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「……では、今日はここまで。」

掠れ気味の声で本日最後の授業を終わらせると、ガチャガチャとした筆記用具の片付ける音と椅子を引く音が響きはじめた教室を後にする。職員室で事務仕事を片付けたら今日は早めに帰ることにしよう。

あの日、私は雨で冷えた身体の事などすっかり忘れて玄関に暫く座り込み考え耽ってしまった。ああして降谷が私に触った意味や、降谷と私の今までのこと。ぐるぐると同じことばかりを考えて、お風呂に入ったのはだいぶ後になった。
そして翌日案の定風邪を引き、それから三日経った今でも喉の調子だけが治らないでいる。

「せんせ〜!」
「わ!」

職員室までの廊下を生徒に紛れて歩いていると、後ろから元気な声と共に肩を叩かれた。

「鈴木さん…元気だね…」
「あら、そういう先生は声ガラガラ!」
「ちょっとね〜…」

くるりと叩かれた方へ振り向けば、そこには声で予想した通りに鈴木さんがいた。全てを吹き飛ばすような明るい笑顔がとってもまぶしい。しかし体調が良くないことを伝えれば、腕組みをしてなにやら悩み始めてしまう。

「うーん、じゃあ今日はすぐに帰っちゃいますか?」
「そのつもりだけど…どうかした?」
「実は今日ポアロで安室さんが新メニューの試作をしてるみたいで、先生と安室さんってな、か、よ、し!だから、一緒にどうかなと思ったんですけど…」
「ははは…新メニューかあ〜」

そのやけに力のこもった仲良し、の根拠を是非教えて頂きたいところである。私と安室くんが一緒に居るところを彼女は一度しか見ていない筈だけれど…もしかしたら毛利さん経由でコナン君とも話す機会があったのかもしれない。どちらにせよ特に仲良くした記憶はポアロの中でも外でもないのだが。
一先ず今は本日ポアロへ行くかどうかである。降谷の言いつけを守らず、ものの見事に風邪を引いている私がだ。

「…残念だけど、またの機会にしようかな」

怒った美人というのは万国共通恐ろしいと決まっている。ポアロへ寄って帰ることも出来ないほど体調が悪いかと言えばそうではないのだけれど…というニュアンスは、どうやら目の前の彼女にも伝わってしまったようである。

「ええ〜っ……もしかして先生、安室さんに会いたくないとか」
「……そんなことないよ」
「やっだ、先生分かりやす〜い」

小学一年生にだって見透かされる私の思考は、勿論鈴木さんにだってだだ漏れであった。










「こんにちはー!」
「…こんにちは……」

結局事務仕事を終えた午後六時、私は部活終わりの鈴木さんと共にポアロのドアベルを鳴らしていた。

「園子おっそーい!」
「わあ、春お姉さんも来れたんだねー!」
「いらっしゃい、二人とも」

店内に入った先でこちらを向いていた顔は、毛利さんにコナンくんに、少年探偵団のみんな。ものの見事に知り合いしかいない。それに、様子から見て毛利さん達と子供たち同士も知り合いだったようである。まあコナン君がいるのだからなにも不思議な事ではない。どうやら私が来るかもしれないことは周知の事であったらしく、その中に驚いた顔をしている人間はいなかった。
その見慣れた顔ぶれの、いちばん手前。つい先日に見たばかりの端正な顔は、けれども先日とは打って変わって喫茶店のエプロンを付け、穏やかな笑みを浮かべて鈴木さんと私を出迎える。

「試食、今はケーキを食べてもらっているけど…飲み物どうします?」
「じゃあ、私アイスティーで!」
「私はアイスコーヒーで」
「了解、すぐに持っていくので座っていて下さいね」

くるりと踵を返してカウンターの中に入っていった安室くんはどうみたって喫茶店アルバイターそのものでしかない。この間スーツ姿の降谷零を見てしまっただけに、改めてポアロでの安室くんを見るとなんだか変な感じがした。

「はろーガキンチョ共〜」
「こんにちは」

みんなが囲んでいる大きめのテーブル席、毛利さんの隣に座った鈴木さんの隣に腰を下ろして改めて挨拶を交わす。

「園子お姉さん、春お姉さんこんにちはー!」
「姉ちゃん達、このケーキすっげえうまいぞ!」
「アンタ達のケーキは何味なのよー?」
「さくらんぼです!元太くんなんてもう三つ目なんですからー!」
「オイオイまじかよ元太…」
「小嶋くん、その辺にしておかないと夜ご飯入らなくなるわよ」

なんというか、非常に賑やかだ。最も、私がこの光景に賑やかさを感じて圧倒されているだけで、本人達にとってはただの日常なのだろうけれど。
私はやいやいみんなが思い思いに話すのをうんうんと聞いていた。教師の私が少しでも顔を見せればこの子達の楽しげな雰囲気に水を差すかもしれないと思ったのもあるが、要するに声を出すのが億劫だっただけである。こんな掠れた声をまともに聞かれようものなら、ポアロ仕様の穏やかな笑みに鬼のツノを生やしそうな人物がいるからだ。

「お待たせしました。」
「わあ〜!素敵!」
「ロールケーキですね!」
「アールグレイの茶葉を粉末にして生クリームのほうにも入れてるので、是非味わってくださいね」
「美味しそう、」

大人組は紅茶のロールケーキで、子供達にはチェリータルトを振舞っているらしい。毛利さんと鈴木さんと、それから私の前に切り分けられたロールケーキが出される。茶葉のいい香りが鼻をくすぐった。
そして鈴木さんの前にアイスティー、私の前に、……あれ?

「あの…」
「なんだい?」
「…アイスコーヒー頼まなかったっけ?」

もはやこの状況で声を出さないことは不可能だった。私の前に置かれたのは、アイスコーヒーならばありえないティーセット。上品な装飾の施されたそれからは湯気が漂っている。

「頼んだね」
「…これは?」
「ホットジンジャーだね」
「……!」

ぎょっとして思わず安室くんの方へと振り返った。長々と話さなければ気づかれないと思っていたのはとんだ思い違いだったようだ。視界の端ににやにやした鈴木さんが見えているけれど、他の人たちは思い思いに会話しているので精々反対隣の哀ちゃんくらいにしか私の行動は気づかれていなさそうである。

「声、掠れてるから勝手にこっちにさせてもらったよ。風邪かい?」
「まあ…」
「そう、先週末の大雨にでも降られたの?」
「そんなところかな…」

なんの茶番だといいたくなるような白々しい会話も、安室透という人格は自然に見せるのだから末恐ろしい。けれど見える。私が恐れていた怒れる美人の片鱗が見える。安室透である事とこの面子が揃っていることが幸いしてあからさまな怒りの眼差しを向けられることはないにしても、私の予想に違わず彼は笑顔でその頭にツノを生やしていた。

「最近急に降り出す事が多いから気をつけて」
「はい、すみません…」
「やだなあ、心配しているだけだよ」
「…ありがとう、」
「それじゃあごゆっくり」

軽やかに去っていった安室くんはテーブルの反対側で子供達に話しかけられたようで、その場にしゃがみ込むとそれはそれは爽やかな笑顔で会話をしている。
はあ、と小さくため息をついてまだ熱いだろうホットジンジャーに息を吹きかけていると、鈴木さんがにやにやしたままの表情で毛利さんに話しかけていた。

「高階せんせ、安室さんに風邪引いてるってバレると怒られるから最初来たくないって言ってたのよ〜」
「ええ〜そうなの?安室さんが怒るところなんて見たことないけど…」
「でしょ、あたしもそう言って説得したのよ。実際かけらも怒ってなんかなかったしねー。」
「好き放題言うねえ…」
「あーんなに優しく心配されて、もー先生ったらあ!」
「…高階先生、ときめいちゃいました?」
「ときめいちゃいません!」

二人にそう見えていたのなら、それは安室くんの狙い通りだ。安室透という男が築いてきた米花町での関係性は、それほど確かなものだと言う事であろう。それでも実際の安室くんと私の間に流れる空気は確かにひやりとしていた訳で、あの状況にときめきを覚えられる人間がいるのであれば教えてほしいくらいである。
ごくりとホットジンジャーを喉に通してからもー、と眉を釣り上げたって彼女達はまたまたあ、と手をひらひらさせるだけであった。かと思えばロールケーキを頬張りながらそれぞれの想いびとの事を話しだすのだから、女子高校生の切り替えの速さにはついていけない。

「…ん、おいしい」

私もようやく紅茶のロールケーキをフォークで切り分け口に運んだ。甘すぎず茶葉の香りが口の中で広がるそれは、たしかに少し大人向けのスイーツかも知れない。けれど私好みの味である。
更にもう一口ケーキを口に運び、再び感じるその美味しさに舌鼓をうっていると、鈴木さんたちとは反対隣の方から声をかけられた。

「彼、本当は怒っていたのかしら?」

鈴のなるような可愛らしい声となんだかミスマッチな大人のような話し方で確信をついてきたのは哀ちゃんである。

「…相変わらず鋭いんだね、哀ちゃん」
「あなたの表情で察しただけよ」
「ああなるほど…」

私ってそんなに分かりやすいかなあ。首を小さく傾げると、そういうところよ。と呆れた声で呟かれた。

「でも怒っているとこの場でわざわざあなたに知らせるなんて、彼もまだまだね」
「…まだまだとは?」
「あら、分かっているくせに。往生際が悪いのね」

ぱくぱくと食べ進める私に哀ちゃんは抽象的な言葉だけでじわじわ深いところを抉りに来る。けれど不快なものではなく、むしろ全てを委ねてしまいたくなるような柔らかさがそこにはあった。
うーん、と考える素ぶりをしながら哀ちゃんの目の前のお皿を見ると、少し前に配られていたのだろうチェリータルトは綺麗に食べられた後である。床に足が付かずにふらふらと揺らしている彼女に、すすすとまだ半分ほどケーキが残った私のお皿を差し出した。

「…哀ちゃん」
「なによ」
「こっちのケーキ、一口食べる?」

思いっきり食べている途中の物なので、もしかしたら哀ちゃんは嫌かもしれないなあ…と思いながら問いかけてみる。意外にもすんなり、彼女は自らのフォークで一口分のロールケーキを攫っていった。

「……口止め料にしては量が少ないわ」

どうやらお気に召したようである。私はにっこり笑ってお皿ごとどうぞ、と返事をして、自分はようやく少し温くなったホットジンジャーに口をつけた。

安室くんが本気で私を騙しにかかれば怒っていることを私に悟られないようにするなんて訳ないことである。説教なら電話で好きなだけできるのだし。それでも私に自身の感情を伝えてしまうほどに私への憤りは彼の中で大きな感情だったのだろう。





人はね、どうでもいい相手に口うるさく怒ったりしないものよ。父に叱られて泣きべそをかく幼い私に優しく言った母の言葉である。
少なくとも私は降谷に大事にされている。友人としても、女としてもそうだ。けれど、その先のことはどうしたって、あんな風に触られたって。確かな言葉が私たちの間で交わされるまでは、一人よがりでしかない。