9.稲葉山城からの便り
翌朝。利三は目を覚まして、隣に行詠がいないことに気づいて飛び起きた。彼女を妻としてから同じ部屋で寝起きするようになったが、利三は欠かさず行詠よりも先に目覚めているのが常だった。本来ならば光秀に何かあった時のために近くにいるべきであったものの、光秀本人の勧めで夫婦水入らずに過ごせる空間を確保したのだった。昨日のことを思うと、主君のその計らいは正解であり、また貧乏な毎日の中でも居住地だけは立派なものを用意してもらったことに改めて感謝した。

昨晩のことだ。利三はこれまで自身が背負い続けていた、行詠への思いをある程度解放することができたと言ってもいい。夫婦としての在るべき姿に終着点はないし、これからも彼女のことを愛し続けるという自信がある。

行詠から打ち明けられた懺悔も、利三にとってはそんな自信を揺らがせるどころか、さらに強めるものでしかなかった。本来は、そもそも戦わなくても許される立場であるのに、それでも戦いたいのだと望む姿はより一層庇護欲を掻き立てられた。利三の盾になりたいと望む彼女にとってそれは不本意であるにも関わらず、だ。

結果はどうであれ、利三が行詠に語った言葉通り、愛おしいと感じるほかなかった。ろくに夫らしいことをしてこなかった自分に縋り尽くそうとする彼女のためにも、研鑽を積まなければならないと利三は思った。行詠が頼るのは自分だけであってほしいという感情に変化が起こるはずもなかった。

しかし、今の自分の体たらくを見て利三は無性に地団駄を踏みたくなった。光秀や行詠には礼儀正しく品行方正である一面しか見せることはない。髪も寝巻も乱れたままの己の姿を見てぞっとする。明らかに寝過ごしてしまっているし、こんなだらしない格好のまま光秀や行詠に会うわけにはいかない。

今日は珍しく、何もやることがない。だから昨晩、素面でありながら調子に乗りすぎてしまった。恥じるべき愚行だ。とはいえ一日を通して光秀の顔を見ないわけにも行かず、鍛錬なり城下の見回りなり、彼から指示されたなら何でも付き合うつもりであった。急いで支度をしなければ、と利三が思った時、障子が開いた。

「おはよう、利三」

「行詠……」

「ふふ、利三もそんな表情をするのね。昨日もまた、あなたの知らない表情を知ったばかりだったのに」

利三は情けない姿を見られてしまったという羞恥から、一気に頬が熱くなるのを感じた。昨晩、彼女と閨を共にしたときよりも恥ずかしった。行詠は早くに目を覚ましていたのだろう、いつものように着物を身に纏っている。いい加減彼女に適した新しい着物を買ってあげたいものだ、とこの場には相応しくない考えが浮かんだ。ほとんど身一つで明智城を脱したから、戦装束以外には旅の途中で適当に買ったり報酬として貰い受けた安物の着物しかないというのは、光秀たちの共通事項だった。光秀がこの生活を受け入れている以上、これ以上の進捗は正式な士官先を見つけない限り見受けられないだろうが。

「その、殿は何か仰られて……」

「今日は何も予定はないのでしょう? 光秀が言っていたわ。それと、私から光秀にも。利三はきっと疲れているから、今日一日はそっとしておいてもらえると助かるって」

妻どころか主君にも迷惑を掛けている。勢いのままに行ってしまったこととはいえ、軽率な行いだったかもしれないと利三は思った。後悔はしていない、のだが。

「ああ、……世話をかけ申した」

「いいえ。まだ時間はあるし、ああは言ったけど光秀に会いに行くのもいいと思うわ。今頃は自分の部屋にいるんじゃないかしら。さっきまでは一人で刀を振り回していたけれど」

行詠の言葉に急かされるようにして、利三は慌ただしく支度をして光秀の所に向かった。よくよく考えれば特に慌てる必要もないのだが、行詠が光秀の元に行くことを妙に促すので利三は従うしかなかった。

「来たのか、利三」

「行詠に、わけも分からず急かされましたので。何か殿の口からしか言えないことでもあるのかと……」

光秀は行詠の言葉通り、自室にいた。傍に置かれているのは兵法書で、非番にも関わらず研鑽に勤しむ姿はさすが殿である……と感慨に耽けている場合ではない。

「うん? 特に何もないが……今日は城下に行く予定もないし、姫様の傍にいればいいだろう? お前が今日、珍しく姫様より目覚めるのが遅かったことも既に聞いていたからな。いいんじゃないか。たまにはそんな日があっても」

「……」

「姫様なりの気遣いかもしれないぞ、俺と話さない日がないほうが珍しいのだから。もしくは……今日のように利三と一日中いれる日の方が少ないから、無意識に一人でいることを求めてしまったのかもな」

結局、行詠が急かすままに光秀の元に来たことは徒労だったというわけだ。何も分からず利三は再び行詠の元に戻った。一人でいるほうが彼女によって心地よい、とはあまり思いたくなかったが、光秀の言うことにも一理はある。行詠は帰ってきた利三を見上げた。

「あら、もういいの?」

「殿からは、そなたといるほうが良いのではとの言葉を受け申したゆえ」

「……そうなるわよね。ごめんなさい、何だかあなたを無理矢理追いやってしまうようなことをして。あなたといるのが嫌だとか、そういうのではないの」

とりあえず、行詠の言葉を聞いて利三は安堵した。自分だけが浮かれ続けているようではどうしようもないからだ。

「いえ。……恐れながら、なぜそのようなことを」

「何だか私、昨日からずっと舞い上がっているから……あなたに変なことを言ってしまったら幻滅されるかも、と思ってしまって」

「幻滅などとても。どんな言葉でも、それがそなたのものならばそれがしは受け入れまする。今のその言葉だけでも、幸せゆえに」

「そうよね、利三はずっと、そういう人。だからこそ私はここにいるのね」

改めて考えると、何もせずにいられる日は利三にとって数少ない貴重なものだ。行詠と共に過ごすにあたって、何をすべきなのか。確かにその答えはすぐに出てこない。行詠の体のことを考えれば尚更だ。同じ部屋にいて、黙っていても何を思うこともなく、その自然な状態を享受できる。二人はそんな関係性を築いている。それがかえって、行詠には喜びとともに気恥しさを生じさせていた。たったそれだけの、なんてことのない話だった。たまにはこうした平凡な日常を味わうのも悪くないと利三は思った。




暫くそうした日々を送る中で、ここ越前にもある報がもたらされた。

信長が、義龍の治める美濃……稲葉山城に攻め入ったというものである。織田軍の中には行詠の姉、帰蝶の姿もあると。行詠にとっては他人事ではない出来事だ。利三にとっても、馴染みのある地が今大きく変わろうとしていることは見過ごせないことである。何より城の主である義龍は行詠の兄であると同時に、光秀の叔父たちの仇である。利三からすれば、憎むべき人間だった。自らの手で攻め入ることができないことを悔やんでしまうほどに。

「稲葉山城を落とすなんて無謀だと思ってしまうけれど。姉上たちなら本当にできてしまいそう。そう思ってしまうわ。兄上は今何を考えているのかしら」

「仕方のないこととはいえ、馳せ参じることが出来ずにいることにもどかしさを感じまする。決着をつけねばならぬ相手だというのに、ただ黙していなければならぬこの現状はあまりにも惜しいものにございますれば」

「……そうね。兄上の顔を最後に見てから、長い時が過ぎた。利三は兄上のことをあまり好いていなかったし、父上が亡くなってからも色々なことが……ありすぎてしまったわね」

「それがしにとって義龍様は……いや、そなたの前で言うべきことではありますまい」

「いいわ、続けて」

「……義兄であると同時に、憎き相手にございまする。こんなことになるとは、全く予想がつかぬものでしたな……」

そもそも、義龍は利三と行詠が夫婦であることすら知らない。利三こそが行詠を彼の元から引き離したということも。

義龍が行詠には甘く、兄としての愛を持っていたことは利三も知っている。しかし、利三にとって義龍という人間は、野心家で強引で、道三の跡を継ぐには不十分な男だった。信長と帰蝶の祝言の席で、信長襲撃に加担させられ、結果光秀に刃を向けることとなったことも、利三にとって義龍を憎む大きな要因だった。怒りは募ったまま、消えることはない。行詠から見た兄はただ憎いだけの人間ではないだろうと分かっていながらも、利三はその自己認識を改める気にはなれなかった。

「私にとっても似たようなものよ。父上の仇であることには変わりない。でも根っからの悪人というわけでもない。……変な人だわ」

「兄君に未練がおありか」

利三は眉間に皺を寄せた。ほとんど無意識と言っていい。考えても意味がないことだが、行詠が未だ義龍のことを慕っているのならば、より自分の手で穿つことができない現状を悔やんでしまうだろう。行詠を今まで苦しめ城の中で守られるべきである大切な姫、という立場から転落せしめたのは義龍である。利三は行詠のことを想っているからこそ、より義龍のことを許せなかった。

「……未練、なのかしら。兄上と最後に言葉を交わしてから、兄上に会えなくて寂しいとかそういうのを感じたことはないのだけれど……兄上は昔、私にこう言ったことをよく覚えているの。もし自分がこの国を統べたら、父上が私に授けた策謀を全て忘れろって。いざとなったら枕に忍ばせた矢尻で夫の首を貫く……そんなことは無駄になるって。私を普通の女の子にしたかったのね、兄上は」

「しかし、道三様でさえそなたが市井の女子であれば、と夢想しておられた。義龍様のご意志は関係なく、自由に生きる未来があったと言えるでしょう」

道三が娘に施したという教育がどんなものであったか、利三はほとんど知らない。ただ行詠が普段の言動からはあまり想像できないほどの闘志を持っていること、人を殺めることに大きな痛みを感じながらも戦うという手段を諦めることはしなかったということを、利三はよく知っている。長良川でもそうだった。彼女は利三と対峙するまでは、己の内で葛藤しながらも戦い続けていたのだ。そんな彼女なら、道三から仮に嫁ぎ先の夫を殺せと命令を下されたとしても、躊躇することなく受け入れるだろうと利三は感じていた。恐らく、自分が道三を出し抜こうとする野心を持つような人間ならば、行詠を妻として迎えたとしても、彼女の言葉通り首筋を容赦なく刺し貫かれていたはずだ。

「そうね。兄上にとっては皮肉なことだった。だって、兄上のご意志に関係なく、私はこの時代に生涯に渡って後悔することなく添い遂げられるような人と結ばれたのだから」

兄上も大概、かわいそうな人だわ。行詠は吐き捨てるように言った。その口ぶりを見ていると、利三は彼女が義龍に未練を持ったままなのかそうでないのか、次第に分からなくなった。

「乱世でなければ、義龍様は我らを祝福なされただろうか」

「どうかしらね。兄上は利三のこと、よく無礼な奴だと吐いていたけれど。乱世じゃなかったらそんな関係でも上手くやっていけたのかもしれないわ」

たらればの話をして、終いとなった。どちらにせよ、越前にいる自分たちに干渉する余裕はないのだ。利三はそれ以上、何も考えようとはしなかった。目の前にあることを、障害を、一つずつ排除するのみだ。




それからの利三は暫くの間、越前国内に蔓延る賊の討伐であったり、民の暮らしから武士として何をすべきかを光秀と共に学んでいた。

ある夜の話だ。

利三も行詠も、枕元には武器を必ず置いている。今のところ不審な輩が付近に出現したという話は聞かなかったが、それでも備えは必要だ。二人とも共通して、僅かな物音で目を覚ます。この本分は、きっと何があっても変わらないだろう。

眠っていた利三は、何者かの足音を聞いた。光秀のものでも、自分たちと同じく光秀に従う人間のものでもない。足音を極限まで小さくしたような、その音を聞かれては困るような立場の人間がいる。即座にそう思った利三は咄嗟に姿勢を正して槍に手を添える。行詠も同じで、ぎこちない動作ながらも音を立てずに身を起こし、薙刀に手をかけた。

利三は行詠の方を見遣って、「動かないでいい」と合図を送る。行詠は黙って頷いた。

僅かに影が見えた。知らない男の影だった。

「何奴」

利三は障子を蹴り飛ばし、影の見えた方向に向かって勢いよく槍を向けた。その槍の先は、床にへたりこんだ一人の男の首筋に向けられている。その男は装束で目元以外を全て隠している。忍びであることは明らかだ。手には書状のようなものを持っている。

「……義龍様からの書状だ」

忍びはすぐ目の前に死が差し迫っているにも関わらず、利三の目を見据えながらそう言って書状を投げた。利三は槍を目の前の男から離さずに、書状を拾う。片手で書状を大雑把に開いた。確かに義龍の筆跡で書かれた文字と、彼の花押がそこにはある。月明かりがなければ男の言葉を信じることもできずに、そのまま喉元に槍を突き立てていたかもしれない。だが。

「他に用は。返答次第で見逃そう」

「姫様は息災かと、義龍様が」

「息災だ。それ以上言う義理はない。……貴様の命は奪わぬ。義龍様に伝えにいけば良い」

利三は槍を遠ざけた。男は逃げるようにして、夜の闇に消える。

これでいいのだ。

「……兄上の使いだったのね」

「全く、肝が冷え申した」

「灯りをつけてくれるかしら」

「承知致した」

利三が蹴り飛ばした障子は無惨にも原型を留めず転がっている。明日以降何とかしなければいけない。

それにしても、この場所を突き止めるとは。やはり義龍という男とその臣下は侮れない。どこから情報が漏れ、誰が光秀や行詠の命を奪いにその毒牙を差し向けようとするか、分かったものではない。対策を講ずる必要がありそうだ。

灯りの中、行詠は実の兄からの便りを読んだ。何が書かれているのか利三は知ろうとも思わなかったが、暫くして行詠が書状をバラバラに破ったのを見て驚愕した。

「良いのですか」

「いいの。今の私にはいらない。明日ちゃんと火にくべるわ。変な時間に起こされてしまったけれど……早く寝ましょう」

早々に行詠は布団に潜り込んでしまった。こうなれば利三には、何も言うべきことは残されていない。同じようにして、利三も元のように眠りについた。




稲葉山城が落ち、斎藤義龍が自刃したとの報告がもたらされるには、あと少しの時間が必要だった。

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