V




「悪い。着信が入った」

 少し外す、と、音もなく席を立ったリヴァイ課長はスマートフォンだけを持ち、バーラウンジを出ていった。ふたり横並びに座れるようにと配置された一人掛けのソファに、わずかなへこみが残っている。
 ダークブラウンを基調とした静かな雰囲気の店内には、心地好いボリュームでジャズが流れていた。それから、水槽がいくつもある。会話の隙間さえも埋め尽くしてくれそうな、大きい水槽が。

 遊泳する魚たちを目で追った。ゆらりと水が揺れ、落ちる陰影が形を変える。私の手もとや、テーブルの上、置いてあるカクテルグラスにも柔い青が差していた。
 気分がふわふわと浮いている。課長と初めてふたりきりで飲んでいるからでもあるし、今日、初めて大口契約を獲得したからでもあった。

 数時間前。帰社した私を迎えた営業第二課はお祭り騒ぎとなり、その勢いのまま、業後同僚と飲みに出た。これで行ってこい、とお金だけを出そうとした課長も半ば引きずられるようにして。俺がいないほうがいいだろうと言っていたけれど、自分がどれだけ部下に慕われているかを、彼は知らないらしい。
 ひとしきり飲んでお開きになったあとは、帰り道が同じ方向だという理由でリヴァイ課長のタクシーに同乗した。あんまり酔っていないとか、飲み足りないだとか。車内では、そういう嘘をつらねた。そのときタクシーはオルブド通りを走っていて、課長は行き先の変更をドライバーに告げた。

 シーナのほうへ抜けるルートを、もうほとんど憶えていない。自らどこかへ行きたいとねだったくせに、いざ進行方向が変わればひどく緊張した。記憶にあるのは外で明滅するネオンや、信号の色、それに照らされる自分の手の甲のあたりばっかり。

 私は入社当初、上司であるリヴァイ・アッカーマンのことを苦手だと感じていた。彼は口調がおそろしく冷たいうえに、鬼なんて言葉が可愛く感じられるくらい厳しい。でも「この人が後ろについていてくれるなら」と安心し、強気に進んでいけることもしばしばあった。
 いつからだろう。私はいつからリヴァイ課長に憧れ、尊敬の念を抱くようになったんだろう。そして、いつから、好きだと──。

「──やっぱり、取引先で助けてもらったときかも」
「助けてもらった?」
「いえ。独り言です」

 戻ってきた課長を振り仰ぎ、首を振った。課長は眉を微妙に上げると、席に着いた。すぐに逸れていくブルーグレイの瞳。彼は私の独り言に、それ以上言及してこない。私が恋に落ちるきっかけとなった日の、記憶についてを。

「電話、大丈夫ですか」
「問題ない」
「よかった」

 まだ、一緒にいられる。よかったというのは、気遣いからではなく、自身の欲から生まれた言葉だ。
 グラスに口をつける。ふたりきりという緊張感は、カクテルが舌の上をとろとろとすべり落ちるたび、内からほどけて消えていく。
 隣を。リヴァイ課長の横顔を、見るともなく盗み見た。ゆったりと腰掛け、肌を薄い水の色に染めている彼はまるで水中にいるようで、ぼうっと見惚れてしまう。シンプルで上品な腕時計の巻きついた手首や、骨ばった甲。ごつごつした関節と、磨かれた[[rb:爪先>つめさき]]。
 ぼんやり眺めていると、中指が動き、つう、とゆるやかにロックグラスをなぞり上げた。そうしてグラスに浮かぶまるい氷を、人差し指で一度転がす。酷薄なほど澄んだ音が、からんと鳴った。

「……足りねえ」

 流れるみたいに、課長の視線がこっちへ向く。その目は、なにもかもを見透かすように鋭い。

「え?」
「とでも言いたげなツラに見える」
「そんな、みっともない顔でしたか」

 リヴァイ課長はまぶたを伏せ、は、と短く笑った。表情は、とても笑顔とは表し難いけれど。

「みっともなくはねえが。まあ、気をつけろ」
「はい」

 姿勢を正す。もっとしっかりしなくては。本当は、お酒だってそこまで得意ではないから。だけどどうにか平気なふりをしてうなずいた。課長の目が、少し、細まった気がした。

「好きなもんを頼め。あと一杯くらいなら、付き合ってやる」

 と、メニュー表を差し出してくる。酔っている、という真実は気取られていないようで安心し、気が大きくなった私は黒革のメニューを受け取った。再び逸れていく視線。リヴァイ課長の目つきはなにかに似ている。だれかでもなくて、むしろ、生き物でもなくて。もっと抽象的な、なにか。

「じゃあ、課長と同じものにします」
「コイツは、お前には早い」
「度数が高いのはわかっています。でも……最後の、一杯だけは」

 酔いがまわっている反面、まだまだ足りないとも事実感じている。トレイを運ぶスタッフに目配せし、遅いカクテル・アワーを楽しむように、嘘を上から塗るみたいにオーダーを重ねようとすれば、手をかざされる。

「……だめだ」

 さっきと同じヤツにしろ。課長は言って、合図に気づいてやってきた男性へ、私の代わりに注文した。

「コレは、お前がもう少し酒を覚えてからな」

 リヴァイ課長の手のなかで、低いロックグラスがかたむく。

「課長が教えてくれるんですか?」

 返事はなかった。だけど、すう、とすべるようにこちらへ向けられた目線や、わずかに上がった片方の口角といった仕草が、すべての答えみたいだった。

 まだ、帰りたくない。
 本音が口をついて出そうになる。
 このまま、彼の近くにいたい。どうしようもなく。
 手を伸ばせば触れられる距離、伸ばさなければ絶対に届かない距離にいるリヴァイ課長になにもかもを奪われたまま、私は祈りのような一途さをもってして、そう思っていた。






ALICE+