2.長良川の記憶
行詠は、長良川で兵を率いていた。到底戦えるような状態ではなかった。対織田軍の前線で、見知った人間とも刃を混じえる負担は大きい。既に兵は倒れ、彼女自身も疲弊している。当然のことだった。

加えて、あの戦は行詠の兄が父親を殺すためのものだった。このような下克上など、乱世の中では起こりうる出来事だ。行詠は、それを分かっていながらも受け入れることができなかった。行詠にとって道三は尊敬するべき人間であったし、義龍は粗野ながらも妹には心優しい兄だった。

優しい兄は、美濃を治めて行詠を自由にするのだと言った。確かに、道三の呪縛は彼女の姉、帰蝶を蝕んでいたように、行詠にもあった。乱世を生きる道具として、将来嫁ぎ先の夫となった人間さえも利害が合わなければ躊躇なく殺せるような技術を仕込まれて育った。武器を振るうこと、兵を指揮すること……命を奪う行為を臆せずに行えるのはその教育の副産物だった。父親の為に尽くすことに、行詠は疑問を持たなかった。

帰蝶は自分にできることは他にないからと父親の命令に従っていたが、行詠は自分にできることは、父親の為に戦うことなのだと思っていた。その考えは、義龍にとって大層気に入らないものだった。結局、そこに自分の意思があるとは思えない。自分の意思でこの戦乱の中を生きてこそ一人前であるのだ。義龍はその一歩として、行詠に命じる。彼女を、実の妹を前線へと送り込んだのだった。行詠は反発しなかった。これでは命令に従うだけの人形と何ら変わりはしない。義龍はうんざりした。やはり、父親を殺して正解だと彼は思ったことだろう。ここから行詠を矯正してやれる、そうすることが正解なのだと思った。

行詠が反発しなかったのは、たとえ父親の仇だとしてもそれが兄の命令だったからだというものにすぎない。帰蝶を含め、妹には優しい兄に逆らってまでやるべきことなど見つからない。逆らおうという気力などない。こういった無気力な部分を義龍が嫌っていることも知っている。だが本当に逆らった所で、彼、そして彼に従う従順な臣下たち……道三を殺すことに抵抗をしなかった者たちに殺されるのは見えている。事実、義龍は道三旗下の人間を脅しつけて従え、織田や明智と戦えと言ったのだ。末路は既に見えていた。

兄のやることは、正道ではない。正しいと思えないから、行詠は力を発揮することができなかった。けれども裏切ることもできなかった。道三からすれば義龍はとんだうつけ者だったが、行詠もまたうつけだった。彼女は実の所、道三にも義龍にも縛られていた。この瞬間まで自覚していなかった。彼女が自らの意思として考えていたものは作られたものだったのだ。父や父の治める国、民の為に戦っていたつもりだったが、その父がいなくなった後のことなど考えもしなかった。嫁に行ってから自らの立場を考えればいい、と行詠は思っていた。嫁げば自らの役目は与えられる。だがその時は来ないまま。全てが遅かったのだ。

兄、義龍の為に戦わなければいけない。そう思っていても、次第に行詠はそれまでには感じたことのなかった恐怖を感じた。

これからの自分は、どうすればいいのだろうか? 行詠は薙刀を振るう腕を止めた。前線に置かれている以上、兵の犠牲は止めることは不可能だ。それに、敵の中には見知った人間も多くいる。実姉に加え、利三や光秀もいるのだ。

これ以上戦い続けることに意味はあるのだろうか? 義龍から与えられた兵をこれ以上消耗させることもできない。多くの兵を指揮していると、恐ろしいことに彼らを命ではなく「数」と認識してしまう。だがこの不毛な争いで兵をいたずらに死なせることが最善であるはずがない。 行詠は兵を、正しく命として認識している。

撤退する。どこに? 兄の元に決まっている。何と言われるのだろうか? 瞬時に想像する。義龍は優しい兄だ。自分が後を継ぎ国を治めた暁には、お前を誰でも好きな男の元に嫁がせてやる、お前が選べばいい、お前が幸せになるのならば……策略なんてくそ喰らえだ。そんなことを言っていた。だが、その兄の命令……織田軍を蹴散らすという目的は、完全に果たしていない。

見放されるかもしれない。それほどまでに、この時の義龍は手に負えない獣と化している。いくら優しい言葉をかけていた過去があるとはいえ、過去は過去でしかない。だって、兄上は父上を殺してしまったのだから。

このまま戦っていれば、援軍が来るかもしれない。道三を救うという目的を達せなかった以上、敵軍は退くかもしれない。確証のない未来。 行詠の指先は震えた。これ以上迫る敵を自らで屠ることができるという自信は消え失せた。

降伏する? 自分だけが? 行詠に残る選択肢は限られている。僅かに残った兵を、義龍の元に逃がしさえすれば。彼らは 行詠に従うという確固たる意志を持っているわけではない。そうなれば、惨めな思いをするのは自分だけで十分だ。

道三を殺した悪人に従っている以上、贅沢なことは何も言えない。道三は信長からすれば義理の父親であるし、光秀からすれば主君にあたる人間だ。兵を逃がしてほしい、自分は降伏する……そんな願いが受け入れられるかどうか。怒りに逸った人間は、何をするのか分かったものではない。それこそ義龍のように。

そんな行詠の前に立ちはだかったのは、良く見知った男だった。

「利三。あなたと敵同士になってしまうなんてね……あなたは私を殺す? 私……何も分からないわ」

義龍の軍勢の勢いは強まるばかりだ。前線にいるのは 行詠だけではない。同じように、従わざるを得なかった親道三派の将もいる。

目の前の男、斎藤利三も兵の犠牲を生みながらそれでもなお戦っているようだった。

既に織田軍側の将のうち、撤退した者もいるという。道三の救出がままならなかった以上、戦う意味はないという判断も頷ける。だが利三はそうしなかった。

行詠は薙刀を構え直した。できることならば戦いたくはない。だが相手はいくら親しくしているとはいえ敵であるのだ。

利三の槍は、馬上から行詠に向けられている。鋭い瞳は常と変わらない。

公私を弁え、無駄な感情を戦に持ち込まない彼の性質を行詠はよく知っている。何もしないうちから、義龍の軍勢が優勢であるのに彼に降るという支離滅裂な行動が受け入れられるはずがないだろう。戦う覚悟が必要だった。

「……姫様」

利三は、一度は構えた槍を下ろした。

「姫様が此度の乱に加担するのならば穿つことも辞さぬ、と思っておりましたが……かように怯えられては、その決意も揺らぎまする」

「……どうして」

利三らしくない言葉だった。その言葉に、さらに怯んだ。

この男は信長と帰蝶の婚儀の際、義龍による信長への襲撃に加担したことがある。

それはこの男の意思ではなく、逆らえば明智家の立場が危うくなると踏んでの行動だった。最も光秀本人は信長に味方をし義龍に対抗したのだったが。その後、利三が光秀から下された処分がどのようなものであったかということまでは行詠は把握することもなかった。だが、利三は結果的にそれが主家の為になるのならば、主と敵対することも臆さない男であるということは明らかだった。そのような人間が槍を下ろす。それも、私情を露わにして。

「……殿は……あなたの身を案じておられた。それがしはそれでも、結果として姫様が障壁として立ち塞がるのならば戦いを避けることは不可能だと……しかし、此度ばかりは……」

槍を地面へと向けた無防備な姿のまま、馬の歩みを進める。行詠の傍にいる兵は利三に槍や刀を向けたが、行詠は制した。

「何がしたいの、あなたは……ちょ、ちょっと! 利三!」

馬から降りた利三が槍を投げ捨てた。戦場において有るまじき行いに行詠は驚く。兵は隙を突いたとばかりに武器を構え弓を番えた。利三は瞬時に行詠を横抱きした後、馬上に彼女を乗せ自らもまた元のように馬に跨った。急な利三の行為に行詠は薙刀を落としてしまったが、彼は自分の得物も彼女のものも間もなく取り返し、そのまま馬を走らせた。

意味が分からなかった。

利三が率いているのであろう兵に合図を出す。どこに行こうというのか、彼らは主の指示に従い、共にこの地を離れだした。

「姫様をこの地に留め置くことなど、それがしにはできませぬ。ご容赦いただきたい」

「……捨て置けばよかったのに。私、本当だったらあなたを……」

「なりませぬ。姫様がそれがしに敵意を向けなかったことこそが、捨て置くべきではない理由にございまする。姫様が義龍……いえ、兄君に背を向けた責任も、それがしが背負いましょう」

背後からは先程まで行詠の指揮下だった兵が弓を射る。行詠は慌てて薙刀で槍を弾いた。

利三の言う通り。行詠は兄に背を向けた。兄を裏切った。

だが、これで良かったのかもしれないとも思った。どちらにせよ、兄には合わせる顔がなかった。妹思いの兄であっても、これからも変わらず彼を信頼できるという確証はなかった。

自分だけ降伏する。そんな選択肢もあったほどだ。

結果行詠が選ばざるを得なかったのは、利三に「拉致」されたというものだった。だが、強引に拉致をされたなどという意識はなかった。

「……いいえ。私の責任は、私がとらないといけない。利三はそのきっかけを与えてくれただけ。ありがとう……」

利三が、私情を優先して行った行為だ。昔から頼れる臣下である彼の覚悟は、行詠も背負うつもりだった。

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