20250727
ふと視界をひらけば、視界のなかにぼんやりとした寝室の景色が広がった。目の前には壁一面を覆うようなガラス窓がある。
空はまだほの暗く、遠くでヘリを導く航空障害灯の赤色が点滅しているのが見えた。
「……」
数回呼吸したあとで、後ろから抱きしめられていることにやっと意識がいく。
なにも着ていない肌同士が触れ合っているからか、背中には大袈裟なほどのぬくもりが滲んでいた。
静かに目線だけを動かせば、私の頭の下に枕代わりにさしこまれた片腕にも、おなかに巻きついてくる腕にも、いくつものタトゥーが当然あった。
闇にまぎれて届く自然光にうすく照らされた模様を見ながら、ああ、夢じゃないんだ、と今夜も思う。南雲くんの家に連れてこられ、とじこめられたのは、やっぱり夢じゃないのだと。
ふいに、インクの乗った肌、南雲くんの腕が動いた。瞬間的にこわばった体をさらにきつく抱き寄せられ、息を詰める。
おなかに乗っかっていた手が移動し、私の頭をやわやわと撫でた。髪を梳いて離れていったその腕は、今度は私の素肌をさわることなく、ただベッドの上に伸ばされる。話しかけてくる声は、なかった。
抑えた呼吸のまま寝返りを打つと、揺れる瞳で捉えた南雲くんは眠っていた。長い前髪が重力に従い、ななめって垂れている。
閉じられたまぶた、綺麗にそろったまつげ。近いところに形のいい唇があった。愛の言葉を多く囁き、行為の最中にはいじわるに笑い、私の全部を貪るようにする唇。視線を上げていけばつんと尖った鼻先が、なだらかなカーブを描くひたいが映る。
再び寝返りを打ち、南雲くんに背を向けた。そうしてしばらくジッとしたまま時を数える。
五分くらいが経過したところで、そうっと頭を持ち上げた。
腕枕はぴくりともしない。こく、と唾を飲み、身体に乗っている彼の腕を弱く掴んだ。眠りきって力の抜けたそれはやけに重たい、起こさないように気をつけながらだと簡単にどけることが叶わず、結局すべらせるみたいにして体の上から背中のほうへ、ずらして落とす。
それでも南雲くんに反応はない。こんなに深く寝入ってるのは初めて見ている気がして、今夜しかない、という思いがみるみるうちに膨れ上がった。──逃げるには、いましかない。
冷静さを欠かないよう注意しつつ、傍に放られていたバスローブを羽織り、ベッドを降りる。
ひた、ひた、と響く自分の足音を懸命に殺しながらドアまで進んだ。南雲くんが穴ぼこのようなまなざしでこちらを見ているような妄想に囚われて、ふり返ることもできないままただ前だけを見て歩く。広々とした寝室が恨めしい、何歩も、何歩も静寂を保ってひっそりと。
たしか、寝室から玄関までは近いはずだ。裸足でも、バスローブ一枚でいても構わない、外に出ることが先決。
掴むと、銀色のドアレバーもクーラーに冷やされていた。ひやりとするレバーをそ、っと握る。音をたてないようにしながら引き下げ、扉を押した。だけど。
ドアは開かない。
急に、心臓が、ばくばくと脈動を速めていく。ドアを次は引いてみるものの、廊下へ続く逃げ道がひらかれることはなかった。
鍵、とか。掛かってるんだろうか。不安に駆られて周囲をまさぐるけれどそれらしきものは見当たらない。なのになんで開かないのか、わからなかった。焦りがどんどん募る。
乱れる呼吸のまま、何度もレバーを上下させた。静まり返った部屋に、息が詰まりそうになりながら。
「っ」
数回目に、ドアレバーを戻したときだった。
銀色を握る手の甲に、後ろから、手のひらが重なった。タトゥーで賑やかな腕が視界のはじに映る。
どうして。どうして彼が背後に。だってなにも聞こえなかった。起きた気配もなかったのに。
努めて平静を保とうとしていた意識がガラガラと音をたてて崩れていく。足もとから力が抜ける感覚に見舞われ、眩暈さえおぼえた。
重なっていた手は私の肌を伝い、手の甲側から指と指を絡めるようにして繋がれた。いろんな記号で飾られた手は、穏やかなあたたかさをはらんでいた。
数時間前も同じ光景をベッドで目にしたな、と思考の片隅で現実逃避みたいに思う。
セックスの最中、南雲くんに後ろから覆われ、奥まで貫かれながら私たちは指同士を互い違いに絡めて手を繋いでいた。押さえつけられていた、というほうが、表現としてはふさわしいのかもしれないけれど。
ハと耳もとに淡い吐息が触れる。南雲くんの高い体温がおそろしく近い。
「ナマエちゃん……どこ行くの、そんな格好で」
静寂が充満する部屋。そこに落ちる声は甘くて、だけどとても低かった。ひとことずつがまとわりついてくるみたいで、肌がぞわりと粟立つ。
「ここは開かないよ」
「なん、で……」
「全部僕のスマホで鍵の管理してるから。いまは施錠中。……なあに? なにか問題でもある? ここはゲストルームだよ、トイレもお風呂場も行きたいならそこにあるの使いなよ。どこも綺麗だし」
「外、行きたい、」
「え〜? 無理だってば、何回も言ってるでしょ、外は危ないからここにいてほしいって。きみの欲しがるものならなんだって買ってくるし、……まあいいや。こっち、来て。ベッドで話そうか」
「い、嫌、」
「嫌? そっか、嫌か〜……」
ふり向けないままでうつむけば、後ろに立つ南雲くんの姿、腕同様に模様のある両足がわずかに見えた。
彼もバスローブを羽織ったらしい、白い裾がふわふわとこすれる。いつの間に服を着たんだろう、わからない、でももう、そんなことはたいした問題じゃない、
「ナマエちゃんはさ」
繋いだ手に力がこめられる。
「どこにも行かないって、言ったじゃん」
親指ですり、と手の輪郭をさすられれば、自分の指先が震えてしまうのを抑えきれなかった。南雲くんはそれでもさするのをやめない。まるで大丈夫だよと言うみたいに、なめらかに続ける。
「……僕の傍にずっといるって、ねえ、言ったよね? さっきも言った。覚えてない? ベッドのなかで。僕何回も確認しなかった? きみはどこにも行かないよね、って。そのたびナマエちゃんはうん、うん、行かない、行かないから、って言ってくれた。……あれ、もしかして嘘だったの?」
ねえ、ナマエ。と。南雲くんは囁いた。私の耳の穴のすぐ傍で。鼓膜にじかに吹き込まれる言葉は、濡れそぼったように重い。
唇が、耳に、押しつけられる。
「……僕、嘘嫌いなんだよね」
ひそひそ話をする声量だった。他の誰にも聞かせないというような。口調はひどく優しい。子供に言い聞かせるみたいでもあったし、深夜に私を捕え、甘やかすときのそれみたいでもあった。
なのに怖くてたまらない。
だって解る。
南雲くんはいま、怒っている。
「戻ろっか。まだ夜だよ、もう一回寝よ?」
「や、やだ……っ」
「おとなしくしてよ、暴れないで」
背後から抱き竦められ、強引にドアからはがされる。力づくで腕を引かれれば足は勝手に踵を返してしまう。もう足音を殺すこともなくベッドへ向かう。歩き方を忘れてしまったように、たどたどしい足取りで。
「あっ……」
どさりとベッドが弾んだ。
南雲くんとふたりで沈むのは、高いところから突き落とされ、どこまでも落下していくのに似ている。あんまりにも広いこのベッドに押し倒されるたび、ふたりでもつれ合ったまま飛び降りているみたいだとも感じた。
やがて私たちはなにかに叩きつけられ、死ぬのだろうか。絶望だとか、取りこぼしてきたものたちの陰影だとか、ふたりで居ても埋まらない空虚さとか、そういった、心の奥底を締めつけるなにかしらに、衝突して。
真上に大きな影が伸びた。南雲くんの、かたちの、黒い人影。
「ナマエちゃんも僕を置いてくの?」
「んっ、」
ガ、と首をわし掴みにされた、そう気がつくころには頸動脈が絞まっていた。
こちらに伸ばされた南雲くんの片腕に両手を当てるけど、手のひらは緩まない。
おもわず南雲くんの瞳を見詰める。そこに滲む色はなにもない、ありふれた感情も、思慮も。すべてを塗りつぶすような残酷めいた黒がただ在った。
「きみも行方をくらませたり……誰かと結婚したりして、僕のこと、置いてくの」
言われたとたん、学生時代の記憶が色あざやかによみがえる。ブルーの髪の毛をした、二の腕に星を持つ女の子と、寡黙でどこか抜けたところのある、でも殺しの技術はいつでも一等賞だった男の子と。JCCにいたころ、私はよく彼らと──南雲くんをふくめた三人と、昼食をともにした。
「……っ、っ、」
意識がかすんだ。酸素が、不足しはじめている。耳鳴りがして、ひどくうるさい。もがいてみても上に跨られていてはどうすることもできない、自然と景色が滲んだ。
「苦しい? ナマエちゃん」
「ん、っぅ……」
「苦しいよね、苦しくしてるんだもん」
「っ、……」
「……でも僕は、もっと苦しいよ」
癇癪玉が爆ぜるより、子供が駄々をこねるよりもずっと静かボリュームだった。泣きそうな声に聞こえたのは、私の聴覚がおかしくなってるせいだろうか。
南雲くんの指が肌に沈む。もう一方の手は首すじをツと這い上がり、首を圧迫させる手のひらにやがて重なった。
両手で絞められたまま、はくはくと無駄な口呼吸をしてるところにキスが降る。凍った心をぱきりと砕いてしまうような、優しいキスだった。
ぽろり、と、まなじりから涙がひと粒、こぼれる。南雲くんにそこを舐められたときにはもう朦朧としていた。
私はこのまま、ここで。この
男の手にかかり、死ぬのかもしれない。南雲くんを、死因にして。
再び、キス。
舌が入り込み、あちこちをくまなくなぞられ。歯列を辿られ、舌先を甘噛みされて。そうして、手が、離れた。
はあっ、と大きく息を吸う。全身を使って呼吸をしていると、そっと抱きしめられた。
「ナマエちゃん……いい子にしてて。これ以上、きみに酷いことさせないでよ」
覆いかぶさってきた南雲くんが、耳もとで物静かに言う。
首に感じた痛みを思い出し、めまぐるしい動悸に襲われながらも脱力すれば、何度目かの優しいキスが与えられる。息も絶え絶えななかでぬるりと舌を舐められると、数時間前に感じていた熱が瞬時に全身に巡り、腰がびく、と跳ねてしまう。
「ん、ごめ……なさ、」
「なに?」
「……め、なさい」
「謝らないでよ、」
今夜はこのまま酷くされる、という予感が心を占めていた。全身に紅い跡を残されて、いつまでも続く行為に落とされて。呼吸の管理までをされて、私はまた、終わりのない快楽でいっぱいになり、みすぼらしく、浅ましく南雲くんをねだるのだろう。
「好きだよ」
踏み散らかされた花を見つけたときみたいにためらいがちな声色で、南雲くんが言葉を吐く。
「……きみだけが、本当に」
筋肉質な身体が上に倒れ込んでくる。持ちうる限りの全部を投げ出すみたいに、あるいは、私にすべてを預けてくるみたいに。伏せられたままの南雲くんの表情は、いま、確かめる術がない。
「ん……」
現実味のない寝室、甘く
饐えた部屋のなかでキスを重ねた。角度を変えたり、深度を変えたりして何回もくちづけ合う。
私はどうしたらいいんだろう。どうしたら、南雲くんと向き合えるんだろう。
握りしめてぐちゃぐちゃになったあの春をやり直したい。傲慢な思いだとわかっていても、学生時代のころに囚われる南雲くんをすくい上げてあげたい。癒してあげたい。鮮烈な青い春を握りしめた手のひらにはたくさんの傷がついてるはずだから。愛と依存の線引きさえ、私にはうまくわからないままだけれど。
私を覆い、囲ってくる南雲くんに腕を伸ばした。抱きしめてみれば、私とおんなじ人肌のぬくもりがした。
とつぜん抱きしめられて驚いたのか、ふは、と南雲くんは空気だけで笑い、無性に安堵してしまったというような声音で、私の名前を囁いた。