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「高階先生〜」
「うん?」

授業後、ぱたぱたと上履きを鳴らして追いかけてくる気配に振り返ると、大きな身体の男子生徒が私を呼び止める。今の授業を思いっきり睡眠時間に充てていた福島くんだ。その証にネクタイが少し歪んでいる。

「さっきの授業全然分かんなかった!」

走り寄ってきたその顔は眉尻が下げられていて、全力で困っている事を伝えていた。

「寝ていた人は知りません」
「う"……ゴメン先生〜!!っそれでさあ!今日放課後教えてくんない?俺次も数学赤点だったらヤバいんだよ〜!」
「…部活行きたくないんだね?」
「………先生お願い〜〜〜!!」
「うーん…」

ぴしゃりと言い放った台詞も彼の予想を超えるものではなかったのだろう。謝ったかと思えばすぐさま提案してくる福島くんは男子高校生を絵に描いたような人物だと思う。
たしかに彼は、数学の成績に関して言えばなかなかの要注意人物であった。だからこそ生徒の中では良く会話をする方だし、向こうも気軽に話しかけてくるのだろう。
理由が大分不純なので今日すぐに、というのは受けにくい話だけど、放課後に少し勉強を見ること自体は本人が望むことなら私としてもありがたい話である。一度顧問の先生に日程の確認をしても良いかもしれない。いっそ他の数学が苦手そうな生徒も集めて一度補習を開くのもありかもしれない…。


両手を合わせて拝んでいる本人を前にしてすっかり考え込んでしまう。それでも今日のところは部活に行ってもらわなければと口を開けば、背後から通る声が私のまだ音になっていない声を遮った。

「だめだめ、今日はボクの遅れてる分の勉強見てくれる約束だったじゃん!高階先生」
「…世良さん?」

ひらひらと私に手を振るのは、少し前に転校してきた世良さんだった。毛利さんや鈴木さんと良く一緒に居るので、私も最近は彼女と良く話すようになってきている。

「え、そうなん」
「そう!だから福島は部活に行け!」
「はあ〜…先生、お願いしたかんね!」
「…顧問の先生と相談しておくね」

世良さんに急かされるまま、肩を落として去っていった彼の背中を見送って、それから彼女の放った言葉の意味をようやく考え始める。私の記憶では彼女を勉強を見る約束はしていない筈だ。勉強につまづいている様子だって見たことがない。
となるときっと彼女は。思い当たった可能性に思わず顔が緩む。

「もしかして、助けてくれたの?」
「困ってるか分からなかったけど、先生固まってたから。余計な事した?」

私の問いかけに対してきょとんと首を傾げるその姿に慌てて片手を振る。

「ううん、助かりました。ありがとう」
「なら良かったよ。つきましては先生に質問があって」
「ええ、本当に勉強みてほしかったの?」
「違うよ〜!あのさ…」

ちょいちょい、と手招きされるがまま廊下の隅に立つ世良さんに近づけば、耳元に世良さんの顔が近づけられた。余程聞かれたくない話なのかもしれない。気持ちばかり周りを遮るように持っていたファイルを口元に持っていく。
世良さんの中性的な声が私の鼓膜を揺らした。




「ポアロに居るあの安室って人、高階先生の彼氏って本当?」




普段学校では聞かない単語と、その内容に目を見開く。

「かっ」

思わず声が大きくなるのを、口元のファイルを叩きつけることでなんとか抑える。世良さんが声を潜めてくれたのが台無しになるところであった。きょろきょろ辺りを見渡してみても、特に此方に視線は向いていないようでほっと胸をなでおろす。

「その反応は当たり?」
「昔なじみを彼氏と言われたら驚きもするよ…」
「なんだ、残念」

いやいやと首を振って否定した私に肩を竦める世良さんはどうやらさして興味がなかったらしく、それ以上深く聞いてくることは無いようだ。

「…鈴木さん?それとも毛利さん?」
「どっちも。」
「ああ……というかどうして安室くん…」

聞かれてどうなる話でもないけど、聞かれないに越した事はないので声を潜めたまま会話を続ける。
やっぱり世良さんに誤情報を(彼女たちはそう思っていない可能性があるのだけど)吹き込んだのは、鈴木さんと毛利さんだったらしい。
仲がいいのは結構だけど、何故私と安室くんの話題が共有される事態になっているのだろう。

「ああ。ボク、昔にあの人と会った事があるような気がして。ボクの兄と一緒に居たんだ」
「そうなんだ?」

ただただ意外である。それが安室くんなのか降谷なのか、はたまた別の誰かなのかは分からないけれど、彼の過去に少しでも触れている人に私は出会ったことがなかったからだ。いま世良さんに言われるまで、気にも止めていなかった事実だけど。

「本人に聞いたら知らないって言われちゃったんだけど、そしたら彼女たちが高階先生に聞いてみたら何か分かるかもって」
「…うん」
「昔からの恋人だからって」
「間違った情報です、それ…」

どうやらそうみたいだね。世良さんがけらけら笑うのに合わせて短い癖っ毛が揺れるのを横目に、長く息を吐いた。頭の中ににやつく鈴木さんと毛利さんの姿がよぎる。

それから改めて彼女から安室くんについて質問がされたけれど、嘘をつかなくたって私に答えられることは何もなかった。彼女が安室くんを見たという時期は、私はいなくなった彼の事を必死に忘れようとしていた時期と重なっていたからである。




「ちなみにこれは質問じゃないんだけどさ」
「なんでしょう……」
「その安室って人が伝言頼んできたらしくて」
「生徒に何頼んでるの安室くんは」

自分の眉が歪むのが分かった。私の連絡先を知っているくせに、わざわざ彼女たちに伝言を頼むとは。この時点で嫌な予感しかしない。

「『泣かせたお詫びがしたいからそろそろおいで』だってさ」
「………ちょっと待って」
「え?」

私となかなかにプライベートな部分を全開にしているその内容に頭を抱えた。安室くんにとっても知れ渡るのは都合が悪いと思っていたけど、違ったのだろうか。

「…それを、安室くんが?」
「みたいだね。ボクは聞いてなかったけど、彼女たちはやけに盛り上がっていたよ」
「ええ…」

私は結局、安室くんがあの日ポアロに戻ってから梓さんにどう説明したのかを知らない。度肝を抜くような出来事をでっち上げたりはしていないだろうけど、どういう事になっているんだろう…。
自分の事なのに自分だけが分かっていないのはなかなか気持ち悪いもやもやが生まれる。かといっていま目の前の世良さんに問う勇気も無い。

近いうちにポアロに行って、こっそり安室くんにあの日のことをどうごまかしたのか確認しよう。…とは思うが、

「そんなこと人づてに伝えられても、余計に行きづらくなるよね」
「……そうなんだよねえ」

ずばり私の心理を代弁して見せた世良さんにぽかんと口が開いてしまう。
特にポアロへ行くことを避けていた訳じゃないのに、そう言われたらいままで食べに行かなかったことが気まずいような気持ちになってくる。そうなるとだんだんと顔を出すのが億劫に感じるものだ。

「今週末空いてたかなあ」

けれど、だからこそ早期決着が望ましい。それは一般論というより、私の性格である。