世界よさようなら、また明日
「何でふたつあるの」
乙女の目の前にあるのは、かの有名(と言っても、彼女はその価値をよく知らない)な古天明平蜘蛛……が二つ。
久秀が大切にしているそれを見るのは初めてではない。彼がこの茶器で沸かした湯で茶を飲んだこともある。だが目の前にある二つのそれは瓜二つで、何が何だか分からなかった。
「どちらか一つは贋作。我輩が作らせたのだ。どちらが本物か、分かるか」
あくどい笑みを浮かべながら、久秀は乙女に問いかけた。
二つの茶釜はどちらも精巧で、乙女には到底見分けがつかない。茶器に関する知識も持たない彼女は、贋作を作る価値があるのかすら知らないのだ。
「分かんない」
分からないものは、分からないのだ。結局答えが出ないのならば、素直に言った方がましだと思った。
「素直、素直。実に可愛い」
久秀はそう言って乙女の頭を撫でた。無骨な指が髪を絡める。繊細さの欠片もない。だが、嫌いではなかった。
「どっちが本物なの」
くすぐったそうにして久秀の手のひらから離れた彼女は尋ねた。茶器に興味はないが、答えを知りたいという気持ちは別だった。
「こっちだ」
久秀が指を指したのは、彼女の方向から見て左側。そうだと示されても、右側とどういう違いがあるのか、さっぱり分からなかった。
「どこで見分けるの」
間髪入れずに投げかける。久秀はそんな彼女を疎ましく思うわけでもなく、ただ薄笑いを浮かべているだけだ。
「お主がここに初めて来た時に付けた傷があるのが本物だ」
「え、そうだったっけ」
ほら、と手渡された茶器。久秀の示す箇所を見ると、縁が僅かに欠けている。
初めてここに来たのはいつだったのか。それすら分からなくなるくらいに、久秀と過ごす時間を乙女は謳歌していた。
「そうだ。お主がそれを我輩の居ない時に勝手に触っておったのだ。忘れたのか? それで我輩が声を掛けたから、驚いたお主はそれを地面に……」
「そうか、思い出した。けっこう前の話だよね」
乙女がこの時代にやってきてから、日が浅い頃の話だった。
得体のしれない彼女を匿い続けている久秀。悪党を自称しているものの、彼女にはごく普通の良い人にしか思えなかったのだ。だからこそ、今もこうして彼と過ごしている。
「……うむ。まあとにかく、本物と贋作の見分け方は、その傷があるかどうかだ。覚えておけよ」
「はあい」
適当な返事をして、乙女は久秀が部屋を出ていくのを見送った。どうして本物と贋作の違いを自分に教えたのだろう。天井を見上げても、その答えは返って来なかった。
もっと信頼出来る家臣に話せばいいのに。そう言おうと思ったが、やめた。自分を信頼してくれているのなら、それで良い気がした。
天下の大悪党が再び謀反を起こした。それも、もう取り返しのつかない形で。
乙女がここにやって来てからも久秀は好き放題していたし、乙女は自分に危害が及ぶこともなかったから特に気にすることはなかった。
だが、今度の今度は、無理かもしれない。何せ信貴山城は大軍に囲まれている。勝ち目などあるはずもなかった。
またあの時のように茶器でも讓渡して許してもらおうとしているのだろうか。
だが久秀はもうそのような手を使うようには見えなかった。
「乙女」
天守に居た久秀は、これから起こる事態に怯えている乙女を呼んだ。
二人きりだった。部屋は恐ろしいほど静かなのに、階下からは物音と怒号が嫌になるほど聞こえてくる。彼女は、耳を防ぎたくなった。
「久秀さん……」
何を言われるのだろうか。乙女は久秀と目を合わせることが出来なかった。
「お主には、本物の平蜘蛛を持って逃げてほしい」
「私には出来ない、そんなこと」
あの時本物と贋作の見分け方を言ったのはこの時の為だったのか。
嫌な納得の仕方だった。久秀のような、この乱世に生きる人間ならいざしらず、乙女は自分がそのような大役を担えるとは到底思えなかった。
「いいや。お主にしか出来ぬ。お主はこの城の抜け道から逃げて、茶器を売り払え。こんな所に居るより幸せになるだろう」
「そんなこと……」
この世界で、金があったからといってそんな簡単に暮らせるはずがない。乙女は久秀の庇護があるからこそ生き長らえているのだ。
「茶器が置いている場所は知っているな?」
語気が強いその声に圧倒されれば、乙女は頷くしかなかった。だが本当に久秀を置いていくなど、耐えられないように思った。
「久秀さんは、どうするの」
その声は震えていた。久秀は我が子を慈しむようにして、乙女を見ていた。
「我輩は、自分の運命を守る。お主が気にする事はない」
「それって、つまり、」
声が詰まって、上手く喋れなかった。今生の別れだと言っているのと同じではないか。
「お主はただ、この悪党の生き様をしかと胸に焼き付けておけ。……さあ、茶器を持っていけい」
涙が溢れ出た。久秀も彼女のそんな様子に感じ入っているのか、目を伏せている。
乙女は、これから先を描くことが出来なかった。本当にやるのか、この計画を。自分が生き残る確証もない。現代に帰れずに朽ちてしまうかもしれない。
全てが恐ろしくてたまらなかった。だが、道は残されていないのだ。
「今まで、ありがとう」
だから、そう言うのが精一杯だった。
久秀は顔を上げ、いつものように薄笑いを浮かべた。
「お主はこの悪党にも臆せず立派に振舞っていた。我輩の亡き妻に良く似ていたぞ」
乙女は振り返らなかった。振り返れば、久秀に言われたことを遂行出来ない予感がしたのだ。
亡き妻に似ているといいながらも、久秀が乙女に対して話す様子は、子や孫に接するかの如きだった。
久秀に娘が居たのかどうかすら乙女が知ることはなかったが、もし娘が居るのならば自分のような人間だったのかもしれない。
もう一度、父親が娘に対してするように、あの無骨な手で撫でて欲しかった。だがそんな願いは独善的なものであるように感じられたから、口に出すことはなかった。
乙女が本物の平蜘蛛を手に取った時、そこに贋作の平蜘蛛はなかった。初めから贋作の平蜘蛛は久秀が天守に持ち込んでいたのだろう。きっと、平蜘蛛と共に果てるつもりなのだということは乙女にもはっきりと分かった。
それならばなぜ久秀はあんな事を言ったのだろう。
考えれば考えるほど分からなくなったが、あれは久秀の信頼の証だったのかもしれない。家臣に見分け方を教えたという話は、あの後からも全く聞かなかったのだ。
それ程までに信頼してくれていたのならば、彼の願いを聞き入れなければならない。だがこの何の力も持たない体で、どこまで走れるのだろう。
乙女はそう思いながら、久秀に教えられた抜け道を進んだ。
抜け道から外に出れば、もののふの叫び声は乙女の耳を劈く。銃で撃たれた人間が血飛沫を上げて倒れていくその有様は、遠く離れた位置からでもはっきりと分かった。
……ぞっとする。乙女は全身がガタガタと震えているのをはっきりと感じた。
出来るだけ周りの光景を見ないようにして、藪の中を歩いた。平蜘蛛以外には、何も持っていない。何も抵抗出来ない。
鬼のように戦う男達の声は、止まない。城の中はどうなっているのだろうか。久秀は、まだ生きているのだろうか。余計なことを考えるのはいけないと分かっていつつも、考えざるを得なかった。
草の中を駆ける。足が痛くなっても、走り続けていた。
どれだけ走ったのだろうか。履いていた草履は傷ついているし、手足は草や枝に擦れて引っ掻き傷を作っていた。
だが、構わずに走った。なりふり構わずに。
気づけば日は傾き始めている。道無き道を歩き、辺りはは木に囲まれていた。
「はあ、はあ……」
どれだけ走っただろうか。平蜘蛛を手にしたまま、乙女は立ち止まった。
行くあてもない。久秀は売って金にしろと言ったが、それで暮らして行けるとは思えなかった。
それよりも、彼の遺品となるのだろうこれを手放したくはないという思いが乙女の心の大部分を占める。
この世界で自身を救ってくれた久秀に対する恩返しとして、この茶器を守っていかねばならないのだ。
だが運命は時として無慈悲であった。
「そこで何をしている」
「この女、松永久秀が囲っていた娘ではないか」
こんな所まで追っ手は迫っていたのか。落ち武者でも首を取ればそれなりの報酬が得られるのだろうか。女であってもそれは同様なのだろうか。それとも、女は殺される前に犯されてしまくのだろうか。乙女の頭の中に、そんな考えがぐるぐると渦巻いた。頭の中だけは、冷静だった。
「…………」
乙女はもう逃げることが出来ないと思った。そんな体力すら残っていないのだ。
自分の命が消えても、平蜘蛛は奪われたくはない。それならば、この平蜘蛛を地面に叩きつけ粉々に破壊してしまおうか。きっと久秀も、そうするだろうから。
しかし、そんな余裕もなく男は襲いかかる。刀を高く揚げ、乙女に振りかぶる。
乙女は観念して目を閉じた。どうにでもなれ。久秀も、潔く散ろうとしたのだ。同じ空の元に行けるのならば、良いと思った。
「……朝?」
乙女が目を開けると、そこは見知った天井だった。外は明るく、鳥のさえずりが聞こえる。
紛れもなく、自分の部屋だった。それも、城の中ではない。あの世界に行くまでに住んでいた自分の部屋だ。
ベッドから起き上がって、自分の体を触る。どこにも傷は付いていないし、あの時肌身離さず持っていた平蜘蛛も、どこにもなかった。
夢だったのだろうか。
夢にしては、やけに現実味があった。久秀の顔も、良く覚えている。だが、今になって思うと、どこか既視感があった。
亡くなった父親に、心做しか似ていた気がしたのだ。
悪党を自傷する狡猾さはないし、歳が似通っていたということでもない。だが、どこか似ていた。
今日は、乙女の大学入学を控えた大事な日だ。初めての一人暮らしを心配して、死んだ父が夢を見せてくれたのだろうか。
それにしては物騒な夢だった。どうせならば楽しい夢を見せてくれれば良かったのに。
そう思いながら、テレビの電源を入れる。一人暮らしというのは寂しいもので、テレビの音で気を紛らわせようとしたのだ。
「なに、これ」
テレビの画面に映し出されていたのは、とあるニュースだった。
「幻の茶器、古天明平蜘蛛が発見されたのは……」
アナウンサーが読み上げたのは平蜘蛛発見のニュース。夢の中で乙女が守ろうとしたものではないか。
それに、よく見れば映し出されているのは父方の祖父母宅だった。
父が亡くなってから、乙女は父方の祖父母との関わりがなくなってしまっていた。母と祖父母の折り合いが悪かったからだ。
だが、久しぶりに行ってみるのも良いかもしれない。
今週末、一人暮らしを始めたばかりだったが、祖父母宅を訪れるのも良いかもしれない。
亡き父と平蜘蛛、そして、平蜘蛛と共に自害した梟雄、松永久秀の為に。
(20240429)