1.越前の月
夜も更けた頃。利三が執務を終え居室に戻ったとき、行詠の姿はそこになかった。暗がりを一人で歩くは思えない。常であってもそうだが、今の状態なら尚更。屋敷の中を軽く歩けば、彼女の姿はあっという間に見つかった。万一がないとも言いきれない。無事であったことに安堵する。
月を眺めている行詠の姿がそこにある。稲葉山城で鍛錬に付き合った昔の頃から変わらず、彼女は武人としての矜恃を兼ね備えている。行詠が現状を憂うとしても、利三から見た彼女という人はそうであり続けている。
「行詠」
利三は、彼女の名を呼んだ。本来ならば、彼は行詠の名を呼び捨てることができるような立場ではない。行詠は斎藤道三の娘で、義龍、並びに帰蝶の妹なのだ。姫として敬う立場にある。
事実、利三はそう呼んでいた。今でも当時の癖のまま呼んでしまうことが多々ある。それは呼び捨てることの気恥しさがあるという、そんな単純な問題ではない。寧ろ、呼称そのものに対しては何も感じ入ることなどなかった。
いつまでも利三にとって行詠は多くの障害から守り抜かねばならない、貴い人間なのだ。その意識は彼女が言うところの「対等の立場」となってからも途絶えることはない。それでも利三の身体は一つしかない。守るべき人間であるとは分かっていても、その槍が向く先は彼女の敵ではなく、光秀の行く手を遮る痴れ者たちなのだ。光秀と行詠、どちらかにしかこの手を差し伸べることができないのだとしたら、利三は迷うことなく光秀を選ぶだろう。
だが、その自責、いや、それだけではない忸怩たる思いが利三にはあった。優先順位を変えることはできない。しかし、情は確かにある。だからこそ、生まれ持った関係性を簡単に変えることはできないと思っていた。彼女が変化を望んでいたとしても、こればかりは受け入れられないだろうと利三は考えている。呼称一つであっても、利三にとっては大きな決断を伴うものだった。
「利三」
行詠も、名前を呼ぶ。振り返る動作はぎこちない。表情は良く見えなかった。
「お体に障りますゆえ、早くお戻りなされ」
行詠の手を取った。どれほどここに居たのだろうか。手のひらは利三のそれよりも冷たい。何度触れても慣れない感触がある。利三よりも小さい手で武器を振るっていたのだ。道三の娘として恥じぬ戦をするために。
「だって、利三の帰りが遅いから。私たちは同じ月の下にいるでしょう。離れたところにいても、月を見ていると安心するの。あなたに心配をかけるのは、嫌だけど……以前よりは、歩けるようになったから。でももう利三がいるから大丈夫ね。……ごめんなさい、勝手なことをして」
月は、誰のもとであっても等しくそこにある。鹿介の受け売りだったが、利三はそんなことを言った覚えがある。そういえば行詠はまだ鹿介と会ったことがない、と利三は思った。行詠の知らない多くのことを、利三は知ってしまっていた。
そんな彼女に謝られてしまうと、利三は何も言えなかった。彼女を責めた所で、その原因を作っているのは自分だ。利三は光秀に従い、義景の命じるままに各地を飛び回っていた。見聞を広めるという目的もあるが、結局のところ彼らがするべきことは戦うことなのだ。それが武士としての本分だ。
傷ついたままの彼女の足は、長時間立っているだけでも負担となる。戦うことができない彼女を連れていくわけにはいかなかった。彼女はこの越前にある、与えられた屋敷で佇んでいる。義景の好意ではあったが、客将の身である手前無闇に受け取るわけにもいかないと光秀は俸禄を固辞したため、利三もそれに倣っている。行詠を思いやって最低限の住居と生活を確保することに漕ぎ着けたものの、ひもじい思いを、そして一人で孤独にさせているという大きな負い目はあった。
行詠の未だ癒えない足を案じる気持ちは、彼女本人よりも利三のほうが大きいのかもしれない。月の明かりが降り注ぐ闇夜。彼女がその美しさに魅入られることを拒絶する権利はない。そんなものに構うくらいならば自分が、などと言えるほど、彼女のことを愛しているのだという自信はない。愛を伝える間もなく、利三は戦いに明け暮れている。越前に帰還している間も、慌ただしく過ごすことがほとんどだった。ゆえに行詠の疼く傷跡……心に深く入り込むまでもなく触れることができる、表面上の災いを利三は憂虞しているのだ。
「いえ……そなたにそのような思いをさせたのは、それがしゆえ。しかし、今は一人ではないのだ。それがしをお頼りくだされ」
行詠は利三の腕を掴んだ。
こうしてしがみつく彼女を横目見る。やっぱり、守らなければいけない存在だと強く思う。だが、そう思うだけではどうにもならないのだ。もしこの屋敷が何者かに襲撃されたならば、今の彼女は一溜りもない。想像するだけでぞっとする話だ。それでも利三は、きっと光秀の命令を優先する。もし彼が捨て置けと言ったのならば、全てを捨てることができる。最も、光秀がそんな非道なことを命じるとは思えない、という信頼も利三にはあった。しかし、この先が、未来がどうなるのかなど誰にも分からない。事実、その分からなかったことが巡って二人は契りを交わしている。
夫婦という限りなく近い存在であっても、二人が共に過ごす時間は、決して多い方ではない。同じ戦場に立つという意味では共に過ごすことも多々あったが、現在の行詠にその役目は与えられていない。
斎藤という大きな家の下で生きていた頃は、共に敵に当たることができた。織田が侵攻してきたときもそうだった。
利三は光秀と行動を共にしていた。行詠は、光秀の主君の娘なのだ。案じる気持ちは当然あったが、彼女も武人の一人。彼女の腕もさるのとながら、兵を指揮する能力はやはり、蝮と呼ばれた男の血を引いているだけあった。
そうした日々が狂ったのは、義龍が道三を討とうと挙兵してからだ。
「ねえ、利三。あなたには私と光秀、どっちが大切かを尋ねるなんて、とんだ愚問だと思っているけど……あなた自身が思っているよりも、あなたは私のことを想ってくれているわ」
「なにゆえ、そう思われるのです」
「どっちが大切なのか」と率直に問われていたならば。利三は自制の塊のような男だ。常に冷静で、そう見えて心の奥底には確固とした信念がある。光秀という男の為ならばどんなことでもやってのけるような炎が、心の中では常に燃えている。それでも、この質問には直ぐに答えることができなかっただろう。行詠の投げかけた問いだとしても、光秀のほうが大切に決まっているからだ。そう信じてやまないがために、行詠のこの言葉は予想外のものだった。
「そうじゃないと、あなたは私のことを受け入れてなんていないもの。私、あなたにも弓を引いたのに。……足手まといになったことだって、あるのに」
光秀よりも行詠のことを優先した日。利三にも、そのような日が確かにあった。
その時ばかりは、光秀にどう思われてもいいと思えた。それは信長と帰蝶の祝いの席、義龍の命により光秀に唯一槍を向けた日と同じ感情だった。
そのことをきっかけにして、利三は行詠と距離を縮めることとなる。
利三の脳裏には、未だその時光景がはっきりと浮かぶ。それは行詠も同じだろう。
利三含む明智の人間は、長良川で道三を援護しようと動いた。だが間に合わなかった。義龍は道三を討ち、斎藤家中の兵を自らの指揮下へと置いて、織田、明智の軍勢と戦った。この戦いでは織田、明智の軍勢は最終的に撤退し、美濃は義龍の手中へと落ちた。
この戦いで利三が敵として対峙することになったのが行詠だったのだ。