あの日の燕
小さい頃、私は若様のことが好きだったのだと、今でも強く思う。

彼は少し年上で、まるで兄のようだった。私の父親は彼と彼の父親に仕えていたから、私は良く城に連れていかれた。初めは退屈だと思っていたけど、そこで出会ったのが若様だった。

艶のある黒髪を結い、藤色の綺麗な目をしていた。私は彼の後ろをよく着いて言ったものだ。

「若様のお嫁さんになりたい」と何気なく言ったこともある。若様に対してなんと無礼な、と叱られることもあったが、彼は優しく私の頭を撫でてくれた。

彼は強い人だったと思う。年齢にしては背が高く、私が持てないような重い剣を軽々と振るっていた。

その動きは空を舞う燕のようだった。剣術に優れた彼ならば、どこまででも飛んでいけそうだと思った。九州だけじゃなくて、天下にも名を轟かすのも不可能では無いのだと。成長するにつれて、彼はより将来を期待された。私も生涯を彼に捧げようと思った。私も含め、皆に慕われている人だったから……私はそんな彼のことが、大好きだったのだ。

けれども、それは叶わなかった。九州の地は私たちのものでは無くなってしまった。支配者が変わっただけならば、まだ良かった。

天下人は私たちを完全に排除しようと動いた。天下人に適うわけが無い。それは誰もが感じていたのだと思う。けれど挑発に乗らざるを得なかった。皆この地を愛していたのだ。

反乱を起こせば、当然戦火は広がる。私の父親は忠義を尽くしたが、帰ってこなかった。攻め寄せてきた軍勢は勢い盛んで、私の住んでいた屋敷にも手を伸ばした。母は父の訃報を聞いた後に自害した。屋敷の人間はそれに続いて自刃するか、散り散りになって逃げてしまった。私には何も残されなかった。自害する勇気も出ずに、私は見ず知らずの男の妻になった。そうするしか、私は生きることが出来なかったのだ。

それでも、若様のことを忘れることは出来なかった。多くの人間の死が風の噂で伝わってきたが、彼の生死は依然として不明だった。

剣術に優れた人だから、人知れずどこかで生きているのかもしれない。そう信じて日々を送る。私を娶った男もそれに気づかないほど馬鹿ではない。子を身篭れば大人しくなるだろうといって強引に事に及んだこともあった。嫌悪感しか感じなかったが、どちらが悪いのか、未だに私が孕むことはなかった。

男も私だけでは満足出来ないのか、家に帰ってこないこともあった。そして面倒なことに町でで諍いを自分から起こす。私が謝罪に行くこともあった。使用人は彼の横暴さに耐えきれずに職を辞すか、男の怒りに触れて解雇された。いつまでこの日々が続くのか、うんざりする。

今日も男は帰ってこない。また何かしらの問題を起こしたのだろうとぼんやり思う。だが、そうしていると脱兎のように男が転がりこんで来た。
明らかに様子がおかしい。慌てて彼に近寄ると、彼の体は血に塗れていた。

「た、助けてくれ……」

「助けが欲しいの? なら救ってあげる。君のお仲間のようにね」

大きな影が見えた。その瞬間、私が声を上げる間もなく気づけば彼の首が落とされていた。血が吹き出て、私を濡らした。

「ひっ」

思わず私は後ずさるが体が上手く動かずに、床にへたり込む。視線を目の前に向けると、長い刀を持った背の高い男が居た。刀を振るうと、血がぼたぼと床に落ちる。

男の顔は、暗くてよく見えない。それでも白粉を塗っているのであろう真っ白な顔と、この場所に散らばっている血のように赤い唇はよく目立っていた。

「弱者を斬っても、刀が汚れるだけだ。可哀想な人をどれだけ斬っても、満たされない。可哀想な人はいっぱい居るんだもの」

男はそう呟き、長い刀を鞘に納めた。男が近づいてくる。私は一歩も動けなかった。

「けれど、君がいた」

男はしゃがみ、視線を私に合わせる。暗い中では、やはりはっきりとした表情は読み取れない。色素の薄い瞳が私を見つめた。そこには微かな既視感がある。

「君は可哀想な人間だ。でも僕が綺麗に斬ってあげなくても、君は昔からずうっと、綺麗なまま」

そう言って男は私の頭を撫でた。意味の分からないおかしな男。恐ろしい、と思った。けれど、私は知っている。この男の掌も、瞳の色も。既視感は確信に変化した。

「久しぶりだね、乙女」

男は笑う。ああ、こんな再会が存在するのか。ずっと待ち望んでいたはずなのに、あの時の彼と、目の前の彼が同じ人だと信じたくない、そんな気持ちがあった。

夫のことは好きではなかった。それでもいきなり目の前で彼の命を散らし、死を救いなのだと語るこの男と、私が好きだった彼を同一視するのは、今の私には出来そうにない。

「……若様」

それでも、目の前のこの男が若様であることは紛れもない事実なのだ。彼は何も言わずに口角を上げて、こう呟いた。

「僕のお嫁さんになってよ」

かつての私が言った戯言を、彼は忘れていなかった。心臓が跳ねる。無邪気な笑顔を浮かべる彼は、ついさっき人を殺したことなど覚えていないかのようだ。

「わかさ……あぁっ」

私が何も言えないでいると、肩を強い力で掴まれ、冷たい床に押し倒された。記憶の中にある彼はさらに大きく成長し、私の抵抗なんかなんの意味もなさない。口調だけがあの日のままの子どものようで、それがより一層彼を不気味に思わせた。

目線を逸らせば事切れた男と目が合う。血なまぐさい匂いは未だに鼻を突いていた。それが苦しくても、私を覆う彼から逃れることもできずに再び彼と目を合わせるしかない。

「君の嫌いな人間も、邪魔な人間も、皆斬ってあげるから。僕のつがいになって」

こんなに獰猛な燕なんて、私は知らない。

(20231228)
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