東に風は吹かない
「餅食い逃げ男、君のことだね」

高虎が道を歩いていた所、突然女に呼び止められた。女は店先の屋根の下で腰掛けている。団子を頬張りながら高虎を見上げる彼女。見覚えのない顔だった。

「誰だ、お前は」

餅を食い逃げしたのは、半分だけ事実だ。噂というものは直ぐに広がるものであるから、女がそのような話を知っているのも無理はないだろう。だが、気に食わなかった。いきなり罪人扱いをされたようなものだ。高虎は見知らぬ女に対して、睨むように目線を向けた。

「君、苦労してるんだろう。団子くらい奢ってあげるよ」

女は高虎の質問に答えず、代わりに手招きをした。高虎の腹が鳴った。心では抗おうとしていても、体はそれを許さないらしい。これも生きる為だと思って、高虎は彼女の誘いに乗った。見ず知らずの人間に馳走になることに対する恥など、高虎には既に消え失せていた。そうせざるを得ない状況で、彼は生きているからだ。

「お金が無いから餅の代金を払えなかった大男はというのは君だね。そこら中で噂になっているよ。手ぬぐいも似合っている」

「この手ぬぐいの良さが、お前にも分かるか」

「まあね」

変な女だとは思ったが、肌身離さず身に付けている手ぬぐいを認めるならば、そこまで悪い奴ではないだろう。高虎は変に単純な部分がある。そういう訳で、彼は女の隣に腰掛けた。

「お前は……何故俺に構う?」

運ばれて来た団子を頬張りながら、高虎は尋ねる。女も追加で団子を注文した。それほど懐に余裕があるのだろうか。高虎は、羨ましく思った。

「苦労してそうだと思ったから。良い主君を見つけられずにいるんでしょ。見つけたと思ったら、先立たれる。そうやって仕えるアテを探しながらの牢人生活は金に苦労するだろう。だから声を掛けた」

自分の境遇を揶揄されているようで、高虎は少し不愉快に感じた。主君に殉じず、のうのうと生きているのだと彼を悪く評する人間も多く居るからだ。彼女も同じ輩なのだろうか。

「何が言いたい」

そう言いながらも、高虎が団子を口に運ぶ手は止まらなかった。腹が減っているのだから、仕方のない事だった。

「怒らせるつもりはなかったんだけど……私も君と同じ立場なら、同じ行動を取るだろうと思って興味が湧いた。何があっても生きるのが第一だろう? 例え主君に殉じない不忠者だと言われてもね」

「……そうか、俺と同じか。生きる事が第一。……その通りだ」

高虎は、亡き主君長政のことを思い出しながら、そう言った。生きて忠を尽くすことの大切さを説いたのは、彼だったからだ。

「君はきっと、出世するよ。そんな気がする。金は出しておくから、じゃあね」

最後の団子を口に放り込んで、女は立ち上がった。恐ろしく食べるのが早いな、と高虎は思った。

「あんた、名前は」

「乙女。また会えるといいね」

手を振りながら、女は足早に去っていった。生きて忠を尽くすという、自身と同じ考えを持った彼女は、一体誰に仕えているのか。普段何をしているのか。全く分からないままだったから、もっと話しておけば良かったと高虎は思った。

良く考えれば、自分からは一度も名乗っていないではないか。まあ、餅を食い逃げ……もとい、いずれ代金を返すという約束を店主としたことを知っているくらいだから、名前くらいはもう知っていたのかもしれない。高虎はそう自分に言い訳した。

気づけば、団子は無くなっていた。久しぶりに、満足するまで何かを食べれたような気がした。満足したのは、単に食べ物を食べた事だけではなく、自分の考えを理解してくれる人間に出会ったのが久方ぶりだということも含まれている。清々しい気分で、高虎も歩き出した。




「餅食い逃げ男。秀長様に仕えてたなんてね。知らなかった」

「もう食い逃げなどしていない」

それから時が経ち、高虎が自分の金で饅頭を食べていた所、再び女が彼の前に現れた。

まさかまだ餅食い逃げ男などと呼ばれるとは。高虎は複雑だった。

「まあ、その様子だと食うには困っていないようだ」

そう言いながら女は高虎の隣に座り、饅頭を注文した。初めて二人が出会った頃と、同じような光景だった。

「秀長様は俺にも良くして下さるからな。それよりも、あんたが秀吉……様に仕えていた事が驚きだ」

高虎にとって、秀吉は長政の仇であり、現在の主君と関わりが深いとはいえ、どうしても好きになれない存在だった。だから、女が秀吉に仕えていたという事実は、かなり気に食わない。それに、秀吉は今や子飼いの将を多数抱え勢力を伸ばしている。彼が死ねば共に殉死しそうな者が多く居るのではないか。彼女がそのような判断をするとは思えないが、彼女の思想が塗り替えられていてもおかしくはない。

「だって、私が秀吉様に仕えてるなんて知ったら、私の誘いに応じたりなんて、そもそもしないでしょ。だからあの時言わなかった」

彼女なりの気遣いだったらしい。人を食い逃げ犯呼ばわりする人間がそのような細かい点を気にするのは、少し意外なような気がした。

「……そうか。まあ、近しい所に居るのだから、これからは共に戦う日も来るかもしれんな」

まだ女とこうして話すのは二回目で、互いの身の上すら詳しくは知らない。だが高虎は女のことを好ましく思っていた。同じ勢力に与する人間として、共に高めあっていきたいものだと思った。

「そうだね。でも、死んじゃだめだよ。生きている限りはどんなに厳しい生活を送ったとしても忠を尽くす機会が巡ってくるかもしれない。死んだら全てがおしまいになるんだから。これ、約束ね」

「あんたの言う通りだ。……あんたが変わらず俺と同じ考えを持っていて、安心した」

秀吉に毒されていないか。高虎が抱いていた疑念は杞憂のようだった。最後の一口となった饅頭を口に入れる。隣に座る女ももうすぐで食べ終わる頃だった。

「君、前よりも良い顔してるよ。もう食い逃げしないようにね」

「食い逃げなどしない。もう餅の代金も返している」

高虎は立ち上がった。放浪していた以前とは違い、彼にはやる事があるのだった。

「ではな。……乙女。また会おう」

「じゃあね」

初めて女の名前を呼んだな、と高虎は思った。自然と口から、彼女の名前が出たのだ。深い意味があるという事ではないが、再び会う日が楽しみになったのだった。




情勢は目まぐるしく動く。秀吉が成し遂げた天下は、彼の死により揺らぎ始めた。

高虎を取り巻く状況も、大きく変わっていた。秀長の死後、彼の跡継ぎとなった秀保に使えたいたのだが、その秀保も夭折した。

秀吉は、秀吉の後継者を決めなかったため、秀長の家は断絶した。

その後高虎は高野山に入ったが、秀吉直々に発した命により、秀吉に仕えることとなった。

乙女と同じように、秀吉に仕えた。高虎は秀吉のことは好きではなかったが、彼女と共に過ごす日々は嫌いではなかった。高虎が餅食い逃げ男などと呼ばれる原因となった店に、二人で訪れたこともあった。

彼女と居ると、やはり生き続けることが死者に対する最大の手向けであり、生き続けることこそ真のもののふなのだという思いがさらに強くなったのだ。

だが、高虎と乙女は、道を違えようとしていた。

「乙女。偶然だな」

高虎が雨を凌ぐために入った店に、乙女が既に居た。秀吉の死後、豊臣の前から辞した高虎と、乙女が出会ったのは初めてだった。乙女は驚いたように目を見開き、高虎を見つめたが、直ぐに眉をひそめた。

「餅食い逃げ男。君、徳川に仕えたんだって」

乙女は変わらず、豊臣家の一員として過ごしていたのだった。高虎に対する呼称もそのままである。初めのうちは嫌悪を丸出しにしていた高虎だったが、指摘するのにも疲れたのか高虎は何も言わなかった。高虎はそれが当然だというように、彼女のことを名前で呼ぶ。少しだけ、不公平ではないかと思わないでもなかった。最も、そんな些細なことを気にする余裕など、残されていないのだが。

「あんたこそ、豊臣などに居て収まるほどの将器を持ち合わせているとは思えなかったが。現状に満足しているのか」

棘のある言い方だったが、高虎は乙女のことを随分と買っているようだった。実際、彼は秀吉の死後、どこか他に仕えるアテを探しに行こうと誘いを持ちかけたのだった。彼女ならば、生きて忠を尽くすこと、そして自らの才能を認めてくれる人間に仕えるためさすらうことに対しての理解があると高虎は考えていた。

だが、彼女は高虎の誘いには応じなかった。それから疎遠になり、今に至る。

「まあ、ね。高虎こそ、満足してるの」

高虎の誘いに乗らなかったこと自体は申し訳ないと思っていたのか、彼女にしては歯切れが悪い。

「当然だ。家康様は俺のことを正当に評価して下さる」

秀吉も、高虎のことを評価していたではないか。乙女はそう言おうとしたが、辞めた。どこまで行っても、彼にとって秀吉は忌むべき仇であることに変わりはなかったからだ。長政の事だけではない。秀長亡き後の大和豊臣家の断絶にも秀吉は関わっている為か、その憎しみは以前よりも増しているように乙女には思えた。軽口を叩く余裕すら、与えられていないのだと、彼女は感じた。

「豊臣と徳川の軋轢は今後も深まるばかりだろう。あんたは本当にそのままで良いのか」

出来ることならば、乙女と敵対したくはないのだ。一度拒否された手前、到底受け入れられるとは思わなかったが、そう言わずにはいられなかった。何せ、情勢が物語っている。きっと、豊臣は不利な状況に持ち込まれるのだと。

「……君との約束を破ることになるかもしれない。私は、命を捨てても良いと思える人間に出会ってしまったから」

馬鹿野郎。思わずそう叫びたくなるのを、高虎はぐっと堪えた。

「石田三成という男か。あんたがそうまでして尽くしたいという男は」

「良く知ってたね。彼を支えないといけない。……そう思っているのは、私だけじゃない」

乙女は少しだけ、笑った。三成のことを愛おしそうに思い返している。そんな風に高虎には思えた。つくづく気に入らない。何故あんな男の為なら死んでも良いと思えるのだ。感情がぐるぐると渦を巻いた。

高虎が豊臣家に別れを告げた時、三成はこう言っていたという。「秀吉様への恩義を忘れた犬」だと、高虎を評していたらしい。心底、高虎はうんざりした。彼が恩を感じているのは、秀吉ではなく、長政や秀長なのだ。

「あんたがあの男を信じるとは、分からないものだ。どうやら俺たちは、もう取り返しのつかない程に相いれなくなってしまったらしい」

「……ごめんね」

「生き延びろよ、何があっても」

「努力は……しようかな」

彼女は変わってしまった。高虎は乙女に対して、もう一度生きて忠を尽くすことの大切さを説きたかった。だが意味はないのだろう。

悲しみよりも、苛立ちが高虎を包んだ。何故分からなくなってしまったのだ。死んでしまったら全ておしまいなのだと言うことを。

彼女の考えを変えてしまった豊臣家に対する恨みが、さらに強くなった。だが、彼の力だけではもうどうしようもなかった。

今はただ、必ず訪れるであろう天下分け目の戦いに備えるしか、互いに出来ないのだ。




天下分け目の関ヶ原の合戦は、東軍の勝利により幕を閉じた。

あまりにも呆気ないものだった。天下分け目とは言っても、力は徳川に初めから傾いていたのだ。益々力を強める家康は、完全に豊臣を亡きものとするだろうと、高虎は思った。長政や秀長を潰し、乙女の思想を変えてしまった豊臣など早く消えてしまえば良い。

だが、関ヶ原から帰陣する高虎の足取りは重かった。

浅井家に仕えていた頃の旧友、大谷吉継の自害も彼の心に影を落としていた。吉継の介錯をしたのは、彼に後を頼まれた高虎自身だったからだ。

吉継も、石田三成の為に尽くし、命を落とした。墓を立ててやろうと思った。志を継ぐために。だが、それでも彼を失った悲しみは直ぐにどうこう出来るものではなかった。

乙女もまた、彼の為にこの関ヶ原に立っていたという。三成の腹心、島左近と同様に行方はしれなかった。

馬に乗り帰路を進む高虎は、不意にその足取りを止めた。木陰に誰かが横たわっているのが遠目に見えた。

馬から降り、独りでに彼は進んだ。家臣が制止するのを手で跳ね除け、歩いた。嫌な予感がした。

「乙女……!」

横たわっているのは、紛れもなく乙女だった。血を流し、泥に塗れたまま、苦しそうに肩を上下させている。

長くはないだろう。高虎は瞬時にそう思った。人の死など見慣れているはずなのに、吉継の死を目の当たりにした衝撃が抜け落ちていないからなのか、心臓がばくばくと音を立てた。

「餅、食い逃げ男……」

生死を争う一刻の猶予も許さない状況であるにも関わらず、乙女は高虎をいつものように呼んだ。

「あんた……死ぬなと、言ったはずだ」

彼女の腹に手を当てた。暖かい血が、高虎の手を汚した。血は止まらない。彼女が助かるようには思えなかった。反対の手で彼女の手のひらを取れば、弱々しく握り返す。こんなにも小さい、女の手。高虎は初めて知った。このような手のひらで、乙女は戦っていたのだ。

「いや……私、あいつの為に命を捨てられるなんて、出来なかったんだ……」

高虎は首に巻いている手ぬぐいを解いて、乙女の腹に押し付けた。気休めにしかならないが、気休めすらできないよりはましだろうと思った。

「皆、三成に殉じた……でも、私は出来なかった……生きたい、やっぱり生きなければいけないんだと、思ってしまったから……」

「もういい、喋るな」

生きたいと思った気持ちが、彼女をここまで動かしたのだろう。再起を図るために、戦場から離脱していたのだ。

苦しそうに息を荒くする乙女を見るのは、苦しかった。だが、生きてこそ本当の忠義なのだという考えは、彼女から消えていなかった。彼女の奥底で、暫しの眠りについていただけなのだ。

それを知れた事は、何よりも高虎にとって嬉しいものだった。自分の過ごした日々は、彼女にとって無駄なものでも、過去の遺物でもなかったのだから。

「生きてなければ、何も出来ない……君と同じ道を選んでいれば……良かったのかもしれない……」

「……乙女……」

地に流れる彼女の血は、高虎の装束も赤く染めた。彼女の言葉を聞くのが、こんなにも辛いと思ったのは初めてだった。あの時、彼女を無理矢理にでもこちらに連れ出せていれば。もう叶わない、理想の未来を描く。ただただ、悲しいだけだった。

「……君と、餅を食べたこと、忘れないよ」

乙女はそう言って、目を閉じた。最期の言葉は、彼女らしいと思った。餅は高虎と彼女にとって、一種の惹句のようなものだった。

「おい、乙女……」

握っていた手のひらが、力なく離された。永い眠りについたことは明らかだった。覚悟はしていたから、声を上げることはしなかった。だが、押し寄せる悲しみはどうにもならない。

「……最期まで、俺の名を呼ばなかったのも……あんたらしい、か……」

乙女の亡骸は、まだ暖かかった。肌や服が汚れるのも構わずに、彼女を抱きしめた。

久々に、二人で食べた餅や饅頭をもう一度食べたいと思った。そうすれば、彼女の思想や生き様は、永遠に失われないような気がした。

(20240414)
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