狼と共に走る
北条家は豊臣に屈し、ついに天下は一つに統一された。北条に従っていた忍者集団、風魔忍者は各々離散したのだという。彼らの中には豊臣に恨みを抱いているのか、盗賊へと身を堕とし泰平の世を皮肉るように略奪行為を繰り返しているのだという。
乙女もまた、忍びとして生きてきた女だった。だが彼女は、今は独りだ。盗賊として村を襲う訳でも、豊臣に大人しく従っている訳でもない。
彼女の居るあばら家には、雨風が入り込んでいる。彼女はただ、何もせずに立っていた。暗い室内で、ただ立っているのだ。足元に佇む狼もまた、彼女の傍で大人しく寝そべっている。
彼女には、予感があった。自ら達の頭領、風魔小太郎は未だ生きているというものだった。
彼は亡き北条氏康のみに従っていた。彼が率いる忍者は彼にしか従わなかったから、氏康の死後は様々な戦に風のように現れては、戦況を掻き回し知らぬ間に消えていった。彼女も同じようにして、今まで生きていた。
豊臣の小田原征伐を機に、彼らは再び北条家の元に集った。理由は分からない。彼女も、分からなかった。ただ小太郎に従えば良いとだけ思っていた。彼の元に居れば、生きることが出来ると思った。
小太郎は、豊臣軍により射殺されたのだという。散り散りになり殺される仲間と、逃げる仲間。二つの合間の中で、彼女は彼らの前から姿を消した。小太郎の指示に従わなかったのは、これが初めてだと彼女は思った。
仲間は居ない。だが、狼は居る。豊臣軍から身を隠して逃げた山の中でただ一匹だけ、そこに居た。群れを追い出されたのか、自分から一人になったのかは分からない。だがろくに餌を食べていないのか、衰弱していた。
同じだったのだ。彼女はそう思ったから、連れて帰った。忍者集団の輪から離れたことだけではない。彼女は孤児だった。ただ独りで居た所を、小太郎に拾われた。なぜそんなことをしたのか、彼は聞いても答えなかった。それでも構わなかった。自分が必要とされているのならば、それで。
それと同じだ。彼女は狼と共に過ごした。どれほどの時が過ぎていたのかなど、どうでも良かった。ただ小太郎が生きているという予感だけを頼りにして、過ごしていた。
逢魔が時。夜に移り変わる。魔物が蠢く時。なぜだか分からないが、今日この場に小太郎が来る。確証はないが、確信はあった。
ふと、乙女に寄り添う狼が起き上がり、彼女が見ている場所とは反対方向に体を向けた。狼は目を開き、ただ一点を見つめている。
「賢い山犬だ」
何も無い空間から、男が現れた。
狼を撫でるこの男こそ、小田原征伐で殺されたと言われた風魔小太郎だ。
「小太郎、やっぱり生きてた」
乙女は振り返り、そう言った。確信が確証に変わった瞬間だった。
「健気なものよ」
小太郎は、もうずっと外見が変わっていない。乙女が彼と出会ってから今に至るまで。鎧も肌も、傷一つない。到底、豊臣軍の射撃を受けたとは思えないものだった。得意の幻術で、あの場を誤魔化していまのだろうか。
「生きていると思ったから。なんで甲斐には死んだフリを貫いてるの」
最後まで北条家を守り通そうとした成田家の娘。彼女は小太郎が殺されようとする瞬間を見ていた。だが小太郎は、自らの残った力を全て使って子犬になったのだと、彼女に嘘を吐いた。
甲斐姫は、あの子犬のことを本気で小太郎だと思っている。子犬のことを本気で小太郎だと思っている人間は彼女しか居ないから、戦後彼女を囲った豊臣の人間は苦労しているのだということを乙女は風の噂で知った。
「あの者は全てを喪った。だが生きている。いや、生かされている。一縷の希望によって。その役目は我の行うことではない」
あの、小太郎が与えた子犬によって。ということだろうか。甲斐姫が生きるためには、小太郎が近くに居ることは到底出来ないから、ということなのか。あの子犬が存在していること。それは、守るべきものすら失くした彼女が再び守るべきものを手に入れたということだ。生きる理由には、十分なりうる。
優しいな、と乙女は思った。
人の子などには興味がないという素振りをしているが、そうではないということを乙女も良く知っている。それはあの娘も、氏康もだろう。
「小太郎は優しいね」
小太郎は薄笑いを浮かべたまま黙っている。彼の優しさもまた、乙女のみが知るところではないのだろう。それを彼がどのように受け止めているのかは分からないが、別にそれでも良いと思った。混沌の世を望む彼が何を思って誰の為に生きているのかなど、些事でしかない。ただ彼が優しいお化けだということを知っている人間がこの世に居たのだということを知ってさえいれば。乙女はそう思う。
「うぬも大概、もの好きだ。我を望むなどと」
小太郎には全てお見通しのようだ。そう、乙女は自分が小太郎の存在を望んでいるのだということを知っている。
北条家が滅び、初めて彼の意思ではなく自分の意思で選択をした。忍者集団の残党には加わらず、ただ一人で生きるという選択を。
あの日よりも前、ずっと一人で生きていた頃と同じだと思っていた。だが心の奥底では、小太郎を望んでいたのだ。孤独の痛みと、人の輪の温もりを知っていたから。
狼を拾ったのは、自分と重ね合わせていた事だけではなく、自分の痛みを分かち合いたいという気持ちもあったのだろう。乙女は無自覚のようだが、小太郎はそれに気づいている。
「望んだら会いに来てくれるのは、やっぱり優しいよ。小太郎は」
彼が人に従うのは、北条氏康ただ一人だった。彼と交わした契約に従っていただけなのだから。それを破って彼女の元にやって来たのだ。やはり、優しいと思う。もっと他に彼を形容する語句が存在するのだろうが、乙女には思い浮かばなかった。そんな器用な頭など、持ち合わせていない。
「うぬは山犬と同じだ」
狼と。乙女は心の内側を覗かれたように感じた。群れを追い出された狼と、孤児として育った自分を同一視し、哀れんでいるというのか。だが、それは違うのだということを乙女は直後に思い知る。
「山犬は、一匹の山犬しか愛さない。それと同じよ……良く我の居場所を突き止めた。それに免じて、会いに行ったまで」
そう言って小太郎は乙女の頭を撫でた。狼を撫でる時と、変わらない手つきで。彼の手は無機質だが、壊れ物に触れるかのような繊細さを感じた。素直に、嬉しく思った。
「私、また会いに行くから」
彼女がそう言った時、既に小太郎は消えていた。音も立てず、足跡も残さずに。
自分が狼と同じなのは、生い立ちだけではない。成長してから死ぬまでの生き方そのものが、狼と同じなのだ。……愛した相手と、最期まで添い遂げるのだということまで。
乙女はそう思うとより、この狼のことも、自分のことも、小太郎のことも愛おしく感じた。
小太郎も、狼と同じだ。氏康に従い、彼に尽くし、彼の意思を継ぐものを救った。
乙女は、気高い狼を追いかける、狼だった。
愛しているのだ、小太郎のことを。自分を必要としてくれていたから。彼を望む気持ちは、生涯消えないだろうと思った。険しい道のりであることは確かだ。だが、それでこそ自分が自分で居られる為のものである気がした。
どこまでも追い続ける覚悟は出来ている。この狼と共にならば、どこまででも。
外を見れば、雨は止んでいた。狼を連れて、外に出る。水溜まりがそこかしこにあった。空を覆っていた雲は、姿を消し始めている。
今夜は月が綺麗に見えるだろう。彼女は狼と共に、誰も居ない路地を歩いて行った。
(20240405)