18

例えば休み明けの月曜日なんかがそうだけれど、来なければいいと思う日があると、不思議とそこに向かうまでの時間はいつもより駆け足で過ぎていくものである。私はこんなにも早く平日が終わっていくのをはじめて体感したかもしれない。金曜日の放課後にため息をついたのだってはじめてだ。
いつもで言う休み明けの月曜日は、今週に限ってはポアロへ赴く土曜日、今日この日であった。
少しでも気分を上げようと買ったばかりのパンプスを卸してみたものの、どうにもならないことに思考を巡らせているせいか、マンションの廊下に響くその足音はどことなくテンポが悪い。ああ、行きたくない…。

周りの人間は確実に、私と安室くんの間に色恋沙汰があって、それがもつれてあの日私が泣いたと思っている。そしてきっとそれを感じとっただろう安室くんは、確認はしていないけどそんなニュアンスを含んだ説明をしているのだろう。もちろんあのにこやかな笑顔で。安室くんのフォローに全てを委ねたのも良くなかった。
それに、私が安室くんと顔を合わせづらい一番の原因は、ポアロでの出来事とはちょっとずれたところにある。それこそ色恋に片足踏み入れた内容である事を、安室くん以外は知らないと言うのもやりづらい。もっとも、知られる方が困ることではあるけれど。
あの時の行動と、それを忘れるなという言葉の意味をもう数えきれないくらい考えてはみたものの、思い出す度に恥ずかしくなってしまって結論を出すまでには至らなかった。思い出すだけでこうなのに、本人に会ったとき平静を保てる自信がない。

乗り込んだエレベーターの鏡で見た自分の表情は、叱られると分かっていて職員室に来た生徒のそれと同じだった。私は叱られに行くのでもないし、後ろめたい事をしたのでもないけれど、気まずい話題に自ら触れに行くという点では彼らと同じ心境だと言える。
安室くんから預かったという伝言を世良さんから聞いて、その時一度腹は括ったつもりだったのだ。これ以上予定を引き延ばすつもりもない。けれど今日が近づくにつれ変な緊張感は増していったし、当日の今となっては何も食べていないのにずっとお腹いっぱいである。




そもそも、安室くんは今日ポアロに出勤しているのだろうか。確認する方法が無いわけじゃ無いけれど、どの方法を使っても誰かしらから生暖かい微笑みを頂く事になるような気がして結局聞けずじまいであったのである。この間長期休みが明けたばかりなのもあるし、比較的土日は出勤していることが多いような気がしていたので大丈夫だとは思うけど…。やっぱり恥を忍んで毛利さん達に尋ねてみるべきだっただろうか。
でも彼女達、今週ずっと私と会うたびにやついてて近寄り違かったんだよなあ。彼女たちの表情を思い出して思わず苦笑いしてしまう。
エントランスのドアをくぐって飛び込んで来た外の明るさに思わず目を細めた。かつん、と真新しいヒールがアスファルトを鳴らす。





「…え」

きらきらした休日らしい風景の隅の方、マンションの外壁に、とても見覚えのある男の人がもたれ掛かっている。

「おはよう、春」
「…………え!?」

こちらに気づいて振り返ったのは、想像に違わず今の私の頭を悩ませる元凶とも言えるその人であった。いやに太陽が似合うにこやかな笑みで挨拶を投げかけてくる姿に開いた口が塞がらない。

「すごい顔してるけど」

こちらに近づいてくる姿をただ呆然と見つめていると、彼はぷ、と吹き出してそう言った。

「な、なんでいるの」
「今日、春がポアロに来るって聞いていてね」
「聞いてたならポアロにいてよ……」

さっきまで考えていた全部が見事に真っ白になってしまった私は、ひとまず新しく生まれた疑問をそのまま口にすることしかできない。けれど質問と答えがいまいち噛み合っていなくて、頭の中にははてなの数が増えていくばかりである。世良さん経由で鈴木さんにでも聞いたのだろうと見当はつくので、そこに疑問はとくになかったんだけどな。

「それが、明日からまたしばらく休むことになって」
「え、…あ、仕事?」
「そう。」
「それなら電話くれたら良かったのに」

携帯電話は私と安室くん、正確には降谷との間ではあまり使われていないコミュニケーションツールだけれど、今日は使うべきだったんじゃあないだろうか。あまり安室くんがこういう場面で失敗するとは思い難いけど、入れ違いになる可能性もあったし。

「泣かせたお詫びが電話一本じゃあ不誠実だからね」
「〜〜〜!」

安室くんのさらさらの明るい茶髪と、ゆるく巻いただけの私の髪が風で揺れる。側から見たら誰もが振り返るだろう爽やか好青年から吐き出された爽やかな発言は、その実からかいを多分に含んでいた。
降谷は謝らないって言ったし、私もそれを了承したのだから本当はこんなことをする必要なんてない。とんだ茶番だ。そしてこの茶番は、彼が毛利さん達に伝言を頼んだ時点で私の負けである。
ふつふつと湧き出る文句を目の前の男にぶつけてやりたいのを、なんとか睨みつけるだけに留めた。なにせこの人は安室透である。

「分かるけど、そう睨まないで」
「……あの日、ポアロでなんて説明したの」

少しだけ乱れた髪を耳にかけ直して、不満気なさまを隠す事なく疑問を口にした。驚きのあまりすっ飛んでしまっていたさっきまでの思考が蘇りつつある。これだけは安室くんに聞くべきことであるし、聞いておかなきゃ本当にポアロに行けない。安室くんがまたしばらく居ないのなら尚更、訂正できるチャンスでもあるのかもしれないし。

「話すために来たし、春の話も聞くから。ドライブがてら付き合ってくれると助かる」

時間はあるだろう?とチャリンと鍵を鳴らした安室くん。どうやらこの場所では腰を据えて話すつもりはないらしい。
近くのパーキングに停めたのか、いつもの真っ白でぴかぴかな彼の愛車は見当たらないけれど、はじめからそう誘うつもりでここに来たのだろう。他の人相手ならば警戒するべき誘いだろうけれど、降谷が降谷として話せる場所は限られているから、ドライブという選択肢になるのは私にとっても当然の事だった。
…でも、私と話すためだけに都内をふらついて、またここに帰ってくるつもりなのかな。なんというか、仕事前の人間に手間をかけさせるなあ……。ポアロで食べるつもりで出てきたから、お腹も空いてるし。



あ。


ドライブ以外にも、もうひとつ選択肢があるのでは。
ちらりと安室くんの方を伺い見ると、ん?と小首を傾げてくる。今日はじめてじっくり眺めた彼の顔、その目元には決して薄くはない隈が浮かんでいる。
…彼が乗るかはともかく、提案はしてみてもいいかもしれない。

「…あー、…安室くん」
「うん?」
「その……話すなら、うち来る?」








「………え?」


私はその日、十年以上付き合いのある降谷の、驚きに固まる姿を初めて目にした。