15

薄暗くなりはじめた米花町の街並みを降谷にずるずる引き摺られながら歩く。前を進む降谷は一言も発することなく、目的を持って歩いているようだった。いつになく急ぎ足なので私とは全然歩幅が合わず、かつかつと鳴るヒールの音は不規則である。
ぽろりと一筋だけ伝った涙はそれきり流れることはなく、今の私の中には後悔だけが渦巻いていた。感極まってというよりも無意識にこぼれ落ちてしまったものだったけれど、梓さんには間違いなく見られてしまったし、もしかしたらコナン君にだって見られてしまったかもしれない。そうなると安室くんの立場に何か影響を及ぼすことだって考えられるし、そもそも突っ込んで聞かれるのは避けられないだろう。いや、それは私もか…

「消えてなくなりたい…」

私の口から吐き出された弱々しい台詞は、人々の喧騒に紛れて溶け消えた。









見覚えのある地下駐車場に降谷が足を踏み入れた時点で、目的地にはもう着いたようなものであった。二人分の足音をしばらく響かせて着いたのは、思った通り降谷の愛車の側だった。相も変わらずぴかぴかで真っ白な車を前にして、ようやく掴まれていた腕が解放される。

「乗って」

うん、と小さく返事をして車に乗り込む。降谷は煙草は吸わないと思っていたのだけれど、その車内からはわずかに煙草の匂いがした。
普通だったらこういう時はカフェにでも入って話すものなのだろうな、と内心苦笑いを零す。私と降谷が話せる場所が限られているのはとっくに理解していることだ。そもそも彼が安室透として私と話すつもりだったなら、あの場から離れる必要なんてなかった。

「えっと、…」

正直再会の喜びよりも状況に対する困惑の方が大きかったし、それはしっかりと声に乗って降谷に届けられた事だろう。あいにくと降谷の話の内容にまでは心当たりがない。彼は私が泣いたのにぎょっとしただけで連れ出した訳じゃ、ないはずだけれど。そもそもがあの時は安室くんとして振舞っていた訳だから、彼の対応としては話がなかったとしても連れ出す方が自然だったのかなあ。

「帰るところだった?」
「あ、うん。買い物してから」
「じゃああとで送るよ」

大丈夫だよ、と言おうとした口は中途半端に開いてその動きを止めてしまって、結局音にはならなかった。こちらを向いた降谷の腕が伸びてくる。思わず後退りそうになったけれど、彼は視線だけで私を動けなくしてみせた。雰囲気に飲まれるとはまさにこの事である。
涙はとっくに乾いてしまった頬を、降谷の指先が涙を拭うようになぞった。

「っ」

反射的にぴくりと身体が跳ねる。ちらりと目線をやった先、彼の表情は苦笑いを携えていた。

「…泣かせた」
「、もう泣いてないよ」
「でも泣いてた」
「あれは、無意識に…というか」

降谷の親指が私の目元を往復する。その指先に慰め以外の感情は乗せられていない。もしかしたらこの男、本当に私が泣いていたというだけでここまで連れてきたのだろうか。誰かの涙に動かされる男だったかなと昔の記憶を辿ってみたけれど、そもそも私は彼の前で涙を流した事なんてほとんどないので分からなかった。だからこそ降谷も戸惑ったのだろうか。それで放って置けなかったのだろうか。
そう思うと少しだけ大人になった降谷もかわいいところが残っているのだなと微笑ましく思う。

「また居なくなるのもあり得ると思ってたから、戻ってきたらびっくりしちゃって」

結局のところ、私は降谷が東都水族館の事故に関わりがあったのかどうかを心底知りたかった訳ではない。ただその事故に関わっていたという事実があるならば、彼がまた姿を消したとしても調べる当てになると思ったのだ。昔のように忘れたふりをすることでしかやり過ごせないのは嫌だった。目の前に本人が居る今となっては彼がどんな案件に関わっているのかなんて、知らなくていいとさえ思う。

「…怪我はしてるし?」
「本当にね」

悪戯な笑みを浮かべた降谷は私の頬をなぞる右手を離して、その手で自分の頬を指差して見せた。そこに貼り付けられたいつかと同じ大きなガーゼは不思議と違和感がない。その頬にじとっとした視線を投げるのを降谷は面白そうに見て、それから口を開いた。

「確かにもしまた居なくなるとしても、黙って行かないと約束はできないな」
「、約束されたっていなくなるなら一緒だよ」
「…可愛くない。」

彼も私と同じ視線をこちらに向ける。私が欲しいのは約束じゃないのだから、可愛げのある台詞なんて言えるはずもない。それに私と降谷は良くも悪くも約束が必要な間柄じゃない。小さなことなら約束もなしに自然に取り付けられる昔馴染みだけれど、ただの昔馴染みはそれを義務付ける権利なんてない。だから可愛くなくったっていい、少しだけ面白くないと思ってしまう事を許して欲しい。




一瞬睨み合った後、降谷は諦めたようにしてひとつ息を吐いた。それに合わせてこちらも表情を戻すと、降谷は再び私の腕を掴んで今度は思いっきり引き寄せる。

「う、わ」
「春は本当に分かりやすいなあ」

真っ白なシャツ越しの胸板に頬が押し付けられて、私を引き寄せた片腕は私の身体を抱え込んでしまった。降谷にこうされるのは二度目である。あの時もそうだったけれど、子供体温の降谷は熱でもありそうなくらいに熱い。くつくつと笑うその振動さえこちらに伝わって、顔に熱が集まるのが分かる。

「っちょっと、」

降谷の身体を押し返そうとしてもびくともしない。それどころかますます腕の力は強くなるばかりで、私を離す気なんてこれっぽっちもないみたいだ。

「泣かせたことも、あの時の事も、これから同じ事があっても謝らない」
「っ、分かってるから離してっ」

耳元に直接柔らかい声と吐息が届けられてこそばゆい。
分かっている。私だってそんな事謝って欲しくない。降谷が進むと決めた道の足枷になるなんて、心残りになるなんてごめんである。私が勝手に降谷を想っているだけでいい。それがなんの形を作らなくたってもいい。だからこんな風に、抱きしめないでほしい。

さっきよりもよっぽど今の方が泣きそうだ。
記憶の中よりも逞しくなったように思う彼の胸元に埋まった顔を押し付けて下唇を噛み締めていると、ふと私と降谷の間に隙間が空く。男の匂いと体温が遠ざかっていった。
輪郭を大きな手のひらが包んで顔を上げさせられる。鼻先がくっつきそうな距離にいる降谷の瞳の中に、情けない顔をした私がいた。先程私を慰めたのとは違う触り方に心臓が嫌な音を立てる。

「ばか、泣くなよ」
「だから、泣いてな」

言葉が不自然に遮られる。私の口を塞ぐのは少しかさついた男の唇だ。あまりの事に堪えていた涙はどこかに行ってしまった。目を閉じる余裕もないけれど、降谷の表情を伺う余裕はもっとない。どきどきと聞こえる心臓の音がどちらのものか分からなくて、これじゃあまるではじめて男の人と触れあったみたいじゃないかと頭のほんの隅にいる冷静な私が独りごちた。
高校生の時から今までに、降谷とこうなるタイミングはいくつもあった。けれど私も降谷もきっと関係が変わることを恐れた。昔の私たちはそれでも恋という感情が脆いことをなんとなく分かっていて、どのタイミングでも友情を選んできたのである。甘酸っぱい思い出といえば聞こえはいいけれど、そのどれもがわたしと降谷の間に壁として佇んでいた。


それだというのに今になって、私たちはキスをしている。