だって俤は不死だから
「寒い」
乙女は羽織を何枚も着てうずくまっている。その姿はどこか滑稽であり、とても彼女が戦場で敵を切り結ぶ勇姿とは結びつかない。
近頃急激に気温が低下し、ここ越後では冬の気配が迫っていた。近いうちに雪が降るかもしれない。
「この程度で寒いと言っているようでは、ここで生きていくことなどできまい?」
謙信はそう言って乙女の羽織を一枚奪い取った。乙女は目だけを謙信に向け、残りの羽織を奪われないようにと指先の力を強めた。その指先は冷たく、羽織を握っているだけでは中々温まらなかった。
「こんなに寒いなんて知らなかった。私のいたところはもっと暖かいところでしたから。……もう、暖かさなんて忘れてしまったとさえ思っていましたけど。そんなことはなかったのかも」
何となく、口を滑らせてしまったと乙女は感じた。これまで謙信に自らの情報を開示したことはあまりなかったのだ。それなのに羽織を奪うという悪戯じみた行為をされたということも含めて、乙女は自分が謙信から並々ならぬ感情を抱かれているのではないかと危惧している。
そんな彼の行動に関しては。決して長い付き合いではないものの、どことなく彼らしくないように思えるのだ。
謙信は奪った羽織を自分の肩に掛けた。彼は動かずにいる乙女と目を合わせる。
「そなたが客将としてやって来てからというものの、我ら上杉には光が差した。そなたの力は何物にも代えがたい。だからこそ、寒さ程度にやられているようでは先が思いやられるものだ、と思ったのだが」
謙信は障子を開け放った。寒さがさらに入り込んでくる。謙信は平気なようで平然としているのが乙女には信じられない。並々ならぬ感情を抱かれている……と感じていたものの、それは杞憂なのだろうと呆れた。武を買ってくれているだけなのならば楽でいい。それ以上ともなれば越後にはもう用はないと言っても良かった。
「私はただの食客ですから、頼みにされるのも困りものですよ。それに、本当に冬場はお役に立てないかもしれませんから。私が来たのは春先で、その頃は確かに戦いの腕は存分に発揮できていましたけど」
謙信は何を思ったのか、肩に掛けていた羽織を再び乙女の背中に掛けた。冷たい風は相変わらず乙女の体を冷やす。彼の行動は理解不能だ。
「そなたは一体、どこからやって来たのだ」
先程までの威勢が消えた。謙信は床に坐し、できる限り乙女と目線を合わせる。
行く宛てがない。武働きなら自信があるという乙女を、謙信は是の一言で受け入れた。そこからずっと止まっていた時が今この時動き出したかのようだった。時は明らかに流れ続けているのに、乙女から見た謙信はいつも変わらなかった。だが逆はそうとは限らない。謙信は急に押し黙った。人が変わってしまったみたいだと乙女は思った。そんな彼は不気味だ。うるさく喋っているほうがずっと彼らしいのだ。
「……ここから随分と、西の方です。雪なんて、全然降ることもないような」
「なぜ越後にやって来た?」
鋭い眼光。彼のこの目付きを乙女は戦場で見たことがある。平時に話している分では彼のことを恐ろしいと思ったことなどなかった乙女だったが、これを見ていると敵が慄くのも頷けた。嘘を吐くなんて、この瞳の前では無理だと観念した。正道をゆくのだと大声で誓っているだけあって、他者にもそれを無意識に強いる力があるのだろう。それにまんまと引っかかっている乙女の心には、気付かぬうちに彼の義が植え付けられているのだった。
「……故郷で私たち含めた豪族たちの諍いがあって。そして私は攫われそうになって……そんな所を、隠し持っていた刀でその人を殺して逃げ出しました。そこからです。各地を流浪し始めたのは。あれから故郷には戻っていません、一度も」
多くは語らなかった。攫われるなんて生易しい言葉で済まされないことをされてしまったということまでは言えなかった。
「よく言ってくれた。そなたの言葉はしかと胸に刻む」
「……刻むほどのものでは」
そうは言ったものの、乙女は謙信がそれ以上のことを聞かなかったことが何よりも嬉しかった。謙信は武士であるにしては清い人間だ。そんな彼に、自分は穢れてしまっているのだということを打ち明けることはできないと思った。それを察していてもそうではなくとも、ただ彼が正義をこよなく愛しているのだという一点が乙女に希望を与えた。ここにやって来たのは間違いではなかったと分かったからだ。
「外道を憎むのは当然のこと。私は今すぐにでもそなたを傷つけた輩を成敗したいくらいだ。やはり、私はこの世に正道を示さねばならぬ。それが我が使命なのだ」
「私の言ったことが本当か分からないのに。あなたに仕えているわけでもない人のことを簡単に信じてよいものなのですか」
「信じる。そなたは今、寒さだけに震えているわけではない。私には分かる。……何も言わなくともよい」
ああ、そうか。乙女は、さらにぎゅっと体を縮こませた。過去の体験は予想以上に深い傷となっているのだ。
謙信がわざと障子を開けたのは、乙女に嫌がらせをしたいなどという短絡的で意図が見いだせない理由ではなく。謙信は乙女という人間の確信に迫ろうとしていた。その結果乙女が言い淀んでも声が震えても手足さえ動かせなくなっても、全てを寒さのせいだと言い訳できるようにしていたのだろう。謙信の質問に上手く答えることができないのは乙女のせいではない。この凍てつく寒さのせいなのだ。
思慮深く、人の上に立つとはこのことなのだと乙女は思った。
「……無理に答えろとは言わぬ。故郷に帰りたいと、そう思ったことが一度でもあるか」
西へ戻ることは二度とない。乙女は自らを狙った男を殺して、それからずっと独りでいた。親兄弟の行方も知れず、全てが崩れた。もう一度あの地を踏んで、そこに何があるのだろうか。暫しの間考えて、乙女は結局、頷いてしまった。
「私も、そなたの故郷に行ってみたいものだ。いや、行ってみせよう。……この乱世に正しきを示せば、為せるに決まっている」
謙信はそう言い残して、障子を開け放したまま出ていってしまった。
その立場の割には、無謀な所がある男だ。この越後は、雪に阻まれ上洛するにも一苦労する。次の春が来る頃には情勢はまた一段と変わってしまっているだろう。乙女が生まれ育った地は京よりも西にあるのだ。それでも微かな道筋が見えたようだった。
上洛してその志を天下に示すよりも前に、ただ目の前の人に手を差し伸べるべきだろうと乙女は思っていた。権力者の考えることは、謙信に限らず分からないものだと。
雨に濡れ路頭に迷う人間に止まない雨はないのだと説くのではなく、拭くものを今すぐ差し出すべきであると。それが為政者のあり方なのではないかという思いが乙女の確固たる考えだ。だが謙信はその両方をやってのける気がするのだ。雨に濡れた人間をさらに海に突き落とすような、故郷の憎い男どもとは違うのだ。
寒い夜は心細い。しかし春の陽光の中、花々が血で汚れたあの時に比べれば幾分か心強かった。
雪が降っている。ここの所、雪は積もり続けていた。これでは到底戦などできまい。義を重んじることと同様に、戦でその義を示すことを大切にしている謙信は歯噛みするばかりだ。
あれからそう月日は経っていない。乙女は羽織を手放さずにいるものの、外に出て雪を眺めていた。
「あれほど寒いと言っていたにしては、随分と平気そうではないか」
謙信の声は思いのほか大きく、乙女は思わず吹き出してしまった。そんなに大きな声を出さなくとも聞こえているというのに。
「……あれから、ずっと考えていたのですが」
負けじと乙女も普段より大きな声を出した。
「私は、寒くても何でも、ここが好きになってしまった……かもしれないから! 謙信公がいる、ここが好きだから! 」
何で、こんなに近くにいるのに大声を出しているのだろうか。胸の中にいるもう一人の乙女は困惑していたが、お構いなしだった。
「ここを故郷にしたい! 春になればここから去ろうと、一瞬だけ思ったこともあった、けれどももうそんなことは考えられないのです!」
謙信は、もしかしたら雨すら止ませるほどの力を持っているのかもしれない。そんな考えすらよぎったものだったが、手を差し伸べた謙信の姿が何よりも忘れられないのだった。謙信は理想を重んじ、形のないものをも大切にする。しかし、乙女の言葉を聞く彼の姿こそが乙女の理想だった。それは大太刀を振るう姿よりも馬を操る姿よりも、ずっと英雄然としているように見えてしまったのだった。
「乙女……私は、嬉しいぞ」
謙信は満足気だった。彼が戦場で時折見せる、戦いを楽しんでいるときのような表情が垣間見えた。それほどこの言葉を喜ばしく感じているのだと乙女も分かった。
「そなたは春の日差しのようでもある。雪の美しささえ霞むほど艶やかだ。それは戦場の外でも同じ」
乙女は自分の言いたいことばかりを言い切った満足感で、謙信の言葉を上手く咀嚼することができなかった。
「……何ですか、それ。私は武働きしか脳がありませんよ。それを承知の上で、あなたについて行きたいのです!」
乙女が望んでいるのは、あくまでも士官先、そしてここに骨を埋める覚悟だ。乙女は戦う力があったからここまで生き残ってしまっただけとはいえ、戦わずにいるという生き方を考えたことはなかった。
しかし謙信が言おうとしていたことは、まさにその「戦わなくてもいい生き方」の勧めだった。
「そなた一人程度私が面倒を見てやろうではないか! そなたはこれまで決死の思いで戦ってきた。その身を休めることも重要だ」
謙信は乙女の手首を引っ張って、共に部屋へと引き揚げてしまった。乙女は謙信の言っていることがさっぱり分からない。自分の力を買っているから、寒さ程度にへこたれていては困ると謙信が言っていたのはつい先日のことだからだ。
「でも私、他に何も、」
「そなたは何も考えずにいても良いのだ。ああ、私は何と幸せ者なのだ。そなたのような正しき信念を持つ者と巡りあえたことは僥倖というもの!」
謙信なりの“口説き文句”を乙女が逃げ出したくなるほど受けることになろうとは、まだ予想すらしていないことだった。
乙女が密かに危惧していた「謙信が抱いているかもしれない、並々ならぬ感情」はずっと前から存在していたのだと知るまではあと僅かだった。
最も、謙信は乙女に無理強いをするつもりもなかった。元々勢いに任せてこうしようと予め考えていたということでもない。戦から離れた謙信は、策略とは無縁な単純で分かりやすい男だった。ただ乙女が心を開いたことが堪らなく嬉しく、宙を舞う花びらのような彼女がこの雪が舞う越後を選んだ喜びに酔いしれていた。
謙信が乙女の手首ではなくその冷えきった指先を握るのは、まだ先の話になりそうだった。それを承知の上で、謙信は手首を取っていたのだ。
(20251025)