20250724
夏の夜に飲むお酒はきんと鋭く冷えていたり、とろとろと甘ったるかったりする。外での乾杯は楽しいし、夜風に当たりながら歩いて帰るのも心地が好かった。
ふわふわとした足取りで、駅で友達とお別れをして歩く。ざわめきは水中で聴いている音みたいにぼやけていて、どこか遠い。現実味の失せた世界を一歩ずつ進めば、酔いがさらにまわってくみたいだった。
あーあ、南雲さんに会いたいな。ぼんやり思い、彼の姿形を脳裏に浮かべる。長めの黒髪、トレンチコートにあの人しか着こなすことのできなそうな派手な柄シャツ。酩酊気分の頭でも、好きな人の輪郭ははっきりと思い出せるから不思議だ。
高架下の辺りまでくると、人々のさわがしい声がずいぶん減った。標識や横断歩道を見ながらガードレールの内側を歩き、高架下をくぐり抜ける。
近くには駐輪場があるけれど、そこらへんには数人の男女がしゃがみこんで缶チューハイを|呷《あお》っていた。けっして治安が悪い街ではないものの、金曜日の夜となるとこうしてみんなが浮かれている。繁華街は、途方もなくきらきらとしていて、まぶしい。
家までの一本道にさしかかった。鍵を出すこともまだしない、スマホを確かめることもしないままで自宅マンションを目指す。
ゆるやかな下り坂になってるから、眼前に広がる住宅街が見下ろせた。てんてんと等間隔で立つ電灯、家並みから漏れるさまざまな色の明かりが、地面に落っこちた星粒みたいだった。
ふと、前方に人影があることに気がつく。影は道路と歩道を遮る防護柵に腰掛けているけれど、背高いことがありありとわかるシルエットだった。
私はとたんに嬉しくなって、ゆるむ頬で笑って、不審者かも、なんて思いをちっとも抱かないままアルコールの余韻のなかを走った。
「南雲さん……!」
私の足音に顔を上げたのは、やっぱり南雲さんだった。いつものトレンチコートを羽織り、両手をポケットに入れて柵にゆるく腰を下ろしている。私に気づけばこちらを向き、にこりと口角をあげた。
「いい夜だね〜」
はい、とテレテレしながら答える。だって南雲さんと会えたから、今夜は本当にいい夜だ。
「飲み会、楽しかった?」
彼が目を細める。私がチャットアプリに送った写真を見たんだとわかって、はい、と大きくうなずいた。
ならよかったと南雲さんは首を傾ける。黒髪がさらさらなびき、夜に溶ける。辺りの光を集めて光る毛先が、雨上がりの景色と重なった。まるで夜の光たちも、南雲さんに恋をして、ひとときも離れたがらないでいるみたいだった。
南雲さんと会うと、自分にはたくさんの感情があるんだということをいつも思い知る。自分の心が本当はどこにあるのか、しっかりと気づかされるのだった。
「ナマエちゃん」
私も漠然と首をかしげる。彼が大きな手のひらをさしだした。
「一緒に帰ろ」
手、繋ごう。という意味だと理解すれば頬はさらにゆるんでしまう。はい、と答えて手を伸ばすと、触れ合った皮膚は男の人らしく少し硬く、カサついていて、でもうっとりするくらい優しい体温を広げていた。
頭上にはキラキラと明滅する星空が出ている。いまにも降り注ぎ、ぱらぱらと音をたてて落ちてきそうなほどだった。都心部ではめずらしいくらいの景色に目をすがめる。こんな夜はめったにない。夏の大三角が見えないだろうかと頑張っていると、ナマエちゃん、と手を引かれた。
「なんですか?」
「よそ見しないでよ」
「してないです」
「してたでしょ。僕以外に見なきゃいけないものある?」
「ないです」
「嘘つきさんだなあ〜。今日だって僕のことそっちのけで飲み会行ったくせに〜」
「それは……」
「あはは、冗談冗談。……まあ、半分は」
ワントーン声を落とした彼と手を握り合ったまま、夜道をふらふら行く。
「あのね、南雲さん」
「ん〜?」
「大好き」
言えば南雲さんはにっこりと笑った。彼の心がいまたしかにここにあると思った。
「よそ見なんか、できないくらい好きです」
「そっか。じゃあ今日のところは僕なしで楽しんできたこと、許してあげてもいいかな〜」
少しも怒ってない口調で言うからおかしい。南雲さんは指先を動かした。私たちのふたつの手が、恋人繋ぎになる。
そこからは他愛もない話をした。大好きなんて言葉の響きはちょうど、地面に転がる石ころくらいの軽さしか持ち合わせていない気がする、だとか。だけど私の言葉に詰め込まれた想いは重たくて、2トンはくだらないと思う。
そのことを聞けば南雲さんは「酔っぱらってるな〜」とけらけら笑った。酔ってませんと言えば、酔っぱらいはみんなそう言うんだよとすげなくお返しされる。けれど目尻をやわらかく下げるこの笑顔が、私はとても好きだった。
「私、帰ったら南雲さんに面倒見てもらいたい」
「また? まあいいけど〜」
嫌いじゃないし、と続けざまに言う南雲さんに、嫌いなどころか好きなくせにと文句をぶつけたくなる。彼はいつも、私の世話を焼きたがる。──自分が酔っていないときに限り、ではあるけれど。
南雲さんはお酒に弱いから、飲むとぺしょぺしょの未確認生物にも、甘えんぼのわんちゃんみたいにも、駄々っ子のようにもなる。そういう日は私がお世話係になり、彼を介抱した。といっても、水を飲ませたり、服を着替えさせたり、べたべたくっついてくるのを容認することくらいしか、特別してあげられてはいない。
「あとでお風呂、入れてあげるね」
南雲さんが私を見下ろして口角を上げた。とんでもなく甘い、とろけてしまいそうな顔つき。私は本当に身体の輪郭を失くしたかもしれない。いまのほんの一秒程度の瞬間で、骨の髄まで溶かされてしまったからだ。そしたらこの夜の光になって、彼にまとわりつきたい。
「一緒に入るんですか?」
「そりゃね〜。じゃないと洗ってあげられないでしょ」
やったあ、とこぼしてはしゃぐ傍ら、自宅マンションが見えてきた。
南雲さんが来るならもっと片付けておけばよかったとか、着るものに迷ってベッドの上に散らかしてしまった服たちをしまっておけばよかったとか。いろいろ思うけれど、でも、もうそんなことはどうでもよくすらある。
かわいいルームウェアが洗いたてだ、そんなひとつの事実ですべてを覆してしまえるんだから恋はすごく、単純かもしれない。
マンションの下、エレベーターホールで立ち止まる。エレベーターに乗り込むと勝手知ったるというふうに呼出ボタンを押し、階数を選択する南雲さんの姿に笑ってしまった。端的に言えば、やっぱり嬉しかった。
上昇していくエレベーターのなかで、南雲さんがゆるくふり向く。まっすぐなまなざしで眺め下ろされると、胸の真ん中がきゅっと狭まるみたいだった。
「ナマエちゃん」
「はい?」
「僕も好きだよ。きみのことが」
ああ、と気がつく。私がさっきからこんなにどきどきしてるのは、アルコールのせいじゃないんだと。
南雲さんといると、夏の夜にひたってる心地にさせられる。いつだって。この人と居て見つける感情は、辺りを太陽で染められたあとのあたたかい世界につつまれているときにおぼえるものとよく似ていた。
ぬるくて優しい、彼のぬくもりが近づく。タトゥーの彫られた指が、私の下唇をつうとなぞった。
「……やば。我慢できないかも」
あとちょっとでナマエちゃんちなのに〜。彼はしおしおの表情をしてつぶやいた。あははと笑いながらも、私もおんなじだと感じていた。我慢ができない、早く、早くさわってほしい、と。
エレベーターが目的の階につく。手もとの覚束無い私の代わりに私のバッグから家の鍵を見つけ出す南雲さんは、「合鍵作っていー?」などと真剣に口にしていた。
玄関に入り、南雲さんと向かい合えば抱きしめられる。はあー、と、ようやくだとでも言うみたいな息をひとつついた彼は私の背をぽんぽんとあやすようにさすった。
「いいですよ」
「え?」
「合鍵」
明日作りに行きましょうか、そう言うと南雲さんは「うん。行く」と唇をカーブさせ、ふと笑みをこぼした。
その顔がかわいくて、綺麗で、私も彼を抱きしめ返した。楽しくて仕方がないのに、こうして抱き合うとたまらず泣き出したいような気持ちになる。
幸せだった。とってもいい夜だ。私は南雲さんのことが、今夜も変わらず大好きみたいだった。