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九月に入ったばかりの毎日は、でもまだ秋と呼ぶには暑く、アスファルトの上では熱気が蜃気楼のように揺れていた。
ヒールのある靴で、ということをなしにすれば外回りは苦痛ではない。もともと散歩が好きなんですと話すと、リヴァイ課長は納得したらしかった。彼も歩くのは嫌いじゃないという。ただし、知らない道を歩くのが好きだと言った。私とは違うと思った。
私は、知っている道じゃなければ不安になってしまう。戻り方がわからなくなったら? 振り返ったときの、見知らぬ風景。その瞬間私は幼い子供になり、親とはぐれて迷子になった気分になる。あの感覚が、嫌いというより、怖かった。
だからこうして、課長だったりほかのだれかであったりに同行して外回りに出る日は、すごく安心できる。そのことも話せばリヴァイ課長は今度、めずらしく困ったような顔をした。営業部の部下がひとりで歩くのは怖いと言うのだから、当然かもしれない。
「なにか食ってくか」
トロストを駅に向かって進んでいると、課長が前を向いたまま提案した。時刻は午後一時過ぎ。もちろんうなずく。
リヴァイ課長はスマートフォンを取り出すこともなく、すたすたと大通りを、細道を行った。私はこの辺りに詳しくないけれど、課長は詳しいのだろう。少しも迷わないで一軒の蕎麦屋へ到着した。
瓦屋根の、古めかしい家屋みたいな外観。引き戸をすべらせる彼に続くと、お店のなかは神社の敷地内のような、雨上がりの森林のような、ひんやりとした気配に充ちていた。膝くらいまでの高さがあるお座敷席には四人がけのテーブルが一台。あとは六人ほどが横並びで座れるカウンターがあるだけの、こぢんまりとした店内だった。お客は私たちと、ほかにもうひと組だけ。
カウンター席に腰掛け、メニューを見る。せいろ、ざる、おろしそば、天せいろ、鴨せいろ。
横で課長が、「いつもの……」と言いかけて止めた。このお店は行きつけなのかも。そう考えたとたん、口角が緩んでしまいそうになった。さっきまで、ふたりでの昼食にどこか緊張していたというのに。
「遅ぇ。まだ決まらねえのか」
「どれも美味しそうで」
メニュー表に写真はないけれど、誤魔化すように目を落として答える。匂い立つような文字が、空腹を誘惑してくる。
「どれで迷ってる」
「これと、これです」
縦に書かれた筆字を指せば、課長は間髪おかずにおろしそばと天せいろを注文した。私が指したふた品で、びっくりして隣を見ると、彼はなぜ見られているのかわからないというふうに眉をひそめる。
「課長は食べないんですか?」
「あ?」
「だって、ふたつとも私が」
「バカ野郎、ひとつは俺のだ」
「あ……え? どっちですか?」
課長が沈黙する。なにかを考えるみたく視線を左下にさまよわせたあと、天せいろ、と答えた。なかなかに強引な部分がある。と、思ったものの、注文した蕎麦が届くと課長は海老の天ぷらを丸々一本、そして飾り切りされたナスを取り皿に乗せた。私のほうへ、渡してくる。そうするのがあたりまえというように、ごく自然に。
蕎麦屋ののれんをくぐり出た。外はまだ夏のお昼の空気で、陽射しが強い。リヴァイ課長がわずかにネクタイを緩めている。横並びで駅へ向かう。
空腹が満たされたぶん、力を取り戻した心地がした。食事とセックスは似ている。これは課長と関係をもってから、気づいたこと。
彼と初めて寝てから数ヶ月が経った。恋人と呼ぶには遠い位置、かといって友人とも定義できないような位置で、私はいまも課長を想っている。
好きです、付き合ってください。関係性を変えるには、そう言えばいいんだろうか。ベッドのなかでの行為はスタートであるはずだと考えていたけれど、本当はゴールだったのかもしれない。これ以上、リヴァイ課長に近づくことは難しいと感じる。隣を歩いていても、抱かれていても。距離はまったく同じに感じる。大人になったせいで、新たな関係の正しい築き方を、私は忘れてしまった。
細路地を曲がれば、白タイルの敷きつめられた、広い遊歩道に出た。道の両端には樹木が立ち並び、頭上まで枝を伸ばす。緑の天井が木陰を作ってくれて涼しい。トロストは都心なのに、ここはとても閑静な道だった。さわさわと葉が擦れる音と、車の走行音がときおりかすかに聞こえるだけの。
「ここって、近道なんですか?」
「いや。むしろ遠回りだ。駅まではな」
じゃあどうして、という思いで課長に顔を向けると、視線を気取ったのだろう、彼も私を見る。
「こっちのが涼しいだろうが」
はいと首を縦に振りながらも、つい笑ってしまったのだけど。
「今日はあちぃからな……お前に調子を崩されちゃ困っちまう」
リヴァイ課長が前に向き直った。表情などはなかった。いまこのとき、この瞬間、この場所みたいに涼しげだった。はいと再び答える。答えたあとで、はいという自分の返事はちょっと、おかしかったような気持ちがした。通り過ぎていく横顔を見ていたせいで、歩みが遅くなってしまい、背中についていく形になる。
課長は彼女を、作る気はないんだろうか。ないのだとしたら、特定の人との繋がりを深めない理由が、わけがある? それとももう、心に決めた人がいる? 聞いてみたい。一か八かで。いきなりで驚かせても。仕事中だぞと叱られても。聞いてみたかった。
「課長、」
「あれ。リヴァイさんだ」
私の呼びかけと重なる、別の声。前から駆け寄ってくる女の人は嬉しそうに笑った。淡い色のスクラブの上に、サマーカーディガンを羽織っている。片手に財布を持って。横を向けば、課長も目もとを和らげていた。
「ひさしぶりだな」
「本当ですよお。リヴァイさん、忙しいからって全然連絡くれないんだもん。最後に会ったの、定期検診のときじゃないです? 虫歯のひとつくらい作ってくれたらいいのに。私が治してあげる」
「はっ。お前が治すわけじゃねえだろ」
「そうですけど」
肩をすくめる彼女と、めったに笑わない彼が聞かせた笑い声の狭間で、私は急に迷子の気持ちになった。知らない表情の課長を眺めながら、なぜか蕎麦屋での出来事を思い出す。
「こんにちはあ」
「こんにちは……」
彼女と挨拶を交わした。名刺交換はさすがにしなかったものの、近くの歯科クリニックに勤めているという話を聞く。微笑みかけられるとドキドキしてしまうくらい、可愛い人。
「リヴァイさん、じゃあね」
「また連絡する」
「約束ですよ」
強い風が吹き抜けた。ああ、と返事をして、課長は彼女の乱れた髪を直した。指をうずめて、撫でるみたいに優しく、やっぱりそうするのがあたりまえというように、自然に。
ふいに泣きたくなった。自分はいま傷ついたのだと、数秒かけて理解する。
「行くぞ」
再び歩きだす課長を後ろから追う。足がもつれる気がするのに、私は案外、ちゃんと歩けていた。
一歩、また一歩。進むたび、気をつけなければ好きだという想いが声になってこぼれそうだった。気をつけなくちゃ。思い上がってはいけない。私は、リヴァイ課長の「特別」ではないんだから。変な質問をしなくてよかった。うぬぼれていたら、さらに深い傷を負うところだった。
さっきの彼女とも寝たのだろうか、と思う。ここで泣くな、と思う。私はいま、知らない道を歩いている。戻り方はもう、とっくに憶えていない。