20250722
帰宅早々、玄関まで出迎えに来たナマエには目もくれずに南雲はリビングダイニングへ直行した。
乱雑にスーツのジャケットを脱ぐと、ナマエと暮らすようになってから取り急ぎしつらえた四人掛けの大きなダイニングテーブル、そのイスにばさりとかける。タトゥーの彫られた指先でネクタイを緩め、ぱちりとワイシャツのボタンをはずせばナマエがジャケットを取るのが尻目に見えた。
「ナマエちゃん」
南雲の服をハンガーにかけようとする、彼女の腕を掴む。力は加減できなかった、かすかに顔を歪めたナマエの様子に、ああ、強く握りすぎてしまったと気がつく。
「来て」
言い、南雲はソファにどさりと腰掛けた。肘掛を背凭れにするような体勢で、片足は座面に乗り上げる。
ナマエも南雲と向かい合うようにそっと座った。なあに? とのんきな面持ちで返してくるこの子がまた可愛くて、腹の底にある苛立ちがひとつ膨れるようだった。
「あのさあ。昼間のあれ、なに?」
「昼間?」
「三階の西フロアでなんか男と喋ってたじゃん」
「……そうだっけ?」
そうだよ、と答えながら今日の午後のことを漫然と思い出す。
今日、昼過ぎ、彼女は誰か南雲の知らない男とふたりで談笑していた。くすくすと軽やかな笑い声さえが風に乗って聞こえてきそうなほど、明るい笑顔を目の当たりにしたのを憶えている。
そのとき彼女は資料をたっぷり抱えていた。男はそれを取り、自身で持ち直すとナマエへにこやかに微笑みかける。そうしてふたりはフロアに戻っていった。近くで同僚と話す南雲の存在にも、気づかずに。
「ああ……」
ナマエが、合点がいったとでも言うようにうなずく。
「なにあの顔。余計な愛想振りまいてどうするの?」
「愛想なんて、」
「きみ、僕の彼女だって自覚ある? ていうかアイツ誰」
「後輩だよ。同じ部署の」
「ふうん? 後輩、ね……。ナマエちゃんって歳下が趣味なわけ? じゃあ僕はなに? たまたま歳上だったってやつ?」
「違……」
「違う? ああそう」
「彼はただの同僚で……なんにもないよ」
「そんなふうには見えなかったけどなー。あんな笑顔向ける必要ある? あれじゃあ勘違いする男がでてきてもおかしくないんじゃない。このままだともしなにかあっても自分のせいってことになるよね、ねえ、それわかってる?」
「南雲くん、本当に、」
「まあいいや」
「……」
「ナマエちゃんさ、自分が僕の彼女ってことちゃんと覚えててよね。浮気とかしたら絶対許さないから」
うん、と、ナマエはぎこちなく応えた。わかってくれたならいいよ、そう言って腕を広げれば、ナマエが胸のなかにすっぽりおさまる。
抱きしめるとやっぱりギクシャクとして抱き返してくる彼女に対し、イライラとする悪感情が完全に消えたわけじゃない。でもどうしても、南雲はナマエを突き放せなかった。手離したく、なかった。
夕飯はナマエと作った。彼女がここへ帰る途中に買ってきてくれたらしい食材を使い、一緒にキッチンへと並んで。普段は空っぽの場所が、ナマエと立つだけでめまぐるしく表情を変えるのが心地好い。
ひとりのときは水やレーションしか入れていなかった冷蔵庫もパンパンになって、それが彼女の存在を体現し、肯定しているようにも感じられ、いまでは料理も好きなことのうちに入りそうなほどだ。そこにナマエがいるのなら、ではあるけれど。
いただきます、とふたりで手を合わせた。食事をしていればさっきまでの不穏な空気も失せていく。食べ終わるころにはまた仲良く会話をし、いつもの気配を取り戻していた。
「ナマエちゃーん」
食後、後片付けをするナマエの背中から腕をまわして抱きつく。
「片付けなんてあとにしなよ。僕の相手して〜」
「先にやっちゃう。南雲くんは座ってていいよ」
「ヤでーす」
離れない、とナマエにしがみついたままでいれば彼女がうすく笑うのがわかった。コーヒーにミルクをまぜた瞬間みたいにまろやかな、耳馴染みのいい声だった。南雲の最も愛している笑い声だ。
「こっち向いて」
囁き、彼女の背後から腕を伸ばして水道をきゅっと止める。髪の毛を耳にかけてあげると、ナマエはくすぐったそうに肩を揺らしたあとで手を拭いてから、ふり向いた。
彼女を抱きしめる。甘えんぼだなあ、と言われてしまえば反論したくもなったものの、おとなしく背をさすられた。
「南雲くんっておっきいわんちゃんみたい」
「え〜? 僕、きみにとって犬と同等なの?」
見詰め合い、口先を尖らせるとナマエはまた笑う。
「南雲くんは特別だよ」
「それほんと?」
「うん」
「……僕のこと好き?」
「好きだよ」
「そっか」
ナマエの言葉を聞きながら、南雲は目の奥を暗くさせた。なにが特別だよ、と思った。嘘ばっかりだな、と。
風呂の用意をしたのは南雲だった。いまだ仕事着のままであったナマエと向かい合い、一枚ずつ服を脱がせていく。同じくワイシャツを着込んでいた南雲もネクタイをほどかれ、ボタンをはずされ、ベルトを抜かれていくとまっさらなはだいろがふたりぶんあらわになった。
「あんまり見ないで」
何度もベッドのなかで見ているというのに。ナマエが恥ずかしそうに裸を隠すから、南雲は口角を上げた。
「そういうふうに隠されると、もっと見たくなるんだけど。わかんない?」
「あっ」
ナマエの身体を強引に抱き寄せる。バスタオルがはだけ、晒された肌のあちこちには、南雲のつけたキスマークや噛み跡がしっかり残っていた。鎖骨の下のあたりにも、二の腕の内側にも、胸のふくらみにも。赤い模様、カラフルなインクで彫ったタトゥーみたいだ。
それらをそっとなぞってやれば、ナマエはぴくりと肌を震わせた。肩がほんのり赤く染まる。
南雲の指先ひとつで情欲を漂わせるナマエに胸の内がひどく満たされ、彼女をきつく捕らえた。
「お風呂、入ろっか」
耳もとに囁く。ナマエはこくりとうなずいた。
浴槽にふたりでつかる。南雲の家の浴室は広く、バスタブも無駄に大きい。そのおかげで大の大人ふたりが入っても湯船にはあと少しの余裕があった。
「ね、こっち来て〜」
南雲はナマエの腕を引いた。ざぶざぶと湯をかきわけるようにして、彼女はいつもの定位置、南雲の足の間へと泳ぎつく。後ろから腹に腕をまわせばぴったりと密着し、濡れた肌同士が吸いつくようだった。ナマエの後頭部にキスをひとつ、落とす。
彼女とは、ぬるま湯のなか、他愛もない話をいくつかした。その最中何度も肩にお湯をかけてあげたり、耳たぶを食んで怒られたり、あちこちを柔く撫でつけてあられもない声を聞いたり、それでやっぱり叱られたりした。
頭を、身体をお互いに洗いっこして、再び湯船につかり直す。さっきと同じ体勢でいるから、南雲からはナマエの背中やうなじがよく見えた。
幸せだった。
「そういえばさあ」
だから、南雲はぽつりと切り出した。小さなボリュームだったのに、風呂場では声がやけに反響するみたいだった。
「最近、仲良くしてる男の子がいるんだよね」
脳裏にひとりの男の姿を浮かべる。
「そうなの? どんな子?」
「近所のパン屋さんで働いててね〜」
「……、」
それだけ伝えた瞬間に、さっそくナマエが身をこわばらせた。叩けば割れそうな宝石みたいに脆く、縮こまるそのさまがあまりにわかりやすくて、笑える。
「明るい茶髪で……涼しげな目もとの可愛い子だよ。見たことない? きみもたまに行ってるパン屋だと思うんだけど」
「わ、……わかんない」
「そっか〜。そこでさ、仲良くなった子がいて。いろいろとお話させてもらってるんだ〜」
「そうなんだ、」
南雲はナマエの、洗い終わってまとめあげられた髪の毛に触れた。湿った毛先からひっきりなしに、ぽた、ぽた、と水滴が落ちる。それは彼女のうなじを通り、背中へ垂れていった。
「なんかね? その子、けっこういろんな人に話しかけられるらしくて」
「へえ……」
「おばあちゃんとかおじいちゃんとか、子供とか。家族連れのお父さんにまで声かけられるんだって。たぶん、話しやすいんだろうね〜。僕もついいろいろ言っちゃうもん。きみのことなんかも聞いてもらってるよー」
「……」
「それでさあ、いまね」
ナマエの身体に腕を巻きつける。逃がさないとでもいうように、蛇が獲物を捕らえるときみたいに。ナマエはすでに、呼吸を不規則にさせていた。
「若い女性からも、恋愛相談受けてるんだって」
びくり。ナマエの肩が跳ねたのを、南雲は見逃さない。
「なーんか、その女性はね、彼氏さんが重い……って悩んでるみたい。僕はそこまで詳しくは聞いてないけど、重いってどんな感じなんだろうね? その男の子は、別れたほうがいいんじゃないですかってアドバイス……してるらしいよ」
「そ、なんだ、」
「ナマエちゃん」
「なに、?」
「どうしたの? なんか、様子おかしくない?」
後ろからぎゅ、っと抱きしめてやり、耳たぶにくちづけて囁いた。
「お、おかしいかな」
「うん。心ここにあらずーって感じ〜」
「つ、疲れてるのかも、……私、先に上がるね」
ざぱ、とナマエが湯船を立った。見上げると、慌てたそぶりで浴室を出ていこうとする。
南雲は口を閉じたまま、寝苦しい夏の夜の色をしたまなざしでナマエの背中をじい、と見詰めた。
あーあ、と思う。パン屋の男に、南雲の相談をしてることを打ち明けてくれたならよかったのにと。好きだと、特別だと口では言いながら心の底では別れるべきか悩んでいることを、男に別れたほうがいい≠ニアドバイスされていることを認めてくれたほうが、まだ、今夜も優しくしてあげられたかもしれないのに。
「待って。僕も上がるよ」
彼女の気配が脱衣所から消る前に南雲も浴室を出た。身体を拭いたあと、ルームウェアに身をつつんだナマエのバスタオルを取って彼女の頭を乾かしてやる。
おとなしくされるがままになっているナマエは、いま、いったいなにを考えているのだろう。すぐさま目の前の心臓に手を当てて、鼓動の速さを確かめてしまいたかった。
「ナマエちゃん」
呼びかければ、髪をわしゃわしゃとぬぐわれるナマエは片目をつぶったまま、南雲を見上げた。
「今夜は早くベッド行こ」
羽根でなぞるように穏やかな口調を崩さず、にこりとやわらかく微笑んでみせると彼女はどこかほっとしたおもざしでうつむき、うん、とささやかに答える。
「あのね、南雲くん」
「ん〜?」
「今日……優しく、してね」
「……当然でしょ。たくさん甘やかすよ」
ひとつ、ナマエに嘘をついた。
だって今夜は彼女に、酷く、したいと思っている。徹底的に。
タオルドライを終え、おそろいのシャンプーの香りをくゆらせるナマエを優しく抱きしめる。
抱きしめ返されて充たされるものがある反面、彼女をグズグズにしてやりたい、頭のなかを自分のことだけでいっぱいにしてやりたい、他の男のことなんか考える隙を与えたくない、という嗜虐心や残忍な感情、独占欲や支配欲がふつふつあふれてやまない。
それは世界じゅうのすべての欲望をかき集めてこしらえたような、傲慢で凶悪で、粗悪なものだった。
「大好きだよ」
宵の晩を引っ掻くような声でナマエにつぶやく。彼女はまたうなずいたけれど、同じように好きだとか大好きだとか愛してるだとかを言ってくれることはない。
「……」
脱衣所の、鏡に映った自分とふいに目が合う。やけに暗い顔つき。枯れかけた花と同じように黒く、かさついた目つきの男が、そこには立っていた。大きく、途方もない闇さながらの影法師は、ナマエに取り憑くように彼女を覆い尽くしていた。