20250724
「もっとこっち、寄れる?」
私は膝を抱えていた。いまは南雲さんとふたり、ひどく狭いクローゼットのなかにいる。敵地でターゲットらに追われ、身を隠している最中だった。
南雲さんに言われたとおり、おずおずと身体を寄せると、自然と彼の足の間にすっぽり入るかたちになってしまう。ほとんど抱き合う体勢で、向かい合っているのも申し訳なくて、とにかくうつむいた。
直後、クローゼットドアの向こうからは、アサルトライフルの連射音が断続的に聞こえた。敵襲だ。しばらくすると音はやみ、硝煙のにおいが鼻をつく。
「南雲さん、」
「しい……静かに」
背中にまわされた腕。引き寄せられると抱きしめられるみたいで心臓が変に高鳴ってしまう。だめだ、いまは任務中なんだから。気を引き締めて息をひそめる。
敵の気配がなくなれば、辺りにはふたりぶんのぬくもりだけが滲んだ。お互いのスーツ越しに伝わる体温と、彼の落ち着いた呼吸音と。
南雲さんがスゥと空気を取り込む。細かな空気の振動が、彼の、この夜よりも深い漆黒の髪の毛を揺らして私の首すじをくすぐった。
それがあんまりにもこそばゆくて、ぞわ、と身体の片側だけに鳥肌がたつ。南雲さんに触れられているほうだけに。だから、寒いだとかそういった別の理由をいいわけにはできず、彼のせいでなにかを感じている、とまざまざと示すはめになってしまった。
「そ……そろそろでしょうか」
頭だけでふり返る。そのとき、南雲さんは私のこめかみをそっとなぞり、毛束をひとまとめにしてどかした。髪の毛先が当たったのが、くすぐったかったのかもしれない。そうして片方の耳にかけてくれる。なにかを可愛がるような手つきだった。髪をとかれて露出した耳がぞくぞくし、思わず頭を傾ける、と。
「そうだね」
「んッ」
「……」
南雲さんの口先が、私の耳もとをかすめた。そこで喋られたせいで。いま、私、変な声を。
南雲さんは黙っている。おかしな反応にはきっと、ばれてしまったに違いない。耳たぶと唇の距離は存外近く、視線が穴に注がれていることもはっきりと知覚できてしまう。
「あの……ごめ、なさい、」
伝えても、返事はやっぱり、なかった。
少しのあと。南雲さんがこちらと距離を取る。ようやく抱き合う体勢ではなくなり、ほっと胸をなでおろした。
クローゼットの奥、壁に映った南雲さんの影が動く。
「ナマエちゃん」
「はい」
「そろそろ出よっかー」
ふたりで狭い箱のなかを出ると、抗争のあとのアパルトマンは壁紙がはがれ、天井にひびが入り、窓も割れていてボロボロだ。
「窮屈でしたね」
「ね〜」
のびをする南雲さんに、さっきのことを再び謝るべきか悩む。けれど彼は特段気にしてないようだし──なんなら気がついているのかも不明瞭だし。いいか、と。
思ったときだった。
「ナマエちゃんって」
「はい?」
「耳、弱いんだね」
ふう、と息をつき、ネクタイを緩めながら、南雲さんが口角を上げて笑った。
耳に近づくやわらかい唇、ハ、と触れる湿った吐息、耳孔を濡らした彼の甘い声。すべてを瞬時に思い出し、頬が染まった。
羞恥心で、どうにかなってしまいそうだった。
「覚えておこーっと」
どこか熱にふちどられた、獰猛な瞳で彼は言う。
「は、い、……え?!」
「あはは。いい反応〜」
かと思いきやすっかり先輩然とした南雲さんはカフスボタンも止め、行こうか、武器になるもの探さなきゃ〜とのんきに歩き出した。私の心も、知らないで。
背中を向けられる。カツカツと遠ざかっていく足音を、慌てて追いかける。
でも耳にはいまも、甘やかな南雲さんの声が、触れられたところからとろてけしまうようなぬくもりが、残っていた。
それはしばらくの間消えないのかもしれない。というかもしかしたら、今後ずっと、消えてはくれないのかもしれないと思った。