終.ああ、眩しいな
火の中で、書状が燃えている。それは義龍が行詠に宛てたものだった。行詠は縁側に座ったまま、全てが焼け落ちるのを黙って見ていた。利三はそんな彼女と炎を交互に眺めて、やはり行詠と同様、何も言わなかった。

「何が書いていたのか、知りたい?」

行詠は立ったままの利三を見上げてそう言った。無理な詮索はしない。行詠を信じているからだ。利三はこのまま自分が何も言わなければ、ずっと興味のないふりをし続けるだろう。行詠はそれを見越して尋ねた。

「知りたくない、とは言いませぬ」

「素直じゃないわね。それならば私に渡すまでに読めば良かったのに」

「それがしが拝見したところで、今更義龍様への感情が変わることもないでしょうな」

義龍が行詠にしたことがどうとかいう以前に、利三は彼のことを昔から良く思っていなかった。兄が利三に命令する度に従順に従いつつも不満を隠そうとしなかった彼の姿を、行詠は良く知っている。

分かりやすく言うならば。今の利三は拗ねている。存外分かりやすい男なのだ、ということを行詠は日に日に強く感じるようになった。自らが敬愛する人間には尻尾を振るご機嫌な犬のように振る舞い、そうでない人間にはこれまた犬のように牙を剥き出して威嚇する。自分よりも歳上で落ち着いていて、礼節を弁えているように見える男にしては、何とも可愛らしい一面だ。行詠は険しい表情を緩めようとしない利三を見て、微笑を浮かべた。

そんなに気分を損なわずとも、読み終わるなり破いた時点で察してほしいものだと行詠は思う。

「……いつまで経っても、結局兄上は兄上のまま。それだけのことよ、私が思ったのは。兄上は今でも私のことを自由に生きることを許されていない女だと思っている。私は自由に生きた結果、あなたの隣にいるだけなのに」

「義龍様に絆されたわけではないと思ってよろしいか」

「まさか。そういうのはあなただけで十分。最初からなかった事にしたいから燃やしているのに、絆されるなんて有り得ないわ」

書状は燃え尽きた。それを見るや否や、利三は火の処理に向かう。行詠はそれを見届けて、床を這うようにして部屋の中に入った。

義龍からの書状に書かれていたのは。「信長を叩きのめした後、迎えに行ってやる。お前はもう何もしなくてもいい」 ……そんなことが書かれていた。明智城で行詠を殺そうとした男の言葉とは思えない。稲葉山城は堅城だが、実際には義龍が思うよりも織田軍の勢いは激しいものだったのだろう。きっと、自分のことが恋しくなったのだ。最後の希望としたかったのだ。心のどこかでは憎き信長に負けるかもしれないと思っている。そうでなければこんな事をわざわざ書かないだろうと行詠は思った。

何もしなくていい。行詠は何もできないことの苦しみを長く味わった。今もそれは続いている。何もしなくていいという言葉は、自分にとって蜜どころか大きな毒であると行詠は実感している。どうせなら何をしても許してやる、と書かれていれば良かったものを。最も、彼の許しがなくとも行詠は今を自由に生きている。義龍は行詠を呪縛から解き放つつもりだったのだろうが、彼の考えは行詠を新たな鎖に縛り付けるようなものだ。それを考えようとしない義龍は単純だったが、しかしどこまでも妹思いな男だった。小さいときから背中を見続けてきた兄らしい考えだという気もした。

やがて、行詠は義龍が織田の猛攻に耐えられなくなり自刃したことを知った。父親を殺して手に入れた国を、城を、全てを、父親が信じた男に奪われる。全てを、自らの命さえも。何を思って、その死を受け入れたのだろう。

「……一つの時代が、終わりましたな。ここまでの道は遥かに長かったと言えましょう」

「そうね。……もっと悲しくなるかも、と思っていたけれど。そうでもなかったみたい。薄情なのかしらね、私は」

行詠は、義龍の死に悲しむことはなかった。結局、ことが終わればその程度の情しか残されていなかったのだ。月日が過ぎるのは残酷だ。終わってしまえば、なんてことのないように思える。義龍と歩んだ遠き日も嘘みたいで、夢だったかのようだ。行詠は最早自分の手でケリをつけることができなくなったことも、利三がいるのならばどうでもいいことだと思った。一人で抱え込む必要などないのだ。利三の手を取った時から、ずっと。この手は利三を守るためのもので、自分を悪戯に死地へと導くためのものではない。

「それがしはむしろ、安心致した」

「どうして?」

「それがしの選択は間違っていなかったのだと、自惚れることができるゆえに」

いかにも、利三の言いそうなことだった。利三とて自身の手で決着を付けたかったはずなのに、そのような素振りや感情の昂りは見せなかった。

「嘆いていても仕方がないし、これでいいのかもしれないわ。悲しまずにいられるのも、あなたがいるおかげだし」

利三が、義龍の死により一つの時代が終わったのだと言ったように。行詠の人生にも区切りがついた。

いくら家という縛りから逃れたとしても、血という縛りから逃れられることはない。しかし、行詠をその血という鎖で支配し意のままに操ることができる人間はもういないのだ。





義龍の死を経て、行詠には不思議なことが起こった。

治らないと思われていた左足が、徐々に回復したのだった。それまでは和らぐことはあれど、引きずらなければ歩けなかった足。それが久方ぶりにその本来の力を取り戻したのだ。これには医者も驚愕し、行詠に医者を紹介した義景も彼女と共に喜んだ。

薙刀を持って、大きく振るう。得物の重さを踏まえた上で片足に重心を掛けることも、大きく一歩を踏み出すことも、全てが平気だった。初めから何事もなかったように。

「兄上が私に憑いていたものを、持って行ってしまったみたいだわ」

療養生活で落ちた体力を回復させる為にも、行詠は懸命に励んでいた。あまり無理をするものではないと利三は諭したが、行詠は話半分にしか聞かずに鍛錬を続けていた。朝早くから行っていたこともあり、そろそろ休憩しようと薙刀を下ろす。様子を見に来た利三を振り返ると、義龍のことを話題に出したためか彼は渋い顔をした。

「義龍様の、せめてもの詫びの印だと受け取っておきまする。それがしは何とも複雑な面持ちに致しまするが……」

死してなお行詠に大きく影響を与え続けていることも、行詠が制止を聞かずに武器を振り続けていることも、利三は気に食わないだろうということくらい、行詠は分かっている。

「でも、戦えないよりは戦えるほうがいいでしょう? この屋敷を兄上の手勢に見つかっている以上、いつ刺客がやってくるかも分からないでしょう」

義龍が遣わした忍びは、たった一人だけ。されど一人、たかが一人であるとはいえ、その一人に命を奪われる可能性も当然ある。忍びのような索敵に特化した能力を持つ者が侵入したという前例がある以上、利三に頼りきる訳には行かなかった。ただでさえ、行詠は光秀を守る利三という男を守りたいと常々思っているのだから、このような行動を取るのは必然と言えた。

「こう思うと、兄上には感謝しないといけないわね」

「……そなたにとっての負を正へと戻しただけにすぎぬ。感謝するのは早計であろう」

「冗談よ」

分かりやすく不満を口にする利三に、行詠は声を出して笑った。

夫婦なのだからもっと砕けた口調でいいと言った行詠に対しても堅い口調を崩さなかった彼が、こう言った言葉遣いを時折するのはいつも新鮮で、きっと自分にしか見せない一面だと行詠は嬉しくなったのだ。

「とはいえ、美濃にいた頃の姿を思い出すそのお姿は、より一層可憐に思いまする」

「あら、褒めてくれるの?」

「言動に似合わず好戦的な一面がある姫であると、何度思ったことか」

現在はともかく。昔は確かにその傾向が強かったと行詠は回想した。女だからといって手加減されたくはなかったし、戦場に立つ怖さやそこに蔓延る死の匂いに恐怖しながらも、決して逃げることはしなかった。父親のことを、国のことを思えば、敵を屠ることなど容易いことだと思っていたのだ。

それは、家や血に縛られていた昔の話。戦えば、父親も兄も褒めてくれた。だが今は違う。戦いたいという思いは、誰に褒められたいとか、誰かの為に戦うなどというものではない。

利三の為に戦うということは、一見すると誰かの為に戦うということと同義に見える。だがそれは、行詠の中では違うものだとはっきり言える。利三を守りたいという、そんなことを考える自分の為に戦いたいのだ。

「懐かしいわ。……それを思い出すと、よく分かるかもしれないわね。私が、あなたのことを遠くからだけでなく、近くで支えになりたいということを」

やっぱり、その思いは変わらなかった。どれだけ納得できる理屈があっても、戦場に立つことが望みなのだ。

「……それがしがお止めになっても、意味がないのでしょうな。そなたに何かあったら、それがしは道三様にも義龍様にも合わせる顔がなくなってしまうというのに」

「よく分かっているわね、私のこと」

「夫婦である以上、当然でありまする」

「そうね、戦場では利三に心配をかけるかもしれないけれど。でも、本当は戦場でも私がいるほうが、嬉しいでしょう?」

「……否定は致しませぬ」

行詠は再び、くすくすと笑った。愛されている実感がまた、強まったからでもあった。

「だって利三は、私があなた以外の人を頼ったり、あなた以外の人に助けられるのがあまり好きではないものね」

利三は図星を突かれたかのように、顔を少し赤くして、目を逸らして口元を手で覆った。行詠が思っている以上に、利三は彼女に頼られることを求めているのだ。光秀から今行詠が言ったようなことを洩らされた瞬間こそ半信半疑だったものの、この反応を見てやはり真実だったのだと思う。

戦場では光秀のことを第一にして行詠を優先することはそう簡単ではない分、「頼られたい」という気持ちが普段から強く内在しているのかもしれない。

「せめて、戦場以外の場では……例えば城下に出るときは、それがしだけをお頼りくだされ。それがしのことを守ろうとは、思わずに」

「あら、城下に連れて行ってくれるの? 嬉しいわ」

折角城からほど近い所にいるというのに、城下の景色もろくに知らないのだ。それを知ることができるという喜びが先行してしまった。

「ずっとここにおられるのも窮屈ゆえ……ただ城下とはいえ、ご油断なきよう」

「分かっているわ。危なくなっても、利三が守ってくれる。そうでしょう?」

「その通りにございまする。それがしに万事お任せを」

利三が力強く頷く。その表情を見ていると、こんなに分かりやすい人だったかと不思議に思ってしまう。利三が嬉しそうにしている姿を見て行詠が嬉しくならないわけがないので、これで良しとした。

何事も役割分担が大切である。戦場では行詠が利三を、それ以外の場では利三が行詠を案じ、その盾となる。これで一応の折り合いはつくだろう。

ここまで辿り着くまでに、色々なことがありすぎてしまった。結局どんな事があっても揺らがなかったのは、互いに対する大きな想いだけだ。

「ふふ……楽しみだわ。昔もお城の周りをあなたと一緒に歩いたことがあったけれど。まさかこんなことになるなんて、分からないものだわ。あなたが私のことを、本当に大好きであることもね」

「この気持ちは生涯揺らぎませぬゆえ、お覚悟を」

「私も同じよ。だって、片時も離れたいなんて思わないもの」

太陽の光が眩しい。この光の下を共に歩めるのだと思うと、全てが輝いて見えるようだと行詠は思った。

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