08

あの酔っ払ってしまった夜以降、安室くんと顔を合わせるのが気まずくなった。ひとりで晩酌したあげくああも酔っているのを知られて少し気恥ずかしかったからである。もっとも、安室くんの時にあの夜の出来事を突っ込んでくる事はないだろうけれど。
けれどその気まずさを見透かしたように、意を決してポアロへ顔を出したところで安室くんの姿をみることはなかった。そんなことが三、四回続いたので珍しいなと密かに首を傾げていると、ポアロ自体を暫く休んでいるのだと梓さんが教えてくれた。


時間が経つにつれ勝手に感じていた気まずさもなくなり、そろそろ安室くんの安否が心配になった頃だった。

「いらっしゃい。久しぶりだね」
「…ほっぺどうしたの?」
「あはは、ちょっと擦りむいてしまってね…」

穏やかな日曜日の昼下がり、ポアロのドアベルを鳴らせば、そこにいるのは大体ふた月ぶりの安室くん。左の頬には大きなガーゼが貼り付けられていた。

「…気をつけてね」
「そうするよ。ありがとう」

そんなところをちょっと、で擦りむくほど鈍臭い男ではないはずだが、彼を今追求したって欲しい答えが返ってくるとは思えない。結局私はまた、言いたいことを飲み飲んで笑った。




もうお決まりになったカウンターの端の席で、これまたお決まりのアイスコーヒーを飲みながら接客に勤しむ安室くんをぼんやりと眺める。珍しく腕まくりのされていないシャツの隙間から、不意にちらちらと包帯が覗くのが見えた。手首に包帯を巻くような怪我までちょっとだと言って済ましてしまうのだろうか。降谷のいる部署はもしかしたら、怪我のつきまとう仕事ばかりなのかもしれない。ポアロで働くときはこんなに穏やかな男を演じて、別の場所ではその身体に傷を作って働いているということならば、この間彼が漏らした三日ぶりに寝れる、という言葉は彼にしたらさして珍しいことではないのだろうな。

「春お姉さん」
「っわ」

すっかり考え込んでいると、幼く高い声が私呼んだ。はっとして振り向けば、これまた久しぶりに姿を見るコナン君であった。

「隣、座っていい?」
「どうぞ。」

オレンジジュースを片手にこてんと首をかしげるその様はどこからどうみたって普通の小学生の男の子だ。たまにみせる鋭い視線が、そうではないのだと思い知らせてくるのだけれど。

「お姉さん、あの…安室さんのことなんだけど、」
「…どうしたの?」

コナン君はよいしょ、と椅子をひと押しして私に近づけて、やけに密着して隣に腰かけた。その様子を不思議に思っていると、彼は声を潜めてこちらに話しかけてくる。私もコナン君に倣って彼の方に耳を傾けて小さな声で返事を思いもよらない言葉が飛び込んでくる。

「…安室さんじゃなくて、降谷さんだったんだね」
「………それは…」

思わず目が泳いだ。それを私に言うのは、安室透の正体は降谷零だということを、私が知っているのだとどこかで確信を持ったからであろう。取り繕うのなら、すぐに返事をしなければ意味がない。言い淀んだ時点でやけに鋭いこの子にはそれが真実であると伝えてしまったようなものだろう。近い距離にいるコナン君がにやりと不敵に笑ったのが何よりの証拠である。

「……私の口からは、なにも言えないよ…」
「うん、もういいんだ。」

それは、私が口を噤んだところでもう分かってるから大丈夫、という意味だよね。二十以上も歳の離れた男の子にしてやられたのが恥ずかしいやら情けないやらで、私の頬はじんわりと熱を持ち始める。コナン君はけらけらと笑っていた。






「楽しそうだね」
「っ…!」
「うげっ」

赤くなった頬をぱたぱた仰いでいると、気づけばカウンターの向こうでお盆を抱えた安室くんがにこにこ笑っていた。ぴたりと仰ぐのをやめた私と、あからさまに不味い表情のコナン君。あまりにも不自然だ。気まずさから大分氷で薄まったアイスコーヒーに口をつける。

「何の話をしていたんだい?僕も混ぜてほしいな」
「何の、って…」

コナン君にさえ見破られるほど分かりやすい私が安室くん相手に誤魔化しなど出来るはずもなく、言い淀む私を安室くんはガーゼの張り付いた笑顔のまま威圧する。なんだか今日はしてやられてばっかりだ。

「ゼロの兄ちゃんの話だよ」

横からコナンが諦めたように安室くんに声を掛ける。ゼロの兄ちゃん、というのは降谷の名前からくる呼び名なのだろうか。なんにせよ安室くんには話が通じたようで、彼はひとつだけため息をついた。

「なるほど……その話は、また今度にしようか」
「…コナン君とだよね?」
「春ともだよ。」

確認するように恐る恐る問えば、返ってきた答えは無慈悲なものであった。コナン君なんて隣で乾いた笑みを零している。

「コナン君も。あんまり春をいじめちゃだめだよ」
「いじめられてないよ…」
「あはは…ボク、トイレ!」

もしかしたらこの前コナン君に安室くんについて聞かれた時の事を言っているのかもしれないけれど、いじめちゃだめ、だなんて表現されるほどお茶目なやりとりでは無かったと記憶している。それに何度もいうけれど、コナン君は小学生、私は三十路を目前に控えたいい大人なんだけど…?
その意思をこめて小さく呟いてみても、コナン君からフォローが入ることはなかった。逃げるようにお手洗いへ向かったコナン君の背中を見送る。
それにしてもだ。コナン君が安室くんを探っていたことから勝手にあまり仲良くないのかと思っていたけれど、思ったよりは良好な関係を築いているようだ。そもそもコナン君が降谷、という単語を知っているという事は、その探求も既に終わった話であるということだろうし。

「コナン君、本当に探偵みたいだよね」
「おや、僕も一応探偵なんだけどな。」
「あはは、そうだった。安室くんが探偵って想像つかないなあ」

きっとその持ち前の頭脳で探偵業も上手くこなしているのだろうが。

「そういえば、春」
「んん?」

残り僅かになったアイスコーヒーを空にしてしまおうとごくごく飲んでいると、思い出したように安室くんは私の顔を見た。

「あの日。もう随分前になるけど…二日酔いにはならなかった?」
「っ!ごほ、っ」
「大丈夫かい?ああ、コーヒーおかわり出すよ」

油断していた。まさかふた月も前の事を、それも安室くんの口から話題にされるとは思ってもみないわたしは思わず口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。それを慌てて飲み込もうとすれば今度は咳き込んだ。安室くんはそんな私の様子に眉を下げて心配そうにしているけれど、その腹の中では私を面白がって笑っているに違いない。現に少し、広角があがっている。
私が睨みつけるのを躱すようにしてくるりとカウンターの奥に引っ込んだ安室くんは、すぐにアイスコーヒーをお盆に乗せて戻ってきた。

「…もう時効じゃない?」

ありがとう、と受け取ったアイスコーヒーで喉を潤す。

「あれから初めて会ったっていうのにそれはあんまりだね。覚えてるの?」
「…残念ながら、綺麗に覚えてます」

あの日は記憶を飛ばすほどではないにしろ、ばっちり二日酔いに苦しむくらいには飲んでいた。へえ、と興味深げに安室くんの目が大きくなった。私の方はと言えば、当初必至に考えていた取り繕うための言葉だってもう忘れてしまった後なので、白状するしかない。大きなため息をつけば、安室くんはカウンターに腕を付き、私と目線を合わせてきた。

「あんなに大胆な台詞言ってたのも、覚えてるんだ?」

何事かと安室くんに視線をやってはっとする。にやりと歪められた表情も、射抜くような視線も。それは安室くんというよりも、降谷のものだ。

「っかまかけてもだめ!」
「はは…ばれたか」

私が空気に飲み込まれないように声を張った頃には、もうすでに彼の表情は安室くんのそれに戻っていた。
さっきとは違った意味でまたもや顔に熱が集まりつつあるのを感じる。
なんだか今日の降谷は少しおかしい。安室くんと降谷の境目が曖昧になっているようだ。

「……安室さん、春お姉さんのこといじめたの?」

お手洗いから戻ってきたコナン君が、顔の真っ赤な私を一目見てからじとっとした視線を安室くんに向ける。ボクにはああ言ったくせに〜、と高い声を上げながら私の隣の席に腰を下ろした。

「まさか。ね、春」
「…私で遊んでたの間違いだよ、コナン君」

やけに清々してみえるその笑顔にしてやられるようなことをした覚えがないのだけれど。せめてもの皮肉を口にすれば、安室くんは更に楽しそうに笑った。