07

哀ちゃんの一言を忘れるためだけに、その日の夜私はアルコールの力を頼った。
友人を誘って居酒屋に行ったところで話せる事が限られているので、近所のコンビニで酒とつまみを購入して引きこもることに決める。

ポアロを出てすぐに決めた通りに買い物し、帰宅した私は平日ならばまだ学校にいてもおかしくない時間から缶チューハイのプルタブに指をかけていた。
そういえば降谷はめっぽう酒が強くて、成人したばかりの頃は頻繁に飲みに行ったというのに一度だって降谷の酒に溺れる姿をみたことはない。
…降谷のことを思い出すと、必然的に今日の哀ちゃんの言葉を思い出して、また一口酒を煽った。けれど私は分かっている。本当に忘れたいのは哀ちゃんの言葉じゃない。哀ちゃんの言葉で思い知らされた、閉じ込めていたはずなのにじわじわと侵食してくるこの感情の事だ。



普段そんなに飲む方では無いけれど、強さで言えば人並みといったところである。缶チューハイだけで酔えるはずもなく、一緒に買ったウイスキーに手を出したところでいよいよ私は酒を楽しみだした。


もうなんのために飲み始めたのかも忘れて、いつもなら見向きもしないようなバラエティ番組にだって声を出して笑うようになった頃、テーブルの上に投げ置かれていたスマホが着信を知らせる。

「はいはい」

大きな独り言と一緒にずいと腕を伸ばしてスマホを手に取り、表示もろくに確認せずにスワイプで電話に出た。もう片手でテレビのボリュームを下げる。

「はいもしもし」
「急に悪い。いま大丈夫か?」
「……降谷?わあ」

酔っ払いの耳にもよく通るその声は間違いなく降谷である。ぼんやりした思考のその奥で、小さな痛みが走った。けれど私はそれには知らないふりをして、降谷からの電話を喜ぶだけである。
降谷がかけてくるこの番号の携帯は常用している携帯のものではないようで、かけられるタイミングでかける、というのは前回電話したときに聞いていた。けれどまさか、それが今だとは。

「もしかして、飲んでる?」
「まあ、たまには」
「……一人で?」
「そう、そしたら降谷から電話がきた」
「タイミングがいいのか悪いのか…」

電話の向こうで降谷が呆れているのを感じつつも、笑いが溢れるのを抑えることができない。

「よかったよ、タイミング」
「そうか?」
「ちょうど降谷のこと考えてたから」
「…そうか」
「今照れた?かわいいとこあるね降谷くん」
「お前、意外におっさんみたいな酔い方するな…」

降谷のことを考えていたのは飲みはじめた頃だけだったようにもおもうけれど、細かいことはこの際置いて置こう。私はいま、おっさんと言われても気分を害さない程度には気分が良い。

「降谷はほんとにおっさんになっちゃったけどね」
「まあお前と同じで、三十路手前にもなると」
「その嫌味!そういうところが歳とったよ」
「手厳しいなあ」
「昔の降谷は、嫌味言うより先に手が出てた」

そうだったか?としらばっくれた降谷をけらけら笑って、グラスに残っていたウイスキーを飲みきる。

「春だって」
「なに?」
「昔は化粧なんてほとんどしなかった」
「そりゃあ、学生だったもん」
「ポアロで会った時、結構びっくりした」
「そんな顔してたかなあ?」

びっくりしていたのは私の方だけだったように記憶している。化粧しているくらいでびっくりされるなんて、それだけの年月私と降谷の間には空白があったという事だ。なんて、今更だけど。
残るウイスキーをグラスに注げば、ボトルはついに空になってしまった。ひとりだから誰かのペースに乗せられて、なんてことはないし悪酔いこそしていないけれど、どくどくと早くなった心臓の音が大きく聞こえる。

「それをいうなら、降谷はイケメンに磨きがかかったね」
「そりゃどうも」
「信じてない?」
「…お前、結構飲んだろ。酔っ払いの言う事なんてほとんどその場のノリだからな」
「お酒の力を借りないと言えないこともあるんだよ」

まったく…とため息を吐く降谷には、どうやら私の言葉は本気と捉えられなかったらしい。

「…本当なのになあ」

聞かれないようにスマホを離して呟いた。左手で引き寄せたグラスに口を付ける。それからもうほとんどその役割を果たしていないテレビのスイッチを切った。

「んーおいしい!」
「……春、そんなに強くなかったろ、ほどほどにしとけよ」

はあい、そう返事をして腰掛けていたソファに身体を沈めると、もう指一本動かすのだって億劫になってしまった。まだグラスに半分ほど残っているウイスキーをぼんやり見つめる。

「ふるやは、」

ああ、だめだ。買うときに座り心地のよさで選んだだけあって、このソファは気持ち良すぎる。急激に襲ってきた眠気に抗うこともしないで、私は私の口が勝手に話すのを黙って聞いていた。

「なんだ?」
「…大人になったね」
「さっきのおっさんの話?」
「じゃなくてね。私昔のまま、」

ついには重たい瞼も閉じて、ふわふわした頭の中、降谷の声だけが私の意識を保たせていた。

「ふふ、」
「おーい、大丈夫か?」
「おかしいよね、私」
「…おかしくはないけど、飲み過ぎ。」
「そうかな」

そうだよ。降谷が言う。

「次はもう少し早い時間にかけるよ」
「まってるね」
「そしたらどこか、飯でもいこう」
「…私と、ふるやが」

安室くんじゃなくて?そう思ったものの、その一言は結局言葉にならなかった。

「そう。お前のせいで久しぶりに飲みたくなった。付き合えよ」
「ふふ、うん。じゃあ約束。やったあ」
「うん、約束。だから今日はもうおやすみ」

ゆったりとした降谷の低い声につられるように、私の意識は深いところへ沈んでいく。おやすみ、そう言ったつもりだったけど伝わったのかは定かではない。ふかふかのソファに耳触りの良い声、ほどよく回ったアルコール。これほど条件が揃っていれば、眠りに落ちるまでは一瞬だった。
だからまいったな、なんて呟いた降谷の声が現実のものだったのか、私には分からないままである。





私、昔のまま、降谷が手を伸ばせば届く範囲にいると思ってた。だけど、降谷は私よりも随分急ぎ足で大人になっていたようで、いとも容易く私の気持ちを逸らしてみせる。

その日見た夢には、学生時代の降谷が出てきた。