09

その日の天気予報は、曇りところにより強い雨。夜からの降水確率は七十パーセント。しっかり確認した。

「…で、その予報を知りながら雨の中歩いていた訳は?」
「……明日休みだし、帰るだけだったから…」
「タクシー拾うなりなんなりあったろ…?」

金曜日の午後八時、的中した予報の通りの雨は最寄りから家までの十五分とない僅かな時間の間に大粒の雨は突然降り始め、一瞬で私を惨めな濡れ鼠へと変身させた。皆が一斉に傘や鞄で身を覆うなか、私はすでにこれ以上ないほど濡れてしまっていて、家まであと僅かだというのに急ぐ気にもならずのんびりと帰路へついていた。
そこに、降谷の車が通りがかったというわけである。クラクションを鳴らされた時にはまさか自分に向けての音だと思っていなかったので通り過ぎようとしてしまったけれど。


どうやら降谷は、歩いていける距離であるのに家まで送ってくれるらしい。ずぶ濡れの私は、車の中で吐き出される説教に心の内でため息を吐いていた。遠慮する私を脅すように彼が車に引き込んできたので、助手席のシートもびっしょり濡れてしまったし、濡れた衣服がひたりと身体に張り付いて気持ち悪い。季節柄、寒さを感じないだけましだと思うしかない。束ねた髪の毛先からひたりと落ちた雫は首筋を伝っていった。

「はあ…」
「あのなあ、ため息をつきたいのはこっちだ。大体…」

その後投げられたのは、よく学生時代にされたのと同じような、親が娘にする説教そのままであった。再会したばかりの降谷だったならば、こうもくだぐだと私に言い聞かせてくることも無かっただろう。どこか距離を取り合っていたけれど、やっと私と降谷は昔の距離感を取り戻しつつあるのかもしれない。その証がこの説教なのだと考えると喜ばしい事なのだけれど、あまり耳を傾けたい内容ではないのが痛手である。

「あの雨の中歩いてたのなんて春くらいだったからな」
「…あ」
「なに」
「降谷、スーツなんだね」
「………はあ…」

まだまだ言葉の尽きない様子の降谷を見やると、全身ずぶ濡れで化粧だってほとんど意味を成していない私の姿とは裏腹に、糊の効いたグレーのスーツを着こなす姿がそこにはあった。思わずまじまじとスーツでハンドルを握るその姿を凝視してしまう。どうりで自然に安室くんとではなく、降谷との会話が成り立つわけだ。初めて見たスーツ姿はきっと、安室透ではなく降谷零の姿だ。
服装だけでこうもがらりと雰囲気が変わる人物を私は初めて見たように思う。きっと降谷が身につけた、生き抜く術のひとつなのだろう。最近はようやく降谷零として話すことも出来るようになったけれど、あくまでも電話越しでのやりとりだけである。この間のご飯の約束はまだ果たせていない。よって私はこの日、初めて二九歳になった降谷零と対面したのである。
私が密かな感動を噛み締めていると、降谷は視線を私から逃し、片手でハンドルを固定しながらもう片手で頬をポリポリと掻いていた。

「…春、見すぎ」
「あ、つい」
「……そんなだから、コナン君にもからかわれるんだぞ」

私の胸の内を知ってか知らずか、話題はずぶ濡れで歩いていた事から先日コナン君とのやりとりに変えられる。今度、とは言っていたけれどまさか本当に掘り下げられるとは思わなかった。そんなだから、というのは私の分かりやすさの事を言っているのだろうか。

「…あれはからかってたの?」
「どう見ても春を困らせて楽しんでいたね」
「じゃあ、降谷と一緒だ」
「小学一年生と一緒にするのはやめてくれないか…」
「あはは、ごめんね」

あの場で私の反応に内心コナン君よりも楽しんでいた癖に。同じ土俵にあげられたって仕方がない、そう思って口から吐き出された謝罪はなんとも薄っぺらいものだった。へらりと笑みも添えてみるけれど、それがますます胡散臭かったようで、運転中の降谷から鋭く睨まれる羽目になってしまう。

「でも、コナン君で良かったけど」
「ん?」

赤信号で車が止まり、カチカチとウインカーが鳴る。この角を曲がれば私の住むマンションはもう目の前だ。徒歩ならば十分ほどの道のりだって、車だとほんの三、四分である。

「今度知らない人に名前を聞かれても、教えたら駄目だぞ」
「…もー、小学一年生と一緒にしてるのは降谷じゃん」
「…それもそうだな」

どこかその言葉に違和感を感じて、私にまとわりつく雨粒がすうっと冷えていくような気がした。けれど私は違和感の正体を突き止めようとすることはない。私は本当のところでは、私の知らない降谷の事なんて知りたくないのかもしれない。



「着いたぞ」
「ありがとう、…助手席濡らしちゃったね、」
「すぐ乾くよ」

滑らかな動作で路肩へと車を寄せた降谷はもういつもの表情だった。降谷はこれからまだ仕事なのだろうか。問いかけようと降谷の方に身体ごと向き直れば、私よりも先に向き直っていた降谷と視線が合う。

「っ、」

こちらを見ていたとは思わず言葉が詰まる私に、そのまま手が伸びて、いまだ雨粒で濡れる私の頬を一瞬攫っていった。

「…さすがに冷えたな」
「、そうかな」

どくどくと身体を巡る血液の音ばかりが私の耳につく。元より冷えていた指先は更に冷たくなり嫌な汗をかいた。私の声は今、震えてはいなかっただろうか。

「帰ったらすぐ風呂に入ること」
「う、うん、」
「じゃあ、また電話する」
「ありがとう、」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」

そうしてあの再会の日みたいに、あっという間に白いスポーツカーは姿を消した。

やけに長く感じたエレベーターを飛び降りて、ガチャリと荒々しく部屋の鍵を開けて後ろ手に玄関を閉めると、パンプスを脱ぐ事もしないでずるずると扉を背に座り込む。ずぶ濡れの身体は確かに冷え始めていたけれど、頬だけはじんわり熱かった。

あの瞬間の降谷は、確かに私を二九の女として扱っていた。学生時代に抱きしめられた時ともまた違う、けれど似た感情がじわじわと私を侵食する。その感情に名前を付けたがらない私を嘲笑うかのように、それは心の深いところに棘を刺す。
あんな触り方、小学生相手にはしない。するりと皮膚を撫でる、少しかさついたやさしいだけの体温。ちょうど縋りつく一歩手前、絶妙に名残惜しさだけの残る触り方。
あれも、降谷が身につけた生きていく術のひとつなのだろうか。それとも。

それは、あれを女扱いだと分かる私が持っていい疑問ではない。私は彼が私に触る意味を知りながらも、それでもまだ知らないふりをする意地の悪い女なのだから。