16

ぱたん、と真後ろで玄関の扉の閉まる音がする。ヒールを脱ぎ捨てて足早に向かった先は、リビングに佇むお気に入りのソファだった。手にしていたクラッチバッグと一緒にふかふかしたそこに倒れ込む。

「……………はあ」

無意識のうちにため息がこぼれた。
結局あのあととてもスーパーで買い物する気になんかならなくて、まっすぐ自宅まで送ってもらった。なにか食べるものあったかな、と冷蔵庫の中身を思い浮かべはしても、実際に立ち上がる気力が湧くことはなさそうである。目を閉じてもうひとつ息を吐けば、思い出されるのは自然に先程の事だった。









『その顔、今度は酒のせいだなんて言えないな』

車を発進させた降谷は一度ちらりとこちらを見て、それから可笑しそうにそう呟いた。からかうようなその声にはひとつの気恥ずかしさも見当たらなくて、縮こまっているこちらが馬鹿らしくなるくらいである。確かに、仮に照れられたりしたって困ってしまうのだけれど、あまりにどっしり構えたその態度はこの場の空気に馴染んでいない。けれどその佇まいこそが、まさしく降谷零という人間を現していた。
一方その言葉に対して私はと言えば、だれのせい、とさして威力のない憎まれ口を叩くだけに終わったのである。まだ熱を持った頬のまま降谷の顔を見ることはできなかった。同じ年数人生を歩んできて、いったいこの差はなんなのだろう。

『俺』

そう答えた彼の声は、さっきよりも明確に弾んでいた。

それからマンションまでの道中は、ぽつりぽつりとなんでもない話を交わすだけだった。その中身と言えば先ほどの事はおろか、二ヵ月顔を合わさなかった事すら忘れそうになる、拍子抜けするくらいいつも通りの会話である。
再会してからの私たちのいつもの会話というのは、大体がポアロの話か、共通の知り合いの人たちの話題だ。いつかポアロで試食したケーキは、来週から売り出すことになったらしい。
赤い顔を隠すように不自然に顔を背けながら会話をする私に時々視線が刺さったけれど、追求されることはなかった。

きっと話題を選んでくれたのであろう降谷のお陰で、ようやく顔に集まっていた熱も引いたころ、進行方向に真っ直ぐ顔を向けている降谷の方をこっそり見やった。気づけば随分オレンジ色に染まっていた空越しの横顔はいっそ嫌味なくらい画になるのだから、それだけでも十分彼はずるい男である。






家に着く頃にはすっかりいつもの空気に戻っていた。もともと空気をおかしくしていたのは私だけだったので、私の心臓の音が緩やかになっていくのと同じ速度で強張っていた空気も解れていったのである。
何度も訪れたタイミングから逃げてきた私のなかで、今日の出来事は到底忘れてしまえるような事ではない。けれども、今日が過ぎたらお互い無かったことにして忘れてしまったように振る舞う姿が目に浮かんだ。というより、真逆の想像がまったくできないと言った方が正しい。こんなことで意向を擦り合わせるのは野暮だし、それに、…。

要するに、私は話を蒸し返してはっきりさせるのが怖かった。聞いたばかりの嬉しそうな声色を、私が踏み入ったばかりに嘘に変えてしまう事はどうしてもしたくない。
どのみち私が会うのは大抵が安室透なんだし、いまここで普段通りに別れさえすれば、しばらくは降谷零と話す事もない。そうしたらきっと、時間がどうとでもしてくれるだろう。ひとまず無かった事に。きっと降谷もそうするだろう。

よし。密かに意気込んで笑顔を作り、シートベルトを外して降谷に向き直る。車が動き出してから、真っ直ぐに目を合わせるのはこれが初めてだった。

『ありがとう、またポアロ行くね』

自分の中ではなかなか自然に普段通り、が出来たように思う。片手でクラッチバッグを抱えて、もう片手はドアノブに手を掛ければ、あと煙草の匂いが混じるこの車の外に出るだけだ。ゴールが見えて気が焦るのを誤魔化すみたいに、ゆっくりドアのロックを解除した。
けれど彼はそんな私を見透かしたみたいに、クラッチバッグを抱え込んだ私の腕を掴んだのである。

『さっきの。なかった事にしようとするなら、今ここでもう一回する』

何を、なんて問い返す前に反射的に顔に再び熱が集まった。
それはほとんど脅迫だったように思う。冗談っぽい声色で口角を上げてみせた降谷の、灰がかった青色の瞳はちっとも笑っていなかった。掴まれている腕は少し痛いくらいに力が込められていて、思わず呻きそうになったのをなんとか堪えたくらいだ。
私の葛藤を全部リセットしてしまう一言だった。勝手に決めつけていた私も私だけれど、別れ際に爆弾を落とすような事を言う降谷も降谷である。
そんなことしない。蚊の鳴くような声でどうにかそれだけ呟くとき、私はきっとこの数年間で一番情けない顔をしていただろう。しっかりと私の声を聞き取ったらしい降谷が満足そうな表情を浮かべたけれど、私は直視することができずに視界の端っこになんとか収めただけだった。これじゃさっきの状態に逆戻りである。

『ならいいんだ。じゃあまたポアロで』

それまで強く掴んでいたとは思えないほどあっさり私の腕を離して、降谷は目尻を下げた。見送られるがままに手のかかったままだったドアノブを引いてヒールのかかとを地面に着ける。
うん、とひらひら手を振ってから扉を閉めた。降谷は片手を上げて、かと思えば瞬く間に夕焼けの向こうに消え去っていった。






「………だめだ」

居ても立っても居られずに目を開く。がばっと身体を起こして、丸い形のクッションを抱え込む。さっきの今なので当たり前だけれど、脳裏に蘇る記憶はやたらと鮮明だ。
思わず口元に指先が行くのを寸前のところでクッションに行き先変更する。


ポアロに戻っただろう降谷は、梓さんたちに質問責めに合っている頃だろうか。少しくらい困ったらいいんだと、意地の悪い事を考えた。