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席についてすぐに脱いだ降谷のスーツがゆらゆら空調に揺られている。他の席から僅かにきっと大声で笑っているのだろう声が漏れ聞こえているけれど、それ以外は何にも聞こえない。個室側は防音体制が整っているようだった。
降谷と私、二人だけの飲み会は和やかに時を刻んでいる。閉鎖された空間で会話が持つのかどうかなんて、気にしたのははじめの数分だけであった。こっそり抱える感情は置いておいて口を開きさえすれば、もとより馬の合う友人同士である私達の会話はさらさら流れるように交わされる。ビールの泡が美味しいのってほとんど雰囲気のお陰だよな。枝豆入ってるだけなのに居酒屋のお皿ってお洒落だよね。なんてことない会話をつまみに飲むビールは格別に美味しく感じた。
テーブルの真ん中を大きなお皿で陣取ったシーザーサラダ。降谷の分は適当に全部の具が入るように取り分け、それからさりげなくたまねぎを避けて自分の分を取り分けると、降谷はおかしそうに笑った。

「たまねぎ、ピーマン、しいたけ」
「残念、しいたけはもう克服しました」
「そうなんだ?」
「もう、変な事覚えてなくていいよ…」

私の嫌いな食べ物を羅列した後見せつけるように玉ねぎを口に運ぶ降谷は、やはり安室透よりも意地が悪い。何か一つだって言い返せたらいいのだけれど、生憎と私は彼の嫌いな食べ物を知らない。ピーマンだって玉ねぎだって、なんだって彼は美味しそうに頬張っていた。やりきれない思いをビールと一緒に流し込めば、目の前のジョッキも空になろうとしていた。明日は休みだという言葉に嘘はないようである。
早々に二杯目を頼んで受け取ったそれに口を付ける。降谷は日本酒、私は焼酎。年齢より若く見える降谷が日本酒で喉を潤す様子には少し違和感があったが、お互い様なのだろう。コークハイや甘ったるいカクテルばかり頼んでいた頃の印象が抜けていないのだ。好みのお酒がわかり始める頃には降谷との連絡は取れていなかったし。
くいっとお猪口を煽った降谷が口を開く。

「蘭さんや園子さんはポアロに来るとよく春の話を聞かせてくれるよ」
「ええ…それってつまらなくない?」

鈴木さんや毛利さんの知る私のほとんどは帝丹高校の数学教師としての私であるだろうし、教師である私の言動で安室くんに話そうと思うような話題が果たしてあるだろうか。年齢が他の教師陣よりも生徒に近いので話す機会は多いけれど、私自身の話をする事はほとんど無い。

「この間面白い話を聞いたんだ」
「えっ、やだ私何かしてたっけ?」

その言い方は私にとってはあまり好ましくない話なのだろう。けれど枝豆を摘まみながら軽く思い起こしてみたところで、ここ最近大きな失態は犯していないように思う。

「サッカー部の山下くん」
「………は」
「あれ、覚えてない?三月に卒業していった…」
「覚え、てるけど!まさか面白い話ってそれ?」
「直近で聞いた興味深い話はこれ」

その興味があるというのは話の内容よりも、話題にされて顔を顰めた私の反応のことだろう。でもよりによってこの場でその事を伝えてくるだなんて。確かに、酒が入った今だからつつきたい話題であることに違いないのだが。

「趣味悪い…」

そう呟かざるを得ない。呟かれた当の本人はと言えば、お手本になりそうなほど綺麗な箸の持ち方で塩辛を口に運んで美味しいな、と元から下がり気味の目尻を更に下げていた。一連の動作に無駄が無さすぎて思わず目で追ってしまう。私も彼に倣って目の前のそれを口へと運んだ。

「ん、おいしい」
「だろ」
「うん、これは…お酒が進む」

お互い塩辛を摘む手が止まらず、ぱくぱくと口を動かし続ける合間に降谷は話を再開させた。

「幼気な高校生に抱かせた恋心をいつになくすっぱり断ったって?」
「抱かせたって人聞きの悪い…誰しも歳上が魅力的に見える時ってあるでしょ」
「うん、ある」
「だからって彼の気持ちを軽く捉えたつもりじゃないけど、どのみち応えられない話だったから」
「先生みたいだな、」
「先生なんです〜」

空になった器をテーブルの手前側に寄せて、手持ち無沙汰になった手でそのままテーブルを拭きながらけらけら笑った。もう自分が先生と呼ばれる事も、自分をそう呼ぶ事も照れ臭くなくなって久しいな、と独りごちる。けれど降谷の口から放たれたそれは感慨深く、私の心をじわりと滲ませた。

「そういう降谷だってポアロで幼気な高校生に恋心抱かせてるじゃん」
「そこ張り合うんだ?」
「鈴木さんと毛利さんからも聞いたよ。目ハートにしてアイスココア飲んでる子がまた増えた、って」
「彼女達づてに筒抜けだなあ、どうも」
「お互いにね…」
「でもあれは安室透だからだ」

降谷零ならばそうはならなかった、と言わんばかりに言い切った降谷の手に持つ徳利は既に空になってしまったようで、店員さんを呼び出していた。ちらりと私の手の中のグラスを覗き見てから自分の分だけ同じものを頼んで、そうして私の方に向き直る。青みがかった灰色の中に映る私は、きっとだらしない顔をしているのだろう。何せ顔が熱い。
ぐいっと残り少なかったグラスの中身を飲み干す。酒で鈍ってきた思考は、安室透だからだというその一言に漬け込んで降谷に一泡吹かせるべくその口を開かせた。

「降谷零は女の人誑かしたりしない?」
「仕事で美人とドライブなら良くするけど、誑かされてくれるような人じゃないな」
「びじん…」

けれどそれは無謀な挑戦でしかなかった。私の思いつきで発した少しの嫌味なんて瞬殺される。それだけではない。私の何枚も上手な彼は私の何倍も嫌味ったらしく、けれど淡々と切り返してきたのだ。案の定言葉を詰まらせた私を見て降谷は満足そうに酒を煽った。酔っていつも以上に取り繕えない私を見越してのこの切り口での嫌味はずるいなあ。
それにしたって、美人とドライブってどんな仕事。もんもんと頭の中に沢山の美人の姿が思い浮かぶけれど、その疑問を口にするのは白旗を上げるのと同義のように感じて胸の内にどうにか留めた。店員さんを呼び出して今度は梅酒を頼む。

「降谷って警察として働く時間あるの?」

押し殺した疑問の代わりに、以前から聞きたかった疑問がするりと口からこぼれ出た。警察としての降谷にあまり迂闊に踏み込むのは良くないと思っていたのだけれど、あらぬ心配だったようであっけらかんと彼は答える。

「あんまり無い。たまに登庁しても判子押してる事が多いな」
「偉いの?」
「うーん、ちょっとだけ」

そう言って笑った顔は、いつもの降谷と同じ笑顔だった。









心地よい風は火照った身体に優しく纏わり付いて、そして離れていく。居酒屋の中はやっぱりいろんな煙で空気が篭り気味だったのだとは、外に出て始めて知った事だ。駅は居酒屋を出てこちらとは反対方向、しんと静まり返った住宅街を歩いているのは私と降谷だけであった。行きは羽織っていたカーディガンをハンドバッグの中に押し込んで、低いヒールがアスファルトを不規則に鳴らす。指先の感覚は鈍いし、頭はふわふわと浮いているみたいだ。スーツを引っ掛けて隣を歩くの降谷の様子は来た時となんら変わりないように見えるけれど、私よりも大分速いペースで飲んでいたのでさすがに素面ではないだろう。

「ふふっ…まさかこんな歳になって降谷とまた二人で飲む日がくるなんて〜」
「だなあ」
「あはは、そこはごめんってしんみりするところだよ」
「しないよ、分かってるくせに」

だよねえ。へらりと笑いかければ、真っ直ぐ歩いて、と腕を引かれる。はあ、とため息をついた降谷は掴んだ腕はそのままに少し前を歩くようになった。どうやら先導してくれるようだ。ゆっくりなら自分でちゃんと歩けるのに、と思ったけれど、こちらの方が楽であることに変わりはないのでそのまま大人しく目の前の背中に進路を任せた。私の腕を掴む降谷の手のひらが熱い。

「今日、よかった」
「よかった?」

首を傾げて振り向いた降谷に笑みを浮かべる。気分の良いまま言葉を続けた。

「私、降谷が私よりずーっと先に行っちゃったと思ってた」
「そんな風に見えてた?」
「見えてた。大人の男になっちゃったなあって」
「…それこそお互い様だと思うけど」
「でももういいんだ〜」
「いいの?」
「だって、届くから」

ほら。掴まれた腕を見せつけるようにぶんぶん振る。私が届かないと思っていた距離なんて、きっと手を伸ばしてしまえば繋がるだけのものだった。降谷は急ぎ足で大人になったけれど、それでも私の知っている降谷零だった。いまだって昔みたいに、酔っぱらいのまとまりのない言葉ひとつひとつに相槌を打ってくれる。昔からの彼は大人になった彼の中にもちゃんと生きていて、私がそこを区別する必要はない。それが今日分かった。それが嬉しい。だから今日は、よかった。感情が抑えきれずに勝手に顔が綻んだ。こういうところが分かりやすいのだと言われるのかもしれないが、それを抑える術を私は知らない。
だらしなく頬を緩ませる私を降谷はらしくなくぽかんとした顔でただ見ていた。そして、彼もその顔を幾分か緩ませた。
するすると降谷の指が腕の筋を辿って、遂には私の指を捕らえた。指と指が重なって、やがて絡む。

「本当だ」

低い声でそう言った降谷は私の隣に位置取り、再びゆっくりと歩みを進めた。繋がれた手はそのままに。

「……っ!」

いまの手は、あの時と同じ。雨の日に私の頬を攫った手と。ううん、あの時よりもっと安直で、熱い手だけれど。
かあっとただでさえ熱い身体の体温が上がる。手を繋いでいるだけでそれに気づかれたとは思わないけれど、タイミングよく彼はこちらを覗き込んでいたずらに笑った。

「顔赤いな。照れてる?」
「っお酒のせいだよ…!」
「うん、知ってる」

やっぱり降谷も少し酔っているのだと思う。そう言いながらも絡められた指には力が込められた。そろそろ私の住むマンションが見える頃だ。

「タクシー呼ばなきゃだね、」
「まだいいよ。もう少し歩こう」

どちらともなく、曲がらなくていい角の方へと足を向ける。星空の下で、私は降谷に二度目の恋をした。