極夜
光の届かない部屋に、女は居た。昼と夜の区別など、この空間にはない。ただ薄暗いまま、静かに時は過ぎていく。だが、女にはその経過すらも感じ取ることは出来ない。

染みの付いた天井を、女は仰向けになりながら見つめる。こうして、一体どれほどの時が経ったのだろうか。……分からない。いや、もう彼女には分かろうとする気概すら、失せているのだといったほうが正しいのかもしれない。

足音が聞こえる。女は、静かに怯えた。けれどもどうすることも出来ないまま、ただ天井を見上げた状態で微動だにしない。

大きな影が見える。薄暗いこの部屋の中に、さらに黒い影が彼女に落とされた。

「……調子は、どうかなァ」

どうもこうもあったものじゃない。女はそう言いたくなるのを堪えた。

「ああ、良い子だねェ」

男はしゃがみこみ、女の頭を撫でる。おかしな光景だった。女は目だけを動かして男を見た。柔和な表情を浮かべている。だが、気迫があった。

「鎖がなくても、逃げなかった。偉いよォ」

逃げるもなにも。この足では少し動かすだけでも精一杯なのは知っているだろう。もう抵抗する気がないということも。女はそう言いたげだった。

ああ、足が痛い。ずきずきと疼いている。いや、足だけではなく、心もだ。女は、耐えきれないと思った。

「……痛い、痛いから……動けない」

女は声を発する。まるで蚊の鳴くような、か細い声だった。

「でも、それはお嬢ちゃんが悪い子だったからだよねェ? それくらいで済んだと喜んでもいいくらいだよォ?」

今回も逃げようとしていたなら、反対側の腱を斬ってあげようと思って小刀持ってきちゃったよォ、と男は笑みすら浮かべながら言った。

逃げ出せるわけがない。女は自分の右足に視線を移した。

折れた、いや折られた右足のせいで、女は自分で立って歩くことが出来なくなっていた。この部屋から逃げ出そうとした罰だと言って、男は躊躇なく女を組み敷いて、骨を砕いたのだ。それからろくに固定もしないものだから、彼女の足が元のように回復することは一生ないだろう。

「痛くて……苦しい、苦しいの。本当に……殺して、ほしいくらいに」

この男に言っても無駄であることぐらい、彼女には分かっていた。無駄な殺生など意味が無いと思っているのだ、彼は。それでいて、単純に殺すことよりも卑怯な手を使うことになんの躊躇いもないのだから、恐ろしい。

「お嬢ちゃんが死んだら、拙者が手を汚した意味がなくなるじゃない」

この男が手を汚すことなんか、初めから必要なかったのだ。そんなことを言ったところで彼に通じないということは彼女も分かっている。それでも、彼女は自分の運命を呪いたくなった。

全てはこの男の独善的な考えの元で、乙女の運命は狂うことになったのだ。

乙女は思い返す。男……柳生宗矩とは、昔馴染みだった。それ以上でも、それ以下でもない関係だと乙女は思っていた。だが宗矩と話すことは苦ではないし、彼の考え方は興味深いものだった。

秀吉の検地により宗矩の家が所有していた隠し田が見つかり無一文の放浪者となった時も、彼女はよく彼を案じたものだ。彼女は家の者に頼み込んで金を送ったこともある。彼は、秀吉の目指す世は綺麗事に過ぎないのだと毒を吐いた。

彼女を取り巻く事態が一変したのは、その頃だった。豊臣の世は磐石のものとなり、各諸大名はその世に従い享受する。彼女の家もそうだった。彼女の家がこの乱世で生き延びるために取った行動は、彼女を秀吉に差し出す……つまり、側室として嫁がせることだった。

宗矩には、それが気に入らなかったらしい。嫁ぐ直前になって、彼女は人攫いに遭い匿われた。それが宗矩が手引きしたことだと知るまでに時間は掛からなかった。

そうして、今に至る。全ては不可抗力だ。彼女の力でどうにか出来るものではなかった。秀吉に嫁ぐことでさえも、彼女が口を挟んだことはない。

「お嬢ちゃんがまだ生きているのを知っているのは、拙者だけだ」

乙女がこの部屋で初めて目覚めた時、宗矩は冷酷に告げた。

所謂、偽装工作だ。乙女は、彼女が秀吉に嫁ぐのを拒んでいるある勢力により、暗殺されたのだと流言が広められた。

あながち、間違いではない。生死の差こそあれど、宗矩が乙女の婚姻を破綻させようとしたのは事実である。

宗矩のことを、初めて恐ろしいと乙女は感じた。自分はどこに監禁されているのか、一体なぜ自分はこんな仕打ちを受けているのか、彼女は分からないのだ。

だから、逃げようとした。自分の為というよりは、自分と家の将来を案じた両親の為でもあった。それに、両親に対して自分の生存を伝えたいと思ったのだ。

そうして受けたのがこの仕打ちだ。

悪い子だ、と呟かれた刹那のことだった。

乙女はぼんやりと、天井を眺めることしか出来ない。右足は折られ、もし今度も逃げるならば左足の腱を切ると脅される。宗矩の気に入らないことを言ってしまえば、腕の一本や二本も、折られてしまうかもしれない。

死んだ方がマシではないか。どうせ自分が生きていることは、誰も知らないのだ。この男以外は。

宗矩は相変わらずに、微笑を浮かべている。

「松永殿も昔言ってたけど、怪我人は死人よりも手間を奪う。お嬢ちゃんをさっさと殺してしまえば、拙者は秀吉にお宅を奪われずに目的を果たせただろうし、お嬢ちゃんが今のように苦しむこともなかった」

ならば、殺してくれ。乙女は思った。

「おじさんさあ、酒を飲んだり気持ちが昂って判断力が鈍ってしまったらお嬢ちゃんのことも殺しちゃうほど力の制御が出来なくなるかもしれないんだよねェ。お宅の足を折ったのも、それが原因だ。……これでも自制したほうだが」

一体何が言いたい。乙女は宗矩の言葉をただ待つことしか出来なかった。不殺の極意とは何なのだろうか。殺さないという選択は、時に殺すよりも残酷な結末をもたらす。死人は何も語らない。だが怪我人というものは中途半端に物事を語り、生者を惑わせる。死人が受ける苦しみは一瞬だが、死なないのならばその苦しみは長く続く。

彼の考えは常に合理的だが、彼女が受けたこの行為は活人剣の思想とはかけ離れたもののように感じられた。泰平のためなどではない。ただ宗矩だけが救われたいがための行為だ。

「お嬢ちゃんを殺してしまえば、拙者は救われるのかなァ。こうして灰に染まった希望にしがみつくことから、解放されるのか」

宗矩の大きい手のひらが、乙女の白い首筋に迫る。彼の手は彼女が思っていた以上に冷たかった。

この男から解放されるのならば、少しくらいの苦しみなど、どうということは無い。彼女は抵抗する素振りすら見せなかった。見せるほどの元気はもう残っていない。

だが、いつまで経ってもその手に力は込められなかった。

「お嬢ちゃん一人を殺しても、救われるのは拙者だけだ。……こんなことを望んでいるわけじゃなかったんだよねェ」

手のひらが離れた。彼の弛緩した顔から、僅かながら悲しみが見え隠れしているように、乙女には思えた。

「……何が、望みだったの」

そう思えば、自然と言の葉が乙女の口から流れ出る。

「お嬢ちゃんと、二人で幸せになりたかっただけさァ」

そう言って宗矩は、乙女の右足をそっと撫でた。

その手つきは優しくて、乙女は二人で語らった過去の日々を思い出した。あの頃とは変わってしまったのだ。きっと、乙女自身も。

だが、連れ去られ、部屋に閉じ込められ、体の不自由を奪われても、乙女は宗矩のことをどうしても嫌いにはなれなかった。

宗矩のことを、好いていたのだろうか。乙女は女としての役割を弁えていたつもりだった。だから誰の女になるとしても、どうでも良いと思っていた。家に従うだけだと。

しかし、それは違ったのかもしれない。乙女は今になって思う。本当は、宗矩と一緒になりたかったのかもしれないと。

宗矩になら、殺されても悔いはない。けれども彼はそれを選ばなかった。乙女の足は治らないし、この苦痛はきっと収まらない。

それでも良いかもしれない。そんな気持ちが乙女に込み上げた。彼の言葉は嘘には聞こえなかったし、ただ彼は自分と幸せになりたかっただけなのだ。それが聞けただけで、乙女には十分な気がした。

「……私、良い子で……いるから。……幸せに、なろう」

宗矩が幸せを掴めるのならば、何でも良かった。それほどまでに彼のことがどうしようもなく、乙女は好きなのだった。

「心から……愛している」

宗矩の発したその言葉は、懺悔のような響きだった。


陽はまだ昇らない。この部屋に居る限り。だが、空を覆う雲は姿を消し始めていた。

(20240229)
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