幽霊男と約束の日
「乙女」
たまたま普段とは違う道を考えもなく通っていると、ふと呼び止められる。聞き馴染みのないその声に驚きながら乙女が振り返ると、そこには頭の先からつま先まで見慣れない妙な格好をした、目元しか見えない男が立っていた。
「ひっ」
何らかのコスプレでもしているのか。両端の尖った帽子に、口元を覆う布。衣服もよく分からない構造で、彼女はそう感じてしまう。そんな男の格好に乙女は思わず声を上げたが、男は動じることはなかった。乙女は混乱と恐怖で持っていた鞄を落としそうになり、彼女は鞄を抱えて後ずさりした。
「久しぶりだな」
「だ、誰ですかあなたは」
不審な人物に声を掛けられ、驚かないわけがない。名前も知られているし、この男は過去に乙女と会ったことがあるというような口ぶりだ。乙女の声が上擦った。
「そうか、驚くのも無理はない」
「どういうことですか、なんで、私の名前を知ってるなんて、」
「取って食おうとはしていない。危害を加えるなんてことも考えていない。少し聞いてくれないか」
「う……あ、はい」
意味が分からなかった。乙女はただ男の言うことに従うことしか出来ずに立ち尽くす。なんで普段と違う道をわざわざ選んでしまったのかと後悔した。
「その様子を見るに、俺のことは些かも覚えていないようだ。俺はお前とかつて、懇ろな関係だった」
「あの、全く話が見えないのですが」
男は一方的に納得し、乙女が困惑しているのも気にしないままに話し出す。乙女はと言うと、この男のやけに真面目な口ぶりからすると心実であるのかもしれないが、それにしてもいきなりのこと過ぎて話を素直に受け入れることには到底辿り着かないという状況だった。
「記憶が残っていない以上証明することも不可能だが、俺とお前が夫婦であったことは確かだ。だから、声を掛けた」
「私、記憶喪失なんかじゃありません。大体、何なんですかあなたは」
「お前の前世での話だ」
「前世? ……じゃああなたは一体」
「俺は幽霊としてここに居るらしい」
「幽霊?」
「そうだ。そしてここから動く事は出来ない」
問答が続く。乙女は未だにこの男には見覚えがないと思ったし、こう言って気を引く厄介な詐欺師なのではないかと感じていたが、それも違うかもしれないと感じ始めた。
男の表情と話し方からして、嘘を言っているとは考えづらい。それに幽霊ならばこの奇怪な格好の理由も納得がいく。
「じゃあ、本当のことしか言っていないということですか」
「俺は嘘は吐かない」
「納得するしか、ないということですか」
「そうだ」
よく分からなくて、頭がくらくらしそうだと乙女は思った。いきなり声を掛けられ夫婦であったなどと言われて、どうするべきなのだろう? その上幽霊などときた。相変わらずこの男は嫌になるほど真っ直ぐに乙女を見つめている。
「……記憶がなくて、ごめんなさい。でも、本当に覚えてないんです」
いたたまれなくなって、乙女は謝罪した。一体自分は何をしているのだろう? そう思って男の顔を見れば、少しだけ申し訳なさそうな顔をしているように見えた。目深に帽子を被っているので気のせいかもしれなかったが、少なくとも乙女はそう感じた。
「いや。……引き止めて、悪かった。お前を見られただけで、良かった」
そういう男の声色も先程とは違っていたから、乙女はただ本当のことを述べていただけだが途端に複雑な思いに駆られた。
男に背を向けて歩き始めたが、ふと後ろを見ると男は何をすることもなくただ乙女を見ているだけだった。
顔も名前も知らない男だったが、もう一度会いに行こうと乙女は思いつつ、歩みを早めた。
それから時が過ぎたある日、再び乙女は男と出会った場所に足を運んでいた。
記憶がない以上、あのまま二度と会わぬという選択も可能だった。だが、あの時振り向いて見た男が自身を見つめるさまを、忘れることが出来なかった。
ただの男だというだけならば、あんな妙な真似をされて二度会おうとは思わない。むしろ危険な人間として警戒するべきだし、幽霊であってもそれは同様であるはずだ。それが出来なかったのは、自分の中に残っている前世とやらが影響しているのだろう。そんな予感が、乙女にあった。
「乙女」
初めに会ったときと同じように、男は一人で立っている。乙女は安堵した。
相変わらず表情に乏しい男であったが、その声は喜びが含まれているようだった。
「やっぱり、ここに居るんですね」
「そうだ」
「あなたのことが忘れられなくて、来てしまいました。記憶がないから、あなたにはかえって辛い思いをさせてしまっているのかもしれない」
以前会ったあの日、男は「久しぶりだな」と声を掛けた。それを裏切ってしまったのだという罪悪感が微かにあったのだ。
この場から動けないのだと男は言った。ずっと会えることを心待ちにしていたに違いない。記憶がないというのは、男の期待を無下にしたのと同義であるが、それでも彼女は男に会いに来た。自分の、男の元に行きたいという思いは独善的なものかもしれない。だがそれでも乙女は男に会いたいと思った。一人で過ごす男を放ってはおけなかった。
「記憶がなくとも、お前に会えた。それだけで十分だ」
男はそう言った。気を遣われているのだろうか。真意は分からなかった。
「……それよりも。お名前、なんて言うんですか」
乙女は話題を変える。だがこれも失敗したかもしれないと思った。前世の自分はこの男の名前を知っているはずだ。また気を遣われてしまうのだろう。情けなかった。
「……大谷吉継という」
「吉継さん……いや、吉継さま」
「……そうだ」
男の格好は現代から考えると遠い昔のもののようだったから、乙女は「吉継さん」と呼ぶのはおかしい気がして、「吉継さま」と彼を呼んだ。ぎこちなく彼の名前を呼んだものの、男はそれを指摘することなく黙って目を細めていた。
笑っているのかもしれない。懐かしさを覚えたのかもしれない。
初めて男の……いや、吉継の笑っている顔を見た。乙女は少し、嬉しく思った。
「……吉継さま。吉継さま」
吉継の心が少しでも癒されるのならば、何度だって名前を呼ぼうと乙女は思う。それが今の自分に出来る、数少ない使命だった。
「乙女……お前が来てくれて、良かった。いや、お前が生きていて……本当に良かった」
「吉継さま。前世の私って、どんな人でしたか」
吉継の少し意味深な発言に乙女は引っかかる。尋ねて良いものなのかと疑問に思いつつも、その衝動を抑えることは出来なかった。
「姿形、声も全て今のお前と同じだ。言動もだ。ただ……」
「ただ?」
「……重い病と戦っていた。だから、今お前がこの世で生を受けていることを、嬉しく思う。健やかに生きていることが、どれほど素晴らしいことか……」
乙女は生まれてから、特に大病も大怪我もせずに生きている。
前世で苦しんだからなのだろうか。乙女は知ることもないのだが、だからこそ吉継の言動に合点がいく。最も、乙女が生きていることを喜ぶ吉継は、幽霊であるのだが。
「でも、吉継さまは……」
「俺のことは気にしなくていい。これでも案外、楽しんでいるのだからな」
吉継はそう言って、また笑った。存外笑う人間なのだということを、乙女は初めて知った。
乙女は再び、吉継の元へ行こうと歩みを進めていた。前世の記憶というものが彼女に蘇ることはないものの、この世でも吉継に対して情が生まれていたのだ。時間が許す限り、乙女は吉継と話す機会を作っていた。彼と過ごすのは単純に楽しいのだ。前世がどうということではなく、純粋に吉継が好きなのだと乙女は感じた。
「乙女」
「吉継さま」
互いに手を振る。乙女は早く彼の近くに行きたくて、駆け寄っていった。
「触れることが出来ないのは、もどかしいです」
「幽霊だからな、仕方ない」
こんなにも彼のことを見ているのに、認識しているのに。こうしていると、吉継が幽霊などとはとても思えなかったのだ。全身がしっかり地面の上にそびえているし、喋ることも出来る。
それでも彼が幽霊であるのは、触れることが出来ないという部分から明らかであった。
手を伸ばしても、すり抜けてしまうのだ。吉継のほうが辛いに決まっている。だが乙女は彼以上にそれを深刻に思っていた。
「だって、夫婦だというのだから、触れ合っていてもおかしくないですよね。出来ることが出来なくなるというのは、じれったいものでしょう」
「そうだ……出来ることが出来なくなるということは、悲しいものだ」
吉継は珍しく目を伏せた。いつも真っ直ぐに乙女を見つめる瞳が見えなくなる。
「吉継さま?」
「昔のお前も、同じようなことを言っていた」
「私が?」
そうだ。吉継は短く答えて、再び乙女を見つめた。
「お前の病は、深刻だったから……それを思い出した。やはり、今のお前が自由に生きているということは、俺に希望を与える。お前のその姿が見られたのだから、俺は幸せ者だ。今までこの地で留まっていた甲斐があった」
幽霊という存在は、不思議だ。
こうして話をしているのに、触れることが出来ない。そして、彼はここから動くことすら出来ない。
一体いつからここに居たのだろうか?
自分の存在が彼に希望を与えたのならば、それは良いことなのは確かだ。だが長い間一人で過ごさせてしまったのも確かだ。もっと早くこの場所に辿り着いていれば、吉継は苦しまずに済んだのかもしれない。乙女は悲しみを湛えた。
「長い間、寂しい思いをさせてしまって、ごめんなさい。本当はこんな所じゃなくて、行くべきところがあったはずでしょう」
そう思えば、自然に口からすらすらと言葉が流れ出る。
きっと吉継が幽霊であり続けたのは、乙女を案じていたからだ。
「……そうだな。そろそろ、潮時かもしれない」
「吉継さま……」
吉継のことは好きだ。むしろ、いつまでもそこに居てほしいと思うまでに乙女の心は変化していた。
だが、吉継の居るべきところはここではないのだ。
「何度でも言う。お前が無事にいること……それがこの目で見られて、本当に良かった」
「吉継さ、」
吉継さま。乙女がそう言い終わるよりも前に、大きな風が吹いた。
思わず顔を背けた乙女が再び目線を元に戻した時、既に吉継は消えていた。
「吉継さま」
乙女が名前を呼んでも、答える人間は誰も居ない。
だが不思議と、悲しい気持ちにはならなかった。それはきっと、吉継があるべき場所に到達したのだということに対する喜びのほうが勝っていたからだ。
吉継が風に乗って還った次の日、乙女は彼がもう居ないと分かっていながらもあの場所に向かった。
やはり、彼は居ない。
幽霊と話していたなど、誰も信じないだろう。それも、前世で夫だったという幽霊だ。
だから乙女は、彼と過ごした日々を墓場まで持っていくつもりだった。それでも寂しいという感情が消えるわけではない。
心做しか、体のどこかに穴が空いてしまったかのような。不思議な感覚が乙女にあった。
その穴を抱えたまま家路に着こうとすると、引越し屋のトラックが目に付いた。どうやらアパートの隣室に新しい住民が越してきたらしい。そういえば隣室は住民が居なくなってから久しいな。乙女はぼんやりと考えた。
引越し屋の業者に挨拶をし、乙女は部屋へと入っていく。いつも通りの日常だった。今までが非日常であっただけで、本来はこれが当たり前の毎日だったのだ。
そう彼女が思っていた時、インターホンが鳴った。
「はい!」
バタバタと乙女は玄関に向かって駆け寄る。きっと引越してきた隣人が挨拶に来たのだろう。
「隣に引っ越してきた、――――という者で……」
その隣人の顔を見て、乙女は驚きのあまり腰を抜かしそうになった。それと同時に、えも言われぬ喜びも込み上げる。
その隣人は。紛れもなく――――
「吉継さま。どこに行っていたのですか。なかなか帰ってこないから、心配していたのですよ」
苦しげに身を起こす女に対して、男は無理をしないように制止しながら傍に寄り添った。
「すまない。俺のことよりも、自分の身の事だけを心配していてほしいというのに……」
男はぜえぜえと息を吐く女の背中を擦る。男は目元以外を隠していて、表情は読めなかった。
「だって、吉継さまのことが大好きだから……」
そう言って女は腕を伸ばす。男は指を絡めた。その指を絡めた女の手は白く、痩せていた。
「今まで簡単に出来ることが出来なくなるということは、こんなにも悲しいものなのですね」
「……お前は、不自由もなく、病魔に苦しむこともなく、生き抜くことが出来る。必ずだ。今日はそんな未来を見に行ってきた」
「まあ。無理して嘘を吐く必要はありませんよ。……でも、吉継さまがそういうのならば、頑張らないといけませんね」
「俺は本当のことしか言っていない。約束しよう。お前の未来は明るい」
「……そういうことにしておきましょうか。でも、吉継さまは? それなら吉継さまの未来はどうなってしまうのですか?」
「俺はお前が居れば、生きていてくれれば……それだけで幸せだ」
「では、私も吉継さまも、幸せな未来が待っているということですね」
「そういうことだ」
(20240514)