあと、上目でぼんやり窓を見た。カーテンの隙間で白む空。真っ白な、消えかけの小さい満月が、遠くにぽつりと浮かんでいる。



「どうかしたー? こんな時間に」

 翌日の仕事終わり、日付を跨いだころに彼のマンションを訪ねた。
 玄関から出てきた南雲さんはスーツ姿の私と違って上下ともにスウェットで、手には数独の冊子。すっかりくつろいでいた、という様子に申し訳なくなる。

「お話があるんです」

 玄関で、靴を脱ぎもしないまま。言えば南雲さんは訝しげにした。私が、任務後でもないのに来たからだろうか。

「おいで」

 踵を返した大きな背中を追う。間接照明だけが灯る暗いリビングに通され、革張りの大きなL字型ソファに腰をおろした。目の前のローテーブルにはペンが転がっている。数独は、ここでやっていたのかもしれない。
 立ったままの彼の姿を目で追う。キッチンへと向かった南雲さんは冷蔵庫からコーヒーを、次に棚から、包装された小箱を取った。

「あの、私、今夜は」
「クッキー買ってきたんだ〜」
「……クッキー?」
「今日、任務先でさ。なんか行列ができてて覗いちゃった。ナマエちゃん、そういうの好きじゃん」
「待ってください」

 かすかに厳しい声が出た。南雲さんが動きを止める。片手にはクッキー缶を持ったままだ。きらきらした装飾の施された、目に明るい色合いの缶。

「コーヒーは大丈夫です、このまま、聞いてください」

 南雲さんがこちらに向き直る。彼の顔色は今夜も、悪い。

「……私」

 南雲さんとはもう寝ない。縋らないし、時間を奪わない、与えられる優しさを浪費しない。今夜このマンションを訪れたのは、そういういくつかの決意のもと。

「ここに来るのは、今夜限りにしようと思うんです」
「……」
「ずっと甘えていてごめんなさい」
「……ふうん? それで?」

 続きを促した南雲さんの、雰囲気が変わっていた。うすい笑顔を浮かべているのは常だけれど、どこか高圧的な気配。酷薄な目つきについ肩を縮ませる。後ずさりたくても、ソファに居ては叶わない。

「で、なに? いままでどうもありがとー、さよなら、ってこと?」

 伸びてきた手、タトゥーのある人差し指が、私の胸もとのネクタイをひっぱった。
 あまりにも唐突だった。首輪をひかれたみたいに立ち上がってしまう。そのまま、ネクタイをさらにくっと引かれれば、お互いの距離が狭まった。

「ほかに、ちょうどいい奴でも見つけたー?」

 落ち着いた平坦な口調とともに、にこりと笑われてどこか肌寒さをおぼえる。南雲さんの、こんな笑顔、見たことない。

「違います、私はただ」

 とつぜん。ネクタイを強く引かれ、私は体当たりするように正面へ突っ込んだ。よろけた腰を抱き留められる。同時に結び目がほどかれていき、首もとの締めつけは、消える。
 唇が、重なった。

「ん……!」

 かぶりを振り、南雲さんの胸ぐらを押し返すけれど、もつれた足ではバランスが取りづらい。どうにか体勢を立て直そうとするものの、身体はあっけなく押し倒され、ソファへと沈んだ。
 甘ったるさのかけらもない長いキスが与えられる。最中、息継ぎに失敗し、苦しんだせいか、なんだか深海に落ちていくみたいだった。暗い海に沈み、溺れているみたい。

「暴れないでよ」

 抵抗がほとんどきかない。南雲さんがこんなふうに、乱暴にしてくることなど過去に一回もなかったし、話に耳を貸さないこともなかった。だから動揺した。

「んんぅ、」

 くちづけばかりが激しくなっていく。舌が、絡まる。
 直後。
 口内に厭な味が広がった。私は混乱するまま、ほぼ無意識に、思いきり口を閉じてしまっていた。離れた南雲さんの唇のはしから、赤黒い血が伝う。

「った……」
「あ、ごめ……あの、私、ごめんなさ、」
「あーあ……」

 言い訳はできなかった。首を、わし掴むようにされたせいで。力は込められていないけれど、反抗心をねじ伏せるための見せかけの仕草か、本気で気道を塞ぐつもりでいるのか、読めない。
 自身の口角のあたりを、親指でゆっくりなぞる南雲さんを見詰める。血を拭った指はそのまま、私の口のなかへ。彼の目は真っ黒で、光を一切取り込まない。

「や、」
「綺麗にしてよ。ナマエのせいでついたんだから」

 首を押さえてくる腕を掴み、もがいてみても、頸動脈への圧迫が強まるだけだった。

「きみ、……きみはさあ、僕がいないとだめだって、言ったよね」

 喉の奥にまでさわられると嘔吐いてしまい、胃が変に収縮した。涙があふれる。生理的なものかもしれないし、感情的になっているから止まらないのかもしれなかった。

「何度も……何度も。あれって嘘だったわけ? 僕、嘘嫌いなんだけど。……それでなに? 飽きたらお払い箱〜? 用済みはもういらない? ねえ。なにか答えなよ、ほら」
「んん……」

 抵抗を完全に諦め、脱力する。
 そのうちに指が抜かれていった。首も自由になり、苦しまぎれに顔を背けると、キッチンにあるテーブルに置かれた、小箱が目にとまった。私のいない任務先で、私のことを思い出し、南雲さんが買ってきてくれたクッキー。背中をさすり続けてくれた朝を思い出して、箱の輪郭が滲んだ。

「僕を選んだのはナマエでしょ」

 身体を覆われる。影に包まれた視界は暗く、狭くなる。

「……いまさら、どこにも行かせるわけないじゃん」

 なにを言ったらいいかわからない。私は正しい返事を思いつけない。がんじがらめのまま、動けない。
 名前を呼ばれて、また、キスをした。脆くて優しいキスだった。
 幕を閉じるみたいに目をつぶる。私たちはいま、どこにいるのだろう。まぶたの裏は真っ暗で、もうなにも見えなかった。



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