08

 疲労に凝り固まった身体をほぐすと節々が悲鳴を上げた。睡眠をとっていないせいで視界も霞む。居心地は良いものの、この広々とした屋敷に詰め込まれている間はどうしても本業をこなすのにいつも以上努力が必要だ。与えられた部屋に仕掛けられた盗聴器は怪しまれないためにはそのままにしておく必要がある。この屋敷の主で自分に軟禁紛い待遇を強いている彼女は夜中までパソコンをいじっていると「就寝時間」だの「早く寝なさい」だのと顎が外れそうなセリフで牽制してきた。お前が寝ろよ、とは口にできないが柔らかい生地のネグリジェ姿の彼女を見ると力が抜けていくのもまた事実。そうはいってもやらねばならない事は多く、無駄にしてやる時間はない。そうして気を使いながらタブレットや携帯端末を使って夜を過ごし、日中はアリスの付き人。なかなかの拘束系である彼女に強く云えない自分もどうかしているが。それでもジンやベルモットと過ごす時間の数十倍は良い。
今日は珍しく別で任務ということで一日彼女の顔は見ていない。ジンの苛立った声を無線で聞きつつ逃走経路の確認。犯罪の手助け。自分の行為に反吐がでるが、潜入している間は、仕方がない。苛立ちが掘り返されて頭痛を感じる。そうして不意に、あの廃墟に似合わない花束とアリスが浮かんだ。自分に言い聞かせるようなセリフ。傷ついた顔を浮かべた一瞬。――犯罪者の分際で。心のどこかでそんな強い言葉が吐き出されたが、己だって。…駄目だな、今日は寝よう。鬱蒼とした気分を捨て去るように大きく息を吐きだしてから、消灯され細々とした灯りを頼りに広々としたエントランスを足早に抜け部屋へ。


「――!」
「――」


どこからか聞こえてくる微かな声に足を止めた。集中してみれば、ピムスと彼女にずっとついている運転手、クライヴの声のようだ。電気の消えた深夜の屋敷。絨毯は音を吸い取って消してくれる。気配を消してその声のほうへ近づいていくと、ある一室に辿り着いた。扉に耳を近づけてその向こうを探れば、気配は二つだけ。


「I can't stand it anymore.(もう限界です)」
「…Well I know it.But,(…わかっているわ。それでも)」
「Master!(お嬢様!)」
「I would rather die than surrender.(それなら、死を選ぶわ)」


何やら物騒な単語に耳を疑う。何が起こっているのか検討もつかずじれったい。何かミスでも犯したのだろうか?相手は組織か?そもそも、男は彼女を必死に説得しようとしていることが窺える。二人は浅くはない関係なのだろうか。様々な疑問が浮かぶが予想をつけるにしても情報が足りなすぎる。(――っ!)気配がこちらへと近付いてくることに気が付いた。音を出さないよう気配を殺し、身を隠す。壁の向こうを覗けば自らの手で扉を明けピムスが部屋からでてきた。クライヴの姿は見えないが、彼女に懸命に声をかけている。


「Shut your yap for a while.(少し黙って)」


廊下にでた彼女は何かに気が付いたように足をとめ辺りを見回した。立ち聞きがバレたのだろうか。クライヴは自分があしらわれたと思っているようで、細い声で名前を呼んだ。痕跡を辿る事ができなかったのか、諦めたピムスが彼へと向き直る。


「Clive, with security.(クライヴ、安心して)」


そう云われても、彼が安心した表情を返すことはなかった。部屋に戻るのであろう、足早に去っていく彼女を心底心配そうな視線で見つめている。しかしクライヴの気持ちをわからなくはなかった。一瞬だけ見えたピムスの表情には平時と変わらないと演じていても、とても落ち着いた様子はなく、狩りで追い詰められている獲物の怯えが滲む。――何かが起ころうとしている。確信するには充分すぎた。







さて、どうしたものか。組織に関する任務であれば自分のところにも回ってくるだろう。少々探りを入れさせてもらったが収穫はない。屋敷の黒服たちも平時と変わらず。会社のことかと風見に探らせたがこれも彼女が取り乱すような、ましては死を覚悟するようなことは出てこない。(可笑しな金銭の流れやらの黒い噂はでてきたが、どれも予想の範囲内。その点はカバーに余念がないのだろう。突いたところで痛くも痒くもない。) クライヴのあの動転様だ、組織関連に違いない。それも、まだ上にはバレていないとみえる。――思いがけないチャンスだ。内容にもよるが、エンフォード家を抱える幹部の一人であるピムスの密告に成功すれば、少なからず組織の深淵に近付ける。彼女たちには悪いが、遠慮などの配慮はある筈がない。アプローチの仕方を変えるか。
今から貶めようとする彼女の待つセンチュリーロイヤルに足を向ける。ドアを開けようとして、スモークの向こう側に人影があるのが見えた。運転席にいつもの姿はない。出来得る限り静かにドアを開けると身を滑り込ませる。中には黒いワンピースに身を包む彼女が瞳を閉じていた。小さな寝息が耳に入る。あの夜以来、忙しく駆け回っているのを知っていた。少女の身では大人以上に疲労が取れないのだろう。大切な成長期に――そうしてはたと思考を停止させる。右手で額を覆い大きく溜息をついた。毒されている。何が成長期だ。国際犯罪組織の幹部に、馬鹿らしい。思考を切り替えて彼女を見ると溜息に目覚めたのか、雰囲気が変わっていた。


「――Did you need me?(話でもあるの?)」
「…いいえ。今日も素敵ですよ」
「わたしが馬鹿だったわ…」


視線に耐え切れず片目を覗かせた彼女はいつものように軽口を返した。色素の抜けた睫毛は二度程瞬いたあと再び閉じられた。眉間に寄った皺が何やら可愛らしく感じ、無意識に人差し指が伸びた。弾力がある白い肌に触れたと同時、彼女は大袈裟とも云える勢いでチェアから起き上がる。無意識だったのだ、今の自分の表情を鏡で確認したい。一方ピムスは更に深い溝を刻み声を荒げた。確かに、寝顔は天使だった。


180518


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