05

「もしもし」
「、もしもし、高階です」
「はは、分かってるよ。電話ありがとう」

"次の水曜夜九時にかけて"
この間わたしの手帳に降谷が書き込んだのは、携帯番号とその一言だった。見覚えのある読みやすい字は、学生時代に勉強を教えてくれていたのと同じ字である。
今日まで何度も何度もその番号の羅列と短いメモを読み返し、今日になってからはやたらに時間が気になった。授業中は流石に気にならなかったが、移動の度に時間を確認していたように思う。それに目敏く気づいた鈴木さんに放課後捕まり、「先生、今日もしかしてデート?」だなんて声をかけられるのだから、私は恐らくこの時間を楽しみにしていたのだ。
けれど仕事を終えて帰宅し、実際に時間が迫ってくると私の心臓はだんだんと、必要以上にうるさく音を立てた。しんとした部屋でその音がやたら大きく聞こえるのでテレビを付けたけれどほとんど意味はない。ここまでひとつのことで頭がいっぱいになるのは新任の挨拶の時以来のように思う。

そして心臓の音が落ち着くこともないまま約束の時間は訪れ、緊張がそのまま声に出たのが冒頭の言葉である。

「もう仕事は終わった?」
「さっき帰ってきたところだよ」
「そうか、おつかれ」
「ありがとう。…降谷、は?」

"俺"の番号だから、そう言って渡された番号だし、電話に出た口調も安室くんの時とは違っていた。だから降谷と呼んでもいいと断定して、けれど恐る恐るその名を口にする。

「俺は休憩中。…春に降谷って呼ばれるの、再会した日以来だな」

どうやらその名前を口にした事は間違いではなかったようだ。心なしか声に弾みがあるのは、私の気のせいではないと思いたい。私はその声に、瞬く間に緊張を解されたのだから。

「いつもは安室くんだもんね」
「だなあ」

なかなか板についてるだろ?と降谷は言った。砕けた口調の降谷と話すなんて、それこそ学生時代以来である。

「…堪えてるんだ、これでも」
「堪える?降谷が?」
「自分のせいとはいえ、春に他人行儀にされるのはなかなか落ち込むぞ」
「落ち込んでたの?」
「ああ、お前がスーパーでああ言ってくれるまではな」

昔からそう簡単に弱みなど見せてくれる人間ではない。その降谷が落ち込んだということと、それを私にさらりと伝えた事。それは、降谷が私と同じように、今でも私を親しく思ってくれているなによりもの証拠になった。年月がわたし達を他人行儀にさせたわけではなかった。それが分かった途端ににやけ出す頬を、誰も見ていないのについ左手で押さえる。

「それで、俺も伝えておきたくてかけてもらったんだ」
「ん?」

感情は意外に声に出やすい。にやけた顔を必死に戻して、この浮ついた心を悟られないように短い言葉で先を促した。




「俺も、春にまた会えて嬉しいよ」

はっと息を飲んだのに、もしかしたら気づかれてしまっただろうか。本当は直接言いたかったけどな、と降谷は続けたが、とんでもない。
こんなに茹だった顔を、間違っても降谷にだけは見られる訳にはいかないのだから。

「そ、そっか、よかった」
「なに照れてるんだ、お前なんかスーパーのど真ん中で同じ事言ってたのに」
「いや…勘弁してください……」

私の今の顔は絶対に見られたくないけれど、けらけらと楽しそうに笑う降谷の声を聞いて、降谷の顔は見たかったな。ぱたぱたと熱い頬を手で仰ぎながら、そう思った。見られてはいないにしても照れているのは瞬時にばれてしまった訳だけれど。

「今度は俺からかけてもいい?この番号に」
「…それは、安室くんではなく、降谷と話せるっていう?」
「うん。俺が、俺としてお前と話したいんだ」
「、」



うれしい、気づけばそう零していた。
安室透という人格が苦手だとか、会いたくないだとか、決してそんなことはない。けれど安室くんと会話するたびにその奥の降谷を探す自分がいたのも事実だ。それはいつか"安室くん"を殺すひとつのきっかけになるかもしれない。分かっていた。だから降谷を取り除いた、安室くんとして接しようと試みれば会話は驚くほどにつまらない、まさに他人同士の会話しか出来なかった。踏み込んでいいラインに引き入れてくれた、あのスーパーでの出来事以外は。
それが今こうして、あろうことか降谷の方から繋がりを持つことを提案してきたのだ。降谷自身の言葉で。


脳の奥がぐらりと揺れるのを感じる。


「っそ、」
「ん?」
「そういえばね?コナン君が言ってたけど、毛利さんのお父様のところに弟子入りしてるんだって?」

私は今何を言うつもりだった?何かとんでもないことを口に出してしまいそうだった気がして、無理やりに話題を変える。雰囲気って電話越しでも漂うものなのか…。

「そうか、言ってなかったな。どちらかと言えば、ポアロよりそっちが安室透の一番の仕事なんだよ」
「な、なるほど?仕事が多いんだね」

正直に言えば警察である降谷がポアロや探偵事務所で働く理由はこれっぽっちも分からない。ただ潜入、という形を取っていることから大体の部署の想像がつくだけだ。けれど私は警察の組織図なんてほとんど分からないし、結局は昔と同じ認識のまま。『降谷は警察官である。』はっきりと言えるのはそれだけなのだ。

「でもそれがあまりいい仕事じゃなくてな、お陰でコナン君には完全に悪者だと疑われてる」
「あんなに可愛い子に疑われるなんて、どう転んでもいい人じゃないよ」
「はは、間違いない」
「忙しい?」
「今日は三日ぶりに布団で寝れる」
「みっ…!?」

淡々と告げられた内容に言葉を失う。教師も決して暇とは言えない職業だけれど、三日も寝ないなんて事はまずありえない。

「私は降谷が悪者かどうかよりもちゃんと食べてるかの方が気になるよ…」

降谷は電話の奥で、春らしいな、と言って喉を鳴らした。





『じゃあ、またかける』

その言葉を最後に、電話は簡単に私と降谷を切り離した。これでまたしばらく、降谷を安室くんとして接する日々になるのだろう。それでももう、この間までのような引っかかりはない。

「はあ…」

なんだか夢でも見ているみたいだ。本当に私、また降谷と話せるんだ。通話履歴に残された番号を電話帳の降谷零の欄に追加する。もう降谷零の番号の先に待つのは、無機質な案内音声なんかじゃない。それだけでなんだか、私の世界がひと段階明るくなるような気さえする。

「よし」

私を急かすものなんてなにもないというのに、私は小走りでお風呂掃除に向かった。蓋が開きかけた感情に、もう一度蓋をして。





気持ちが積もりに積もって、溢れて、どうしようもなくなることもある。今の私は、それを知ることはない。