愛の皮をかぶった獣
20250717





 僕の恋人はやきもちを妬かない。べたべたまとわりついてくることもなければ、なにかをしつこく詮索してくることも、交友関係や仕事を制限してくることもなかった。昔付き合った女の子とは、どうやらタイプが異なるらしい。
 僕も僕で、恋愛観が変わったと自覚している。昔はいくら自分の彼女であるとはいえ相手に対してそこまでの興味を持てず、もういい、と結局ふられたけど、今回の彼女といる生活は当時の日々とはまったくもって違った。
 たとえば妬くのは僕のほうだ。構ってよ、とくっつくのも、帰り時間だとか誰と出掛けるのかとかどこに行く予定かとか、ひとりでいるときはなにしてるのか、とかを執拗に聞くのは全部こっちだった。
 え、それあえてひとりでする必要ある? 僕がいてもいいんじゃない? なんで誘ってくれないの? ひとりのほうがいいの? ていうかさあ、連絡先に僕以外の男の名前いらなくない? 仕事での連絡なら社用携帯使いなよ、そんなの僕がいくらでも買うし。あと合鍵ちょうだい。勝手に作っていいなら作るよ。
 そんなふうに、日々彼女──ナマエちゃんに迫り、困らせていた。
 ふたりぶんの気持ちを天秤にかけたら、それはきっと片方を深く沈めるんだろう。僕たちの想いは釣り合わない。
 そうだなあ。あの子が僕しか要らないって泣いて喚いてくれたら、気持ちが均等にならなくてもいいかもしれない。この胸の内も、きっと少しは満たされる。
 だいたい、自分でだってどうしてこんなにあの子に惚れてるのか、あの子のことばっかりになるのかいまいちわかりきってないっていうのに、感情を語ろうとするのは難しい。とくに人の喜怒哀楽なんて、そんなの、目に見えるわけでもないんだし。数字とか記号くらい明確であれば、こっちも助かったんだけど。
 唯一はっきりと明確になってるのは、僕があの子に向ける感情はやけに重たく、ねちねちしている、ということくらいだ。そんな子供じみた説明しかできない想いは、ある種厄介でもあった。
 ヘドロみたいだな、と思う。ぬめついた泥水に足もとをすくわれるたび、道端で汚泥を見かけるたびに、自分の内面によく似ていると感じた。
 映画を観たりすると、恋なり愛なりは美しく綺麗なものとして切り取られ、描かれる。無償の思い遣りこそ。無限の優しさこそが、愛なのだと。
 個人的な見解として、見返りを求めないのが愛だとするなら、僕が抱くこの気持ちはけっして愛と呼べる代物じゃない。
 僕はナマエちゃんからの見返りが欲しい。同等か、それ以上の想いを返されたくてたまらない。あの子の愛が、すべてが欲しかった。
 これが追いかける恋愛、ってやつなのかな。ただ、ナマエちゃんにだけは嫌われたくないから最近は粘着質な態度を取らないよう、あっさりしていようと心掛けている。
 本当の僕を──内心ではナマエちゃんを僕でいっぱいにしたい、四六時中僕のことで悩んでいてほしい、それらが無理ならいっそどこかに閉じ込めてしまいたいとすら考えてることを、あの子にだけは知られちゃいけない。だっていまさらナマエちゃんを手離すつもりなんか、さらさらないから。
 あの子を逃がさないためだったら、どんな男にでもなれた。いくらでも取り繕えた。嘘を重ねられた。ナマエちゃんの趣味に当てはまる男を演じるのなんか、まばたきをするのと同じくらい容易いことだ。
 本当の僕を好きになってほしい、愛してほしい、なんてべつに思わない。ナマエちゃんが僕の傍に居るという事実だけがすべてだ、僕を選んでくれるなら、この際外見を変えたっていい。



「ただい……」

 22時を過ぎた頃、ひさしぶりに帰宅する。自宅の玄関ドアを開けるとほぼ同時、夏の突風みたいに抱きついてくる身体があった。
 ただいま、と言い切ることができなかったくらいの勢いに驚きを浮かべつつ、下を向けば、ナマエちゃんのつむじが見える。
 ぎゅうぎゅう抱きつくこの子の様子は、おかえりのハグが待ち遠しかったというよりなにかに縋ってるようにも思える。それに普段、帰るたび抱きついてくるなんてことない。めずらしさのあまり、心配になった。

「どうしたの〜?」

 背中にしょったジュラルミンケースを下ろすことも、スーツのジャケットを脱ぐことも、ネクタイを緩めることもこの体勢ではしづらい。そんななかで訊ねると、ナマエちゃんは「南雲くん、」と数回つぶやいた。
 名前を呼ばれたんだと思ったから「なあに?」と返したのに、提供される話題も進むトークもなく。この子はただ、僕の名前を繰り返しただけだった。

「ナマエちゃん。こっち、見て」

 革靴さえも脱いでいない。ルームウェアを着込んだナマエちゃんの両頬を包み、顎を持ち上げれば。

「えっ……なに?! ちょっとほんとどうしたの」

 ナマエちゃんはぼろぼろ泣いていた。

「なにかあった? 怖いもの見たの? 虫が出た? それとも誰かに嫌なことされた? あ、どこか痛い?病院行く? 体調悪いなら、僕今からなんか買っ……」
「いかないで」
「……」
「どこにもいかないで」

 また、ナマエちゃんのひたいが押し当てられる。頭を胸もとにうずめられれば、表情はどうしたって確認できなくなった。
 ようやく僕も抱きしめ返す。今はそれが最善だとわかり、とりあえず強く腕を回して応えた。ナマエちゃんの背中をとんとんあやしてやる。

「南雲くん」
「うん」
「……おかえり、」
「うん、ただいま」

 抱いたまま廊下の床を見下ろすと、スリッパの上で背伸びをするかかとが目に映った。力なんかそんなにないクセに精一杯の力加減で抱きついて、離れないナマエちゃんの雰囲気に、胸が満たされる。

「ちゃんと帰ってきてくれた……」

 ナマエちゃんの声は僕の胸ぐらのあたりに吸い込まれ、ぼやけて消えた。だけどひとことも聞き逃さなかった。

「ええ〜? 帰ってこないと思ってたの?」
「うん……」
「そんなわけないじゃん。僕はここに……ここじゃなくても、ナマエちゃんのいるところに帰るよ、ちゃんと」

 そこまで言うと、腕のなかのナマエちゃんが顔を上げた。急所、白い首すじ。喉を無防備に晒して反らせながら、一心に見上げてくる。眉尻も目尻も下げたまま、いまだに涙をこぼし続けたままで。まなじりをぬぐってあげると、親指の腹がじわりと熱く濡れた。

「うそつき」

 ナマエちゃんがぽつ、とつぶやく。引き結ばれた唇が尖って、僕を責めたいんだと察せられた。

「昨日も一昨日も……その前も、帰ってこなかった。今夜帰るねって、その日、言ってたのに」
「あ〜……。ごめんごめん。僕さあ、任務でヘマしちゃって」
「知ってる」

 言葉尻がほとんどかぶる。こうしてナマエちゃんが食い気味に返事をしてくることはたしかにある、でもそれはどこかへ行きたいときだったりなにかが食べたいときだったりと、興奮しているとき限定だ。
 だから今、喧嘩腰とも取れる口調で前のめりになるナマエちゃんの態度は、やっぱり、かなりめずらしいといえる。

「南雲くんの会社の人から、連絡もらったから」

 涙声が訴えた。──ああ、そういえば神々廻に連絡を頼んだっけ。

「……南雲くん、任務で大怪我負って、一日以上目が覚めなかったんでしょ?」
「んー、まあ……疲れて爆睡しちゃってたのかもね〜」
「打ちどころが悪かったって。……あとちょっとずれてたら。頭を打ってたら、後遺症が残ってたかもしれなかったんでしょ」

 神々廻、と口内でひっそり独りごちる。舌の上で転がった同僚の名前は声にはならなかった。神々廻にはナマエちゃんに全部話さなくていい、僕があと数日帰れないってことだけ伝えてー、としかお願いしなかったのに。

「怖かった」

 ぐすぐすと、ナマエちゃんの鼻が鳴っている。もう一度ひたいを押しつけてこられ、抱きしめ直せばふたりぶんの体温が混ざった。人と人としての境界線が曖昧になっていくみたいだ。ああ、ちゃんと傍にいるな、と思った。僕たちは今、ふたりで居る。ふたりきり、で。

「南雲くんが、死んじゃったらどうしようって、……怖かった」

 子供のように喚いたりとか。そんなことはしないものの、ナマエちゃんは駄々っ子のようなくちぶりで続けた。
 大丈夫だよ、死なないって、僕が簡単に死ぬわけないじゃん──ありふれた、適当な言葉を選んで至極真剣な声色で伝える。
 この子を落ち着かせてあげたくもあったし、まあ実際、自分がそう易々とやられるはずないとも感じている。ふざけてはみたけど、なにも全部が真っ赤な嘘ってわけでもなかった。

「でも……」

 でもでもだってとぐずるナマエちゃんのなかから、不安感はすぐには失せないらしい。必死に縋りつくみたいにしてくるのが、無性に可愛かった。

「ナマエちゃん。泣き止んでよ、きみに泣かれると僕まで泣きそうになる」

 肩をそっと押し返し、距離を空ける。腰をかがめて「ね?」と念押しするとナマエちゃんはうつむいた。うなずいてくれることはなかった。

「おいで」

 ジュラルミンケースを置き、靴を脱ぎ、スーツだけになった身体で再びナマエちゃんを抱きとめる。
 今度はおずおずとやってきたこの子を腕に閉じ込めれば、おそろしく安堵した。このまま繋いでしまいたい。この家にでもなく、ベッドの上にでもなく。僕の、なか、に。
 体内で次々ヘドロが湧いている。ねばついて重い、心の底に累積するやわらかくて汚い泥にも似た感情。

「南雲くん……今夜はどこにもいかない?」

 行かないよ。答えると、ナマエちゃんを抱きしめてあげながらもふと、笑いたくなった。
 いつもは妬かない女の子。べたべたまとわりついてくることもなければ、なにかをしつこく詮索してくることも制限してくることもない、あっけらかんとしているこの子が。
 今は僕のことで、頭をいっぱいにしている。僕で悩んでいる。くどいくらいひとつの名前を呼んで、ひたすらくっついてきては僕のことを考えて大粒の涙を溢れさせる。
 この数日間──僕がここへ帰れなかった何日間かの間、もしかしてずっとこうだったんだろうか。だとしたら、

「……ふ」

 勝手に上がった口角から、かすかな笑い声をこぼしてしまった。だめだ。だめだだめだだめだ、声を殺さないと。この子の前では、優しくて甘えんぼで素直で冗談ばっかりで、やきもちこそ妬きはしても根底は全然重くない、そんな男でいないといけないんだから。
 常になにかに固執してることも、その対象がきみであることも、バレちゃいけない。僕で泣くナマエちゃんが可愛くてどうしようもない、もっと、もっと僕で頭をいっぱいにしてほしい、僕がきみの脳内を占領したいなんて思ってることは、隠し通さなくちゃいけない。
 でも。

「本当はさ。僕も、ちょっと不安だったんだよね」

 これぐらい、言ったっていいよね? ねえ、ナマエちゃん。

「え……?」
「二度ときみに会えなかったらどうしよう、って。こうやって話すこともできなかったら……って、意識を失う瞬間に」

 ナマエちゃんの身体がギクシャクとこわばるのが、手に取るようにわかった。愉悦めいた感覚が腹の底でくすぶる。さらにきつく抱きつかれれば愛おしくて仕方ない、

「……南雲くん、いまの仕事、辞められないの?」
「ごめんね。それはできないや」

 そっか、という返事が返されたのは数秒の沈黙のあとだった。乱れる感情をなんとか飲み込もうとしてるナマエちゃんが健気で、ひどく可愛くて、可哀想だった。

「ナマエちゃん」

 呼べば、目を見詰められる。揺れる瞳には涙の膜が張っている。

「僕のこと、嫌になった?」
「ううん、」
「付き合うのやめたい?」

 ふるふるとかぶりを振られてほっと息をつきたくなる。じゃあまだ好きでいてくれる? 質問を重ねると、やっとしっかりうなずくのが見えた。

「また、待っててくれるの。僕のこと」
「うん……」
「よかった」

 抱きしめ、背中をさすり、頭を撫でてやり、キスをひとつ。ナマエちゃんの唇は少ししょっぱい、この子の、涙の味がした。
 僕で泣いたんだと思うと幸せだった。怖いくらいだ、

「好きだよ、ナマエちゃん」
「……うん、」
「きみのことだけが」
「んっ、」

 キスを二回目、三回目と落としていきながらうすく目を開けた。ナマエちゃんはまぶたを固くつぶっている。
 僕だけの女の子の顔を、じい、と見竦めた。この子に見られていないから、表情を作ることもしない。
 あーあ、もう後戻りできないなあ、とひしひし感じる。させてあげるつもりも、毛頭ないけど。あ……目尻に涙の跡がついてる。頬も一緒に、あとで拭いてあげないと。

「……南雲くん?」

 キスをやめ、見詰め合えばナマエちゃんが首をかしげる。その瞳のなかに映り込むのは、今は、僕の影だけだ。

「ん?」
「なんで、笑ってるの」
「ああ、……きみと会えて、幸せだなーって思ってさ」

 心から言うと、ナマエちゃんも笑った。普段よりずっと弱々しくてすぐさま壊れそうに脆い、僕の大好きな笑顔だった。



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