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リニューアルしたばかりの東都水族館の観覧車があやうく倒壊するところであったというニュースは、一週間ほど世間を賑わせた。週明けの職員室や教室で散々話題に上がった。
けれどもその話題からふた月が経ったいまではだれも話題にもしない。結局どうして観覧車が倒壊寸前の事態になったのかは分からないまま、その話題は世間から消えていったのである。インパクトのある出来事だったからこそなのか、原因を気にする人はそんなに居なかったように思えた。どのニュースのコメンテーターだって疑問を呈していないことに、一体どれだけの人間が気づいただろうか。
あまり良い事ではないけれど東都、とりわけ米花町では大規模な事故や事件は度々あることだし、私だって毛利さんと鈴木さんが現場に居合わせたと知った時以外は特別思うところがあったわけではない。
それでもいつになくその事故の詳細が気になってしまう原因はただひとつ。安室透がポアロで長期休みに入ったその週末に事故は起こって、そしてふた月が経った今も、彼はポアロを休み続けているらしいからである。ニュースで事故直後の映像に警察が沢山その場に居るのを目にして、もしかしたらこの中の一人が降谷ということもあり得るのだなと、今更ながら思ったのだ。
だからって本当に降谷が現場にいたと思っているわけじゃないのだけれど、その事故は降谷の仕事に少なからず繋がっているのだと思うと、気にせずにはいられなかった。不確かな繋がりを辿ることは良くないと分かっているのに。

もやもやとはっきりしない思考を吹き飛ばすように頭をぶんぶん振って、手元の書類に目を通す。近くある修学旅行についてのものだった。色々と縛りも多いけれど、せっかくだから思いきり楽しんで欲しいなあ。私たちの時は降谷が、






…怪我、してないといいけどな。
何処にいるのか、何をしているのか。今までだってずっと分からなかったのに、急にその事実が恐ろしく思えた。












「…コナンくん、その視線は一体何ですか」
「べーつーにいー?」

それから数日後の喫茶ポアロ。そこで私は、隣に座るコナン君にじとじとと湿っぽい視線を投げかけられていた。両手でオレンジジュースの入ったグラスを支えている様は可愛らしくても、視線だけがいやに大人びていてなんだかちぐはぐである。

「今日も安室さんいないねー」
「そうだねー」
「気にならないの?」

店内は私達以外には奥で仕込みをしているマスターと、常連らしきおばあさんと談笑している梓さんがいるだけだ。表情は何も変えないままに投げかけられた言葉は、まるで気にしろと言わんばかりである。言い方からして、安室くんがここにいない理由を彼は少なからず知っているのだろう。

「気になるけど、コナン君には聞かなーい」
「んだよ、安室さんの言った通りかよ…」

けらけらと笑う私に、コナン君が視線を逸らして何かぼやいた。その肌にはもう傷のひとつだって見当たらない。

「怪我、治ってよかったね」
「ああー…うん、ちょっと掠っただけだったからすぐに治ったんだ」

目の前の男の子だけでなく、少年探偵団の皆も例の事故当日、現場である東都水族館にいたというのは毛利さんから聞いていた。それからしばらくしてポアロで出会った時は腕に大きな絆創膏を貼りつけていたので事情を聞けば、なんと倒壊寸前の観覧車のその中にいたのだという。毛利さんや鈴木さんも事件に巻き込まれやすい印象だけれど、最近ではこの子達も彼女達に引けを取らない巻き込まれやすさのように思う。

「なるべく怪我しないようにね」
「え…っと、」
「コナン君たち、よく事件に巻き込まれてるから」
「う、うん。気をつけます…」

悪戯がばれる前の子供みたいにぎくりと肩を揺らしたコナン君は見なかった事にしておこう。降谷という名前を知っているという事実だけで、この子が何かしら訳ありだろうというのは推察できた。それと事件によく巻き込まれる事と、降谷の名前を知っていることの関係性はまったく分からないけど。

「ゼロの兄ちゃん?にも同じこと言っておいたんだけどね」

本当にあの事故に降谷が関わっていたならコナン君と同じような擦り傷くらいは負っているかもしれない。それならもう間違いなく治っているし、次に姿を見る時には何事もなかったよ、なんて簡単に言われるのだと思う。よく考えてみたら意味のない言葉だったかなあ。へらりと笑えば、コナン君ははあ〜、と大きなため息をついた。

「…ボクには聞かないんでしょ。心配なら本人に聞いたらいいのに」
「うーん、会った時に聞くよ」
「電話番号知らないの?」
「知ってるけどいいの」
「春さんって結構頑固だよね…」

電話が繋がらなかったら寂しいから、とは小学生の男の子相手に零すことではないので飲み込む。
僅かに残っていたコーヒーを飲みきって、伝票を掴んでカウンターチェアーに掛けていた足を下ろせば、仕事の日はまず履くことのないヒールの底からかつんと音が鳴った。

「そろそろ買い物いかなきゃ。またね、コナン君」
「うん、またね」
「梓さん、ごちそうさまでした」
「はーい!お会計いきます〜!」

駆け寄ってくる梓さんの声が店内に響く。次ここに来るときは安室くんも戻ってきているだろうか。
もこもこしたファークラッチの中から財布を取り出して、お札受けにぴったり分の代金を乗せた。

「また来てくださいね。」
「勿論。じゃあまた」
「ありがとうございま……あ、」

カラン、と後方から音が鳴って、首筋に外からの心地よい風が触れる。梓さんがそちらを見やって声を上げた。知り合いでも来たのだろうか、と思わず私もドアの方へと振り返る。








「……あ」

そこにいたのは、今まさにコナン君と話題にしていた当人だった。

「っ安室さん!探偵のお仕事終わったんですか?」
「はい、大体は。ポアロの復帰の目処が経ったからお二人と相談しようと思って」
「それなら中に…それにしてもお久しぶりですね〜!また怪我してるし!」
「すみません、ずっとシフト入れなくて…」

にこやかに梓さんと話しながら店内へと足を踏み入れて来たのは、何度まばたきしたってやっぱり降谷零だ。どきりと一度心臓が大きく音を立てて、それからは全部の音がどこか遠くで鳴っているみたいにぼやけて聞こえる。
やがて男の瞳が、こちらを捉えた。

「春も、久しぶりだね」
「うん、久しぶり。」

ひらひらと手を振って応える。その指先が気づかないうちに冷たくなっていた。どうしてだかこちらを見ている降谷の目はまっすぐ見られなくて、その近くのドアベルを見つめた。

「…、」

いつものように話せばいいのだ。その頬のガーゼと腕に見える擦り傷の跡や巻かれた包帯、全部ちくちく刺すような嫌味で問いただしたらいい。そうしたら安室くんは、笑って謝ってくるだろう。
それなのにどうしても、言葉が出てこない。

「え」

息を飲んだのは目の前の男だろうか。梓さんだっただろうか。

「…梓さん、後で戻りますね」
「ぜひ、そうしてください」
「えっ」

やけに力強い梓さんの声を最後に、私は安室くんに腕を引かれてポアロの外へと引き摺られていく。合わない歩幅を補うように大きく一歩踏み出せば、頬に何かが伝っていった。