04

土曜日の半日出勤、なんて憂鬱な響きだろう。
私は部活の顧問も学級の担任もしていないし、歳も若い方な事もあって雑用がまわってくることが多かった。それでも人間関係はおおむね良好だし不満はないけれど、土曜日の早起きが億劫なことに変わりはない。
薄手のカーディガンさえ羽織れば十分暖かい気温の中、これから行くのが米花百貨店ならなあ、と内心ため息をつきつつ向かったのは学校近くのスーパーだった。
土曜日の職員室はいつもより賑やかである。買い出しに行くと一言いえばいつもの如くあれやこれやと頼まれ、しまいには料理部で使う調味料や運動部で使うだろうスポーツドリンクの粉末の袋まで頼まれる始末となったのだ。




「ええっと…」

口々に挙げられた商品名を書き殴ったメモを片手にカートを押し歩く。買い出し以外にはほとんど使ったことの無いこのスーパーではどこになにがあるかなんて覚えているはずもなく、案内の看板とメモを交互に見ていた。

「危ないよ」
「わ、すみませ……あ、」

知らずうちにあらぬ方向へ進んでいた私のカートを押さえてくれたのは、一月はその姿を見ていなかった安室くんであった。

「奇遇だね。見たところ春も買い出しかい?」
「そうなの。ここ全然こないから時間かかっちゃって」

どうやら安室くんもポアロの買い出しに来ているらしく、彼のカートの中は小麦粉や生クリームなどが並んでいた。

「それなら良かったら一緒に回ろうか、僕はよく来るんだ」
「えーっと、…お願いします」

この前コナンくんと話してから、少しだけこの男に会いたくないと思っていた自分がいた。それでも安室くんの申し出を受け入れることにしたのは、いまここで断ったところで、この買い物リストを消化するまで同じ場所を何度もぐるぐるしてもう一度彼と出会う自分が簡単に想像できてしまったからである。





「最近ポアロでも会わなかったけど、元気そうだね」

土曜の朝、スーパーは意外に人が少ない。並んでカートを押しながら話すのは、ポアロでするような世間話だ。隣を歩く安室くんはこっちに調味料で、とかさりげなく私を誘導しながら私に合わせてゆっくり歩いてくれている。腕捲りした白色のシャツにジーンズというシンプルな格好だ。

「安室くんが居なかったんだよ。安室くんも…」

元気そうだね、そう続けるつもりでその顔を覗き込むと、言葉が途切れた。

「…、疲れてる?」
「ええ、そう見える?」
「目立たないけど、クマできてるよ」

褐色の肌で分かりにくいけれど、その目元にはクマが浮かんでいる。よく見たら頬だってこけているし、もしかしたら相当忙しい生活を送っているのではないだろうか。よく考えてみると警察の仕事でポアロにいるとはいえ、警察としての仕事がない筈がない。それにこの間コナンくんが、毛利さんのお父様の元で探偵助手もしていると言っていたし。…寝る時間、あるのかな?

「っ…」
「あっ、わ、ごめっ」

無意識に伸ばしていた右手が安室くんの頬に届く頃、彼がピクリと小さく身を引いたのではっとしてその手を引っ込めた。

「こちらこそごめん、驚いてしまって」
「安室くんが謝ることでは!ごめん、無意識に…」

眉を下げて困ったように笑うそれは、降谷零では見たことのない表情である。自分の行動に恥ずかしさがこみ上げた私は、誤魔化すように側にあった水のペットボトルをカートの中へ放り込んだ。帰り道に飲むことにしよう。

「…うん、でも、そうだね。ちょっと疲れているかな」
「ちゃんと寝なきゃ駄目だよ」
「ありがとう」

素直に疲れを認めた安室くんがくしゃりと自身の前髪を乱す。そのままその手はこちらに伸びてきて、私の頭の上に乗せられた。




「まったく、春には敵わないな」
「え……」

ふ、と小さく息を吐いて彼が笑う。今見せた表情は、たしかに、降谷零の物だった。
乗せられた手はすぐに退けられる。固まる私を置いて「あとはこっちかな」と、そそくさと進んでいく姿はもう安室透に戻っていたけれど、私はずっと先程の笑顔が頭から離れずにいた。

その顔は、私を突き動かすには充分すぎる。




「…安室くん、」

数歩先の背中に向かって声をかける。その声はきっと少しだけ固くて、でも今しか言えない事だと私の頭の中で誰かが急かした。

「どうしたんだい?」

カートを端に寄せ、にこやかに振り返る彼の目の前まで歩いていく。

「コナンくんがね、安室くんについて聞いてきたの」
「…へえ?あの子は少し、好奇心旺盛が過ぎるね」

ふむ、と顎に手を当てて困った仕草をする彼の目が少しだけ鋭くなった。やっぱり彼にはコナンくんに探られるだけの何かがあるのだろう。けれど今も、これからだって、そんなことはどうだっていい。

「それで、私も安室くんに聞きたいことがあったんだけど」
「春が?」
「でもそれより、安室くんに言いたい事が出来た」

スーパーのドリンクコーナーでなんて言うことじゃない。でも私をこんな気持ちにさせたのは目の前のこの人だ。学生時代だって、私を突き動かしてきたのは、この人だ。

「私、安室くんにまた会えて凄く嬉しい。これからもポアロに行くときは、安室くんに会いに行くときだよ」

安室くんの顔を見上げて笑顔を向ける。私がポアロに顔を出すことをどう思っているのか、それを彼に聞きたいと思っていた。たまたま再会してしまって昔のよしみで突き放せないだけで、彼の今の生活に私という存在は厄介なのかもしれないと。それならもう私はポアロに行くべきではないと。

けれどその前に、私がどう思っているのかを伝えるべきだったのだ。彼の気持ちばかりを詮索するのは不誠実である。
幾分かすっきりした私はそのまま続けた。

「でもそれが安室くんにとって良くないことなら」
「そんなことない」
「もう行くのは……え、?」
「そんなこと、ないよ。絶対に。」

…あっちで最後だから、歩こうか。
そういってカートを鳴らしだした安室くんに、私も自分のカートを掴んでガラガラと追いかける。

「えっ、あの、」

先程よりも早歩きな安室くんを追いかける私は小走りになっていた。その道中でポイと彼が私のカートに放り込んだのはスポーツドリンクの粉末タイプだ。…いつのまに私のメモを見たのだろうか。

「紙とペン」
「へ」
「紙とペン、持ってたら貸してくれないかな?」
「あ、うん、」

手帳とペンは常に鞄の中に入っている。安室くんが止まってくれることはなかったのでわたわたと慌ただしく鞄からそれらを取り出して、安室くんの方へと突き出す。
すると彼は立ち止まりなんの躊躇いもなくわたしの手帳の後ろの方を開いて、カートの持ち手部分を台にしてボールペンをそこへ走らせた。

「えっと…?」
「ありがとう。いいボールペンだね。」

すぐにぱたんと閉じられたそれが謎の言葉と共に返される。頭の中がはてなでいっぱいになる私を見て安室くんは楽しげに笑い、止めていた足を動かし出した。

「もう買うものは大丈夫そう?」
「えっと…」

隣に並んで、今度はまたゆっくりと歩く。ポケットにしまっていたメモを開いて買い忘れがないか確認していると、メモに影が降りてくる。




「"俺"の番号だから」
「っ」

特売品を知らせる店内放送で賑わう店内で、私の耳に低い声が響くのは一瞬だった。疲れすぎてネジでも飛んでしまっているのだろうか。いつもは降谷のふの字も見せる素ぶりがないのに、今日は一体どうしたというのだ。

「ふむ、大丈夫そうだね。行こうか。」
「い、行きましょう、うん、」

それからレジを終えて、私のそこそこに軽い荷物とは打って変わって重そうな袋を二袋も抱えた安室くんは颯爽のあの白い車に乗り込み去っていった。私はそのまま文房具屋へと足を向け、なんとも無かったみたいに学校へと戻る。まるでスーパーの中であったことが無かったみたいに。

ああ、土曜出勤だって、たまには悪くない。